2004.06.27.

イザヤ書講解説教 第20回

――5:26-30によって――

 
 預言者イザヤの書がどのようにして成り立ったかについて、確かなことは我々には何も分かっていない。学者たちはいろとな説を立てていて、それらが我々の学びを助ける場合も多い。その読み方によって益が与えられる場合は少なくない。しかし、つねにそうであるとも言えない。
 どう読んで行くかについて、議論することを避けて、我々はキリストの教会が「イザヤの書」として伝えられ、また伝えて来た、その形のままで読み進んできた。もとは、このままではなかったのではないかと思われる機会も何度かあったが、文章の順序を問い直して我々に何か益のある発見があるとは到底思われないので、世々の教会が伝えて来たままの形で今日も読み進むほかない。
 聖書を読む時、人の知恵を借りることは決して悪いことではない。その助けがあってこそ意味が読みとれる場合がある。それでも、借り物の知恵がなければ聖書が読めないというようなことになっては困るし、借り物の知識で一応分かったというところで、安心してしまって、それ以上救いの真理を掘り下げる意欲を失うようなことになってはならない。なるべく自分の努力で読み解くようにしなければ、読み取ったことが自分の知恵にならないし、救いの道にならない。
 「禍いなるかな」、「禍いなるかな」という言葉がしきりに繰り返される下りをこのところイザヤ書の中で続けて読んで来た。その言葉を繰り返して聞くことが、今の我々には相応しいと思わないではおられなかった。我々が毎日、自分の肌で感じている現代の息苦しさ、いや、自分自身のスグ隣で起こっている悲劇、報道によって知らせられている世界各地における日々の惨劇、そういう中で我々もまた「禍いなるかな」と叫ばずにおられなかった。そのように日常的に感じている「禍いなるかな」が今、聖書で読んでいる「禍いなるかな」と同じと見て良いとは言えない。これは神の発したもう嘆きの「禍いなるかな」である。日本語の「禍いなるかな」と聖書の「禍いなるかな」は言葉の含みも違う。それではあるが、今日の状況が「禍いなるかな」と言われる状況と別だと思っては、これまた大間違いである。だから、このような文章を来る日も来る日も読ませられて、退屈であると感じることはない。それどころか、神の言葉のもとにある民として、禍いの満ちた世にありながら、慰めの言葉を聞くことが出来る幸いを思わずにおられない。
 いや、我々自身の幸いというような言い方をしていてはいけない。神の言葉を受けている者としてこの時代の中に生きているのは、我々の使命なのだ。ピリピ書2章15節に、「あなた方は、命の言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」という言葉を我々は自分自身の今日のものとして聞き取るのである。神の言葉を聞いて、それを堅く保ちつつ、今の時代の中に生きること、これなくしては生きる意味はない。これがあれば、他の点では何も出来ていないかのようであっても、それだけで存在の意味があると約束させる。
 勿論、「神の言葉を堅く保つ」とピリピ書で言われることと、「禍いなるかな」と日々感じながら生きていることとは混同すべきでない。けれども、日々に「禍いなるかな」と慨嘆せざるを得ないところで生きていることと、御言葉に日々に立つこととを結び付けることは困難ではない。
 さて、今日イザヤ書で学ぶ言葉は、前回学んだ「それ故、主はその民に向かって怒りを発し、御手を伸べて彼らを撃たれた。山は震い動き、彼らの屍は巷の中で、芥のようになった。それにも拘わらず、御怒りはやまず、なおも御手を伸ばされる」という言葉の続きである。先の節の言葉をもう一度繰り返し学びたくなるなるところ、それは断念して先に進むことにするが、「御怒りは止んでいない」という言葉は心にズッと残しておこう。今日の世界もそうなのだ。「神よ、もう禍いは沢山です。世界には屍が満ちているではありませんか。人々はもう打ちのめされ切っているではありませんか。殺戮を放置するのはやめて下さい」と我々は心からそう叫ぶ。けれども、禍いは止まない。日増しに酷くなって行く。神はおられないのであろうかと疑う人も出て来る。しかし、そうではない。神が生きておられるからこうなのだ。
 新しい裁きが加わるのである。
 「主は旗を揚げて遠くから一つの国民を招き、地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは走って、速やかに来る」。
 見たことも聞いたこともない、地上に類例のない、物凄く精強な軍隊が押し寄せて来るというのである。彼らが殺到して何をするのか。もちろん、主の命令によって主の民を討ち滅ぼす。「掠め去っても救う者がない」と書かれるだけである。が、どのように滅ぼすか。それは30節まで読んでも書かれていない。30節のことはそこへ行った時に触れることにするが、この大軍が一糸乱れぬ速やかな進撃をして来ることだけで、人々は殆ど息が絶えてしまうのである。
 「地の果て」から呼び出されるというのはどこの国民であるか。この問いに答えようとする幾つかの試みがある。イザヤ書7章にスリヤとイスラエルの連合軍の侵入の記録がある。36章にはアッスリヤの侵略が書かれている。だが、7章にある戦争は、最も近い国からの侵略であり、今日学ぶ26-30節に描かれているような圧倒的な制圧ではなかった。「気をつけて静かにし、恐れてはならない」と7章4節に書かれている御言葉が解決になる。だから、その禍いの予告が26節以下だと解釈することは出来ない。
 では、アッスリヤの攻撃の予告と見るべきであろうか。アッスリヤはスリヤよりはずっと北であるし、その侵入はもっと大がかりなものであった。御使いが18万5千のアッスリヤ軍を破ったために、彼らは急遽引き下がるほかなかった。では、今日学ぶ預言はこのことについて言われたのであったのか。そう取っている人もいる。そう解釈する人に敢えて反対することはしないでおくが、この預言は、特定の事件の予告と必ずしも取らなくて良いといえるのではないか。
 3つのことを考えるのであるが、1つは26節から29節に亘って書かれているこの軍隊の有様である。余りにも完璧な戦闘集団なのである。もう1つは、先にも触れたが、この軍隊のエルサレム到着後の破壊的活動については何も書かれていないことである。もう1つ、他の預言者が関連したことを語っていないかどうかである。似たことがある。
 エゼキエル書38章39章に、神が預言者エゼキエルに命じて、北の果てからゴグとその軍隊を呼び出させ、その大軍を主ご自身の送りたもう火によって滅ぼしたもうところが書かれているが、この預言の実現したことはついに書かれていない。また、エゼキエルの没後にこういうことが実現したとも言えない。つまり、ゴグに関する預言は預言者の通常の預言ではなく、黙示録的な語り口になっていることに気付くのは困難ではない。イザヤ書5章の終わりもそうではないかと考えられる。
 イザヤによって語られた「遠くから」、「地の果てから」呼び寄せられる軍隊。これがどの国の軍隊かを尋ねるのは余り意味がないのではないか。エゼキエルの預言には北の国から来るゴグの軍隊のことがあったが、それが現在我々の知っているどの国なのかを考えても殆ど意味がないのと同様である。ゴグという名は、民数記22-24章に出て来る神話的な人物、バラムとバラクに関連しているらしい。
 詳しく調べたことはないが、作り話の寓話の中にこの名前が語り継がれて、やがてヨハネの黙示録20章8節にゴグとマゴグの二人の名として登場する。すなわち、終末に関して出現すべく備えられた象徴的人物として語り伝えられて行くことになったのではないか。それはどうでも良いが、今日学ぶ26-30節の預言は黙示録的なものとして読むべきであろう。
 実際的に歴史の中で起こったセナケリブの侵略とか、サルゴンの侵略とかを当てはめなければ納得出来ない場合はあろうが、そうしなくても我々には十分得心出来る場合があるのではないか。実在の事件でないと思い定めよというのではない。例えば、御使い、天使というものがある。これに出会った人は我々の間にはいない。自分は出会った、と主張する人がいるとすれば、その天使の姿はどうであったか、と周囲の人々は訊くであろう。その結果分かることは、その人の見た天使像はかつてどこか、写真集とか、博物館で見た天使の絵画や彫刻がその人の頭に刷り込まれて残っていて、その記憶が出て来たのだということが分かる。
 天使というものに出会って、そういうものがあるのを確認し、それを信じなければならない、ということはないないのである。しかし、神がもし必要とされるなら、今も天使を用いて御業をなさせたもうと信じることは必要である。
 同じように、神が地の果てに大軍団を待機させておられ、必要に応じて、その大軍を瞬時に動員させるということは、理解出来ていなければならない。今、ここに読むのもそういう軍団である。
 これは当時としてはあり得ないほどの速さで、神の召しに答えて駆けつける軍団である。そもそも軍隊の動員は、言うのは簡単だが、言い出してから実行まで、なかなか時間と手間が掛かる。平時の体制では動員は無理であるから、戦時体制をまず作らねばならない。馬を揃えなければならない。馬の餌も準備しなければならない。生身の人間が動員されるのである。イナゴの大群がパッと飛び立つように簡単には行かないのである。
 前の節では「山が震え動いた」ということを聞いた。歴史に残るほどの大地震であるが、いつの地震と符合するかは調べがついていない。その大地震によって多くの死人が出たが、それでも人々の悔い改めは始まらず、主の怒りも止まず、なお御手を伸ばされる。地の果てからの攻撃部隊はどんどん接近して来ている。それを悠長に運ばれることとして見ないほうが良い。
 「主は旗を挙げたもう」。現代の人は戦争と旗の関係を知らないであろうが、前の世紀の初めに、電波が通信に利用され始めるまで、軍隊の遠隔通信は専ら旗によっていた。荒野を旅するイスラエルの大集団も、支族ごとに別れて、それぞれを印づける旗を立てるとともに、旗で連絡を取り合っていたらしいことが分かる。そういうことがここでは譬えとして引かれている。
 「地の果てから彼らを呼ばれる」。その「地の果て」というのがどこであるか、問うことに意味はないと先に言った。「地の果て」とは人間の知恵では問うても分からない所という意味であると取ればよいであろう。では、それは、神のみもとからというのと同じになるか。そうではない。この軍団は聖なる者ではない。「滅ぼす」という命令を神から受けて実行するのであるから、滅ぼす天使と同格と見られるかも知れないが、そのような価値ある者ではない。
 エゼキエルの預言にあったゴグの軍隊が主から送られた火によって滅ぼされ、彼らの残した武器はイスラエルの町々に住む者らが7年に亘って燃やす。すなわち、彼らはその間、森から木を伐ることなく、専ら武器を燃やし続ける。神の裁きを実行するのではあるが、その者自身も用済みの後には消される。
 「その中には疲れる者も、躓く者もなく、まどろむ者も、眠る者もない。その腰の帯はほどけず、その靴の紐は切れていない」。全速力で疾走しながら何の綻びも示さない。完璧に訓練されて整備された騎兵部隊である。
 「その矢は鋭く、その弓はことごとく張り、その馬の蹄は火打ち石のように、その車の輪はつむじ風のようにように思われる」。戦車を連れた騎兵部隊であって、戦車の上から射手が矢を次々に放ち、敵陣を蹴散らす。防御は出来ず、逃げることすら難しいのである。
 「その吼えることは獅子のように、若い獅子のように吼え、唸って獲物を掠め去っても救う者がない」。騎兵隊の奥行きの深さは、正面にいる者には見えないので、それを知らせるために、鬨の声をあげる。それは。聞いただけで震え上がるほど恐ろしいのである。獅子が獲物を攫って行っても、それを救い出すことは誰にも出来ない。
 さて、この騎兵隊はエルサレムにすぐに到着したであろうが、大殺戮はしなかったのか。そうではないであろう。しかし、そのことは書いていない。そして、別のことが書かれている。
 「その日、その鳴りどよめくことは、海の鳴りどよめくようだ。もし、地を望むならば、見よ、暗きと悩みとがあり、光りは雲によって暗くなる」。
 殺戮の場面ではないが、これはまさしく預言者的な主の日の表現である。アモス書5章18節以下は有名である。「禍いなるかな、主の日を待ち望む者よ、あなた方は何ゆえ主の日を望むのか。これは暗くて光りがない。人が獅子の前を逃れても熊に出会い、また家に入って、手を壁に着けると、蛇に噛まれるようなものである。主の日は暗くて、光りがなく、薄暗くて輝きがないではないか」。多くの人は主の日の到来に憧れていた。その日が来れば何もかも良くなる。――だが、主の日は暗黒の日、裁きの日なのだ。
 もう一つヨエル書2章1節2節を挙げて置こう。「あなた方はシオンでラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹き鳴らせ。国の民はみな震いわななけ。主の日が来るからである。それは近い。これは暗く、薄暗い日、雲の群がる真っ暗な日である。多くの強い民が、暗闇のようにもろもろの山を覆う。このようなことは昔からあったことがなく、後の世々の年にも再び起こることはないであろう」。
 ヨエルの書からもう一箇所見る。2章30-32節である。「私はまた、天と地とに徴しを示す。すなわち、血と、火と、雲の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変わる。全て主の名を呼ぶ者は救われる。それは、主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、逃れる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある」。
 ヨエルという預言者の年代を知る手がかりがないので、全体を同時代人として纏めることはできないが、預言者が協力し合っていたという証拠はないのであるが、同じような御言葉を語っていたという事実は歴然としており、そういう事実があるのは当然だと我々は理解している。
 「それにも拘わらず、御怒りは止まず、なお、御手を伸ばされる」。そこに見えて来るものが何であるかが明らかになった。それは終わりの日なのである。立ち帰りの余地のない最終の時が来ているのである。
 5章で、神の裁きにより人々、とくに支配階級が酒びたりになる姿を見たが、それは主の裁きである。その裁きによっても悔い改めがないので、主の手がさらに伸ばされ、あり得べからざる裁判が起こり、大地震が起こり、それでも悔い改めが起こらないので、御手はさらに伸ばされる。ついに終わりの日が来るのである。こういう預言は昔のことなのか。いや、今の我々の世のことであると聞き取らずにおられないのである。
 

目次