2004.04.25.
イザヤ書講解説教 第19回
――5:18-25によって――
「禍いなるかな」の預言はさらに続く。――「彼らは偽りの縄をもって悪を引き寄せ、車の綱をもってするように罪を引き寄せる」。
「悪が悪を引き寄せる」と言えば分かり易いかも知れない。良い物のところへ悪を持ち込むのでなく、悪がさらに大きい悪を引き寄せるのである。ただし、ここで、悪が悪を引き寄せると言う場合、人間の関与がなくて、人は欲していないのに、禍いが自動的に次々と増加して行く、という状況を考えていてはならない。悪意を持っていない人間が禍いに襲われ、その禍いがさらに大きい禍いを呼び寄せる場合が少なからずあると我々は知っている。貧乏が貧乏を引き寄せ、病気が病気を引き寄せた、と言うほかない悲劇がある。その場合も「禍いなるかな」と言う。しかし、今、イザヤの預言で学んでいるのはそのことではない。悪が自動的に増幅するのでなく、人為的に増大するのである。
不幸な人がますます不幸になって行く場合、それが神の計画から出たことを否定してはならない。けれども、これをバッサリと神の審判、あるいは神の報復というふうに決めつけてはならない。ここには人間の浅はかな知恵では捉え切れない神のもっと深い御旨がある。その御旨を問うことによって、信仰者はさらに深い祝福の認識へと導き入れられるのである。ここで主イエスの苦難を偲ぶのである。主は神の怒りを受けたもうた。
しかし、今日、イザヤ書によって学んでいるのは、それよりずっと単純なことで、神の怒りと裁きの現われである。いや、悪に対して裁きが行なわれて、それで決着が付くというだけではない。25節の終わりには、「それにも拘わらず、み怒りはやまず、なお、み手を伸ばされる」と記される通りである。
彼らの悪がさらに悪を引き寄せるのは確かである。だが、悪人が自らの招いた悪によって自滅すと見られなくないが、それで終わるのではないということを見なければならない。「自業自得」という言い方で、分かったような顔をしてはならない。さらに恐るべきものが次にある。
ところで、ここに「彼ら」と呼ばれているのはどういう人たちか。それについては既に学んでいるが、思い起こして置こう。全体として、5章は良き葡萄畑の譬えから始まるように、良き葡萄として植えられた物が劣悪な野葡萄に変わってしまった。そういう頽落したイスラエルである。ここでは、三つの点をたい。第一は、13節の初めに「我が民」と呼ばれたように、これは神がご自身の民として選ばれた者の中で起こったことである。人類一般にも当てはめられる部分は大いにあるが、ここでは神の民の間で行なわれる罪が問題だということを忘れてはならない。
第二に、同じ13節の後の方に「その諸々の民」と言われたように、このイスラエルの民の一部ではなく全体の裁きが神の裁きの視野に入れられていることを心得て置きたい。自分は別であると思ってはならない。
第三に、今、預言者の言葉が鋭くスポットライトを当てている一群の人たちのことを特に見なければならない。8節で言われた、「彼らは家に家を建て連ね………」。家に家を建て連ねることも出来ない人は多くいた。その人たちを除外すると言うと前項で言ったことと矛盾するし、確かに度外視すべきではないが、一応別として扱うのが正確な読み方であろう。11節に「彼らは朝早く起きて、濃き酒を追い求め………」と言われていることについても、同じように考えなければならない。
要するに、18節以下で、「禍いなるかな」と呼び掛けられている「彼ら」は、ユダの社会の中の有力者、富める者、権力ある者、権力を持つが故に自分の言うことは通ると自信満々な人たちである。それ以外の人は裁きから免れたと安心してはならないのであるが、しばらくは除外して置いて良い。
「彼らは偽りの縄をもって悪を引き寄せ、車の綱をもってするように、罪を引き寄せる」と預言者は言うが、彼らが縄を引けば、車を引き寄せるように禍いが引き寄せられるのである。つまり、彼らが引き寄せなければ、この種の禍いは来なかった、という意味がある。また、彼らが別の車の綱を引いたなら、別の車が引き寄せられたということでもある。
彼らは権力者であるから、政策を決定する。もっとも、彼らが思いのままに国の政策を牛耳ることが出来たと考えるわけではない。神の許可なしには人間の如何なる計画も成就しない。だから、彼らの立てた悪しき政策が行なわれて、国のうちに不幸が起きたならば、神がそのことを一時的に是認しておられたということである。
例えば、税金をどのように割賦するかは、権力者が決める。彼らは自分らに有利なように税金を沢山取り立てる。しかし、自分たちが特権的に振る舞っていることが目立たないように取り決める。余り目に立たないので、不満の声が起こるのは余程露骨な場合だけであるが、大きい視野で見れば、不公平でないように見えたところが実は不公平だということが分かる。
綱を引くという比喩がうまく言い表しているが、車が動いて行くのは見えるが、車を引っ張っている綱は、一部の人が知っているが、多くの人からは見えない。預言者には見えているのだ。神は見ておられるからである。
神はこれを「偽りの縄」と呼びたもう。「偽り」の心をもって仕掛けられた縄である。初めにも見たように、不幸が不幸を呼び寄せるという実例は珍しくない。その場合、縄で引っ張るという比喩は用いてもよいが、引っ張らなくても禍いがやって来る。まして、「偽りの縄」と呼ばれるような意図的な仕掛けは要らない。
19節に入るが、「彼らは言う、『彼を急がせ、その業を速やかにさせよ。それを見せて貰おう。イスラエルの聖者の定める事を近づき来たらせよ、それを見せて貰おう』と」。
これは神をあざ笑う言葉である。ひいては預言者の語る警告に対する揶揄、からかいである。すなわち、神を恐れぬこの人たちは、このようにあざ笑って言う。「預言者は神の裁き、神の裁き、と言うが、裁きはいっこうに始まらないではないか。それを速やかに実現して見せて貰おうではないか。イスラエルの聖者と言われている方の定め、それが本当であるなら、速やかに実現するよう近付き来たらせて見よ」。
預言者は誰もその生涯の大部分の時間、このような嘲りに曝されていた。例えば、イザヤの語ったエルサレムの陥落と破壊、これが預言者の在世中に起こったなら、人々は預言者を尊敬し、自分たちが預言者を揶揄した非礼を詫びたであろう。しかし、その預言の実現は彼の死後であった。
救いに関する預言は幾分違うと言えば違うが、結局は同様である。救いは忽ちに実現しないから笑われる。だが、救いは約束だけで聞く人に慰めを与える。期待して待っておれ、と言い続ければ、人は大体納得してくれる。幸いの予告が外れて、艱難が襲って来ても、この禍いはしばらくしか続かない。神は恵み深い方だから、恵みの時を近く来たらせて下さる、と言えば、人々は承知してくれる。預言者エレミヤの時代、主の預言者と称する者が割合多くいて、そういう種類の偽りの預言を語って、人々から人気を博した。
そういう中で、神の裁きを預言し続けるエレミヤは、人々から嫌われ、侮蔑され、迫害された。禍いだ、禍いだ、と言っても、禍いは実現しないではないか。それは偽りを語ったことではないのか、と預言者自身、良心の苦衷を味わう。
イザヤの場合、状況が違うと言えば、違うのであるが、結局は同じである。神に命じられて語るのであるが、語った通りにはならない。預言者は召されてこの務めについたのであるから、言った通りにならないからといって、絶望したり、神の反抗したりはしないが、それが苦痛であることは確かであり、預言者はその苦痛に耐えなければならない。
20節に入って行くが、新しい「禍いなるかな」である。先の段と内容が非常に違うとは言えないが、テーマは違う。彼らの悪は一層露骨に表れている。
「彼らは悪を呼んで善と言い、善を呼んで悪と言い、暗きを光りとし、光りを暗しとし、苦きを甘しとし、甘きを苦しとする」。
二つの意味が考えられる。判断が公的にも私的にも狂う。当時、不正な裁判が横行していた。裁判において正しい判決は下らず、悪をなす者が刑罰を免れ、それどころか善人と言われる。一方、富める者から先祖の土地を騙し取られた貧しい者が訴えても、掠められたものは戻って来ない。不正を裁くための裁判が、かえって不正を助長している。
不正な裁判の原因は賄賂である。あとに来る23節にはハッキリ書いてある。「彼らはまいないによって、悪しき者を義とし、義人からその義を奪う」。――義人と悪人とが裁判で黒白をつけようとする時、悪人は悪人なるが故に賄賂を用いて裁判官を買収して勝つ。裁判官は、賄賂をくれる人に有利な判決をしたのである。
しかし、狭い意味の賄賂だけでなく、結果として利益が帰ってくることがあるなら、同じと見てよいであろう。また、自分としては正しい判断を曲げたつもりはないとしても、自分の置かれた環境の中では、間違いが間違いとは感じられないということもあったであろう。これもまいないに準ずるものである。
彼らがもし裁きの座に座る身分でなかったなら、賄賂も貰わないし、素朴な感覚によって物を見るほかないから、善は善、悪は悪としたかも知れない。確かなことは言えない推測だが、彼らの地位が判断を狂わせたと考える余地は十分ある。余談になるけれども、我々の国では、最近になって、裁判には素人が関与しなければ間違いを犯すということに気付いた。しかし、普通の人が加わったなら、判断の誤りはなくなるかというと、多少減るだけで、なくなりはしないであろう。人間には過ちはつきものである。
とにかく、裁きをなす者には、厳粛にこれを行なわねばならないという神の命令が、頻りに与えられるのである。そして、神を恐れることのなくなったこの時代、裁判を曲げることが、平気で行なわれるようになった。これは神の戒めを無視したことであるだけでなく、神からの離反によって、正しいことを正しいと判断する感覚をなくしたことでもあると見なければならない。
この20節では、公けの正義を明らかにしなければならない裁判が、不正に行なわれるだけでなく、あらゆる判断が、私的生活の面でも歪むということをも指摘している。苦い物が甘く感じられれ、闇が光りのように思われる。
21節、「禍いなるかな、彼らは己れを見て賢しとし、自ら省みて、聡しとする」。自分自身についての判断の狂いである。人間にはもともとこういう傾向がある。だから、本当の賢人、知恵者に教えられて、真の知恵が何であるかを探求しなければならない。しかし、自分が無知であると気づくよりは、自分が知者だと思い込む方がずっと容易なのである。
箴言には、神を恐れることが知識の初めである、と教えられるが、神を恐れてこそ、自分が如何に無知であるかが分かるのである。
22節、「禍いなるかな。彼らは葡萄酒を飲むことの英雄であり、濃き酒を混ぜ合わせることの勇士である」。
英雄とか勇士という言葉は、もともと軍人の中の優れた者のことを言った褒め言葉であるから、これは軍人たちが軍務に励むことをやめ、惰弱に流れ、質素な生活を嫌って、朝から酒を飲んで遊んでいたことを批判したのかも知れない。11節12節にも朝から酒盛りに耽る者のことが言われたが、同じ人たちのことかも知れないし、違うかも知れない。
葡萄酒は国内で産する普通の飲み物であった。上等の葡萄酒を争って飲むということはかつてはなかった。貧富の差が生じて、富む者らがだんだん贅沢になったのであろう。こういう贅沢が行なわれたとは、反面、貧に苦しむ人が増えていたという意味である。
24節からは神の裁きが述べられる。「それ故、火の舌が刈り株を食い尽くすように、枯れ草が炎の中に消え失せるように、彼らの根は朽ちた物となり、彼らの花は塵のように飛び去る。彼らは万軍の主の律法を捨て、イスラエルの聖者の言葉を侮ったからである。それゆえ、主はその民に向かって怒りを発し、み手を伸べて彼らを撃たれた。山は震い動き、彼らの屍は、巷の中で芥のようになった」。
枯れ草や枯れた木の株が火に舐め尽くされるように、今わが世の春を謳歌している者らは消え失せるのである。根が残れば、そこから新しい芽が出るかも知れないが、彼らの根まで朽ちている。何も残らない。
彼らの花は飛び散った。花のあとに実が残ることはない。花は美しかったとしても、それだけであった。空しいのである。彼らの派手な美しさは僅かの期間しか保たれなかった。
それは彼らが主の律法を捨てたからである、と判決理由が語られる。先に「我が民」という言葉について学んだ。神はこの民を「我が民」と呼び、日々、必要な賜物を与えるのみでなく、永久的な恵みを約束し、一方で彼らの守るべき律法を与えたもうた。神の律法を持っていることこそ、神の民であることの実質とは言わない方が良いだろうが、その徴し、その証しであった。
しかし、彼らは主の律法を捨てたのである。単に捨てただけでなく、神への宣戦布告をしたのである。それとともに、主の民としての栄光を失なった。ちょうど、5章の初め、葡萄畑の歌で示された通りである。主なる神から全ての恵みを受けていたのに、恵みを受けたに相応しい実りを結ばず、それどころか、良い葡萄が植えられたのに、食べられないほど酸い野葡萄になっていた、と言われた通り、その葡萄畑は滅ぼし尽くされるのである。
それ故、主はその民に向かって怒りを発し、み手を伸べて彼らを撃たれた。その情景は「山は震い動き、彼らの屍は巷の中で芥のようになった」と短く表現されるが、どんなに悲惨であるかは十分読み取れる。敵軍の姿は描かれていないし、どこから来たとも書かれていないが、28節にある、遠くから呼ばれた国民が神の報復を遂行するのであろう。エルサレム攻撃のすさまじさが描かれた。エルサレムの城壁を崩そうとして、破城槌や石投げ機が据え付けられ、山々を揺るがす大音響で衝撃が与えられた。そして、勇士たちは屍を曝す。誰も葬ってくれない。
最後に、25節の終わりの部分を学ぶ。「それにも拘わらず、み怒りは止まず、なお、み手を伸ばされる」。罪を犯した者が滅び失せても、怒りは収まらない。罪人らがもう一度滅びても神の怒りはまだ満足しない。人間の背反によって生じた神の怒りはそれほど大きいのだ。では、どうして宥められるか。預言者の書のここには答えは書かれていない。しかし、我々は知っている。この怒りを宥める方はイエス・キリストしかないのである。
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