2004.03.28.

イザヤ書講解説教 第18回

――5:13-17によって――

 
 「それゆえ、わが民は無知のために、とりこにせられ、その尊き者は飢えて死に、そのもろもろの民は渇きによって衰え果てる」。
 「無知」というのは前の12節の終わりで、「しかし、彼らは主の御業を顧みず、御手のなされる事に目を留めない」と言われたところを受けたものである。すなわち、無知とは神を知らないことである。あるいは、神を知り、神を信じることこそが知恵と知識の根元であるということを知らない無知である。
 彼らはいろいろなことについての知識に富んでいる。金儲けの知識、大きい家を建てる知識、酒についての知識、歌舞音曲についての知識。それらについては、この民の歴史の中で、今が最高である。すなわち、昔も酒はあった。人々は婚礼の時などにそれを飲んでいた。しかし、朝から晩まで飲むような人はいなかった。そういう記事は、以前の時代には殆ど読むことが出来ない。しかし、今では朝から酒宴を開くというようなことが、上流階級の中では珍しくなくなった。
 かつての時代、人々は、金持ちと貧乏人の違いを問わず、朝早く起きて、営々と働かなければならなかった。しかし、イザヤの時代には、遊んで暮らすことの出来る階級が作られたということであろう。資産を殖やすことが流行になっていたことはすでに見た。神から受け、先祖から受け継ぎ、殖やさず、減らさず、したがって、不平等が起こらなかった社会の中に、他の人の資産を横取りする者が現われた。こういう社会の変動について、我々には十分な知識も理解力もないので、詳しく論じることは出来ないが、上に述べた程度のことなら、誰にも分かる。したがってまた、そういう時代の中で神が預言者をして正義を語らしめたもうたことも十分読み取れるであろう。
 それならば今、我々の周囲はどうか。豊かな者はいよいよ豊かに、貧しい者はますます貧しくなって行く。我々は当然、今日の社会における正義、平等という問題について考え、論じ合い、必要に応じて行動を起こさねばならないであろう。しかし、今朝、我々は御言葉を聞くために集まっている。
 「わが民は無知のために虜にせられた」と言われる。「虜にせられ」とは、虜として引き行かれるという意味の言葉である。それならば、今現に他国から侵入して来て、人々を拉致して行く事件が起こっているということかも知れない。すなわち、国の中の安寧を守る任務にある者が、朝から酒盛りをしているようなことでは治安は守れない。
 しかし、虜にせられるというのは、来たるべき日のバビロン捕囚の予告かも知れない。それは預言者イザヤの死後に起こった。今の禍いなのか将来のことなのか。どちらとも取れる。この「虜にする」という言葉は、イザヤ書ではここにしか遣われていないので、意味を的確に捉えることは非常に難しい。ただ、「わが民」と言われた言葉についてはよく分かる。神はこの民を愛して、こう呼んでおられるのである。神は通常、その民を直接に手ずから導き保護したもうのではなく、これを養い導く者を立てて、導かせたもう。それは、エゼキエル書34章で教えられたように、牧者、すなわち王である。その王の務めが正しく果たされていないから、民が虜にされるということなのかも知れない。王でなくて、直接には司たちの責任だと見る方が適切かも知れない。いずれにせよ、政治の責任は大きい。
 「無知のため」と書かれているが、政治家たちの無知なのか。下層民が無知であるから自らの破滅を引き寄せているのであろうか。これは両方を含めて捉えなければならないであろう。すぐ続けて、「その尊き者は飢えて死に、そのもろもろの民は渇きによって衰え果てる」と書かれているのは、支配階級だけでなく、下々の者にも、報いとしての禍いが下ることを告げていると取るべきであろう。
 「無知」という言葉に関心を集中させよう。この言葉を厳密に定義する必要はないであろう。これは知るべきことについて学んでいないことでもあり。注意すべき事柄に不注意なことでもあり。知識というよりは知恵と思慮が浅いことでもあり。理解がないことでもあり。その他、広い意味がある。最も根元的なことについても、結果として現れたことについても言われるのである。
 その広い意味をどう把握するかは簡単である。すでに触れたが、無知とは、神についての無知である。箴言1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである」と記される。知恵は最も大事なものであり、聖書でも重んずべきこととしてしばしば語られているが、その割に信仰者の間で語られる場合は少ない。語られるときには、神を恐れることと逆のものになってしまい勝ちである。それに気付いている人は、教会に集まった時には知恵を語らない。
 聖書には、箴言とか、伝道の書とか、ヨブ記とか、専ら知恵について語る書が多く含まれている。しかし、それは余り読まれていない。神の民に知恵を教えることが大切だということは分かっているはずだのに、知恵の教えを聞く機会は乏しい。信仰と知恵とは両立出来ないかのように考えられている。
 これは誤解だ。知恵と知識には二種類ある。この世の知恵は確かに意味がない。だから、その知識が貧しくて、金儲けが一向に出来ないとか、人よりも高い地位につけないというようなことは当然なのだ。しかし、知恵と知識が豊かに養われていた方が隣り人により良く仕えることが出来るし、また深い知恵を鍛え上げて置いた方がより良く教会に仕えることが出来る。さらに、御言葉を学ぶときにも真の知恵があった方が、御言葉をシッカリと身に着けることが出来る。このような知恵の教育は、今日の教会においてかなり杜撰である。
 そのために、信仰、信仰、と主張される割に、信仰がキチンとしないことがある。神が与えて下さる祝福が、それ自体は豊かなのだが、それを受ける器が不備だからであろう、ザルに水を注ぐように、祝福の豊かさがよく輝き出ていないのだ。今日は「神の民」ということと、「知恵」とが結び付かねばならないことを教えられるのであるから、神から「我が民」と呼ばれるに相応しい者となるように、知恵を身に着け、知恵を鍛えることを学ぼう。
 コリント人への第1の手紙の1章30節に、「キリストは神に立てられて、私たちの知恵となり、義と聖と贖いとになられた」と書かれている。これが、知恵について教える最も重要な聖句である。我々の知恵はキリストなのである。キリストのうちに知恵があるというだけではない。キリストが私に与えられて私の知恵となりたもうた。彼は同時に私の義となりたもうたのだから、キリストを捉えることによって私は義となる。そういうわけで、キリストに固着する限り、我々には知恵の乏しさを憂えることはない。また、我々の知恵を鍛えるために、どうすれば良いかということも自ずから明らかになる。つまり、キリストに従って行けば良いのである。
 今、我々の知恵が何であるかが明らかになったが、これに関連して、それがどのような知恵であるかにもう少し触れて置く。同じ書簡の同じ章、少し前のところで、使徒パウロは、「このキリストは、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者にとっては、神の力、また神の知恵たるキリストである」と言う。我々の知恵となられたキリストが、神の知恵なのだ。ここに神の民としての非常に大切なことが示されている。
 世の知恵しか持たない人には、神の知恵が知恵とは受け取れず、愚かと見えるのである。彼らにとってそのようにしか見えないということが我々にも分かっているが、我々はもう一種の知恵を与えられているから、愚かと見えるものこそが知恵であるということを知っているのである。十字架の躓きが、私にとって躓きでなく、救いの確信になるという逆転が起こったのである。
 神は13節で、御自身の民の無知を嘆いておられるのであるが、今日の神の民についても、神が嘆きたもうことはないのか。今日の神の民であるキリストの教会の無気力、敗北意識、物わかりの悪さ、世界が滅びて行こうとしている時なのに現実感覚のこの鈍さ、それを神が見過ごしておられると思って良いのであろうか。
 14節に入って行く、「また、陰府はその欲望を大きくし、その口を限りなく開き、エルサレムの貴族、そのもろもろの民、その群衆、およびそのうちの喜び楽しめる者はみな、その中に落ち込む」。
 先の節では必ずしもハッキリ見えていなかった滅びが露わになって来た。陰府が口を大きく開いて、地上の者らをゴクゴクと呑み込んで行く。陰府とは死人の世界であるから、陰府が口を開いて人を呑み込むとは、例えば、疫病が流行して、次々に死者が出たということかも知れない。
 「エルサレムの貴族」が筆頭に上がるのは彼らの堕落が著しく、その裁きが先ず起こるのである。具体的にどういう禍いが起こるかは読み取れない。しかし、11節、12節で読んだ頽落現象が先ず貴族のうちに拡がったことは確かだと考えて良いであろう。貴族というものは、昔のイスラエルにはいなかった。砂漠の民であった時代は勿論、カナンに定住して後もそうであった。先住民を奴隷として使ったことはあるが、イスラエルの間には平等の原理が守られていた。貴族が発生したのは、有力者が出て来たからであるが、それは家系の中の筆頭の者とか、王の血族もあったかも知れないが、地方からエルサレムに出て来て、資産を殖やした人、役人になって賄賂で儲ける人たちが次第に身分を高めて行ったということではなかろうか。貴族がみな悪いとは言えないと思うが、悪い人が多かったし、社会の変動期に機会を捉えて資産を殖やすことの出来る人は大抵欲深い、狡猾な人間であったであろう。
 貴族のみでなく、「もろもろの民」が矢張り滅びに遭うのである。その群衆およびそのうちの喜び楽しめる者は皆その中に落ち込む。「群衆の中の喜び楽しむ者」とはどういう人であろうか。特別に軽薄な人たちのことかも知れない。特に意図をもって名を上げられているのではないと思う。 
 「人は屈められ、人々は低くせられ、高ぶる者の目は低くされる」。――人々が屈められ、低められるという言い方は、2章6節以下にしきりに用いられた。それは万軍の主の日の到来の予告の一節であった。高ぶる人は低められ、人々が低められるのと反対に主が高くされたもう。
 人間が高ぶること、これが主の最も嫌いたもうことである。それゆえ主は彼らを強制的に低めたもう。
 「しかし、万軍の主は公平によって崇められ、聖なる神は正義によって、己れを聖なる者として示される。こうして、小羊は自分の牧場におるように草をはみ、肥えた家畜およに子山羊は荒れ跡の中で食を得る」。
 15節から始まっていることであるが、大雑把に言って、裁きがあって、回復がある。しかも、これで終わりになるのではなく、これはこの後まだまだ続く「禍いなるかな」の歌の一部である。一部ではあるが、それなりに完結している。裁きと回復が読み取れるように示されている。
 第一に、これまで無視され低められていた神の栄光の回復を読まなければならない。神の栄光が低められたままで終わってはならない。必ず、神の栄光を確認し、それを誉め称えなければならない。
 次に、神の栄光を回復するものは何かである。主は公平によって崇められる。神御自身の公平の故に崇められるのであって、人間が公平な立場に立って神のために名誉回復をして差し上げるというものではない。人間にはそれだけの資格もないし、そういうことを思い付く能力もない。神は御自身の公平によって崇められたもう。公平というものは、人には思い付くことは出来るとしても、実現は極めて難しい。なぜなら、生来の人間は己れを愛することしか出来ないからである。
 これでは互いに憎み合い、傷つけ合う他ないので、自己愛を制限し、公平をある程度実現させる強制力が働き、また公平が大切だとの悟りが人類の共通財産になって行く。けれども、この公平は頭の内に、また言葉としてはあっても、この世で現実の力を持つことは極めて稀であり、しかも短時間しか保てない。回りくどいことを言って来たが、公平とは神のものと言えばスッキリする。
 聖なる神は正義によって御自身を聖なる者として示したもう。これは注意すべき教えである。聖であるとは何に依存することなく、それ自身で聖であるから聖なのである。神が聖であることを示すために、正義であることを示さなければならない、ということはない。しかし、神は御自身を分かりやすく人々に示すために、正義によって御自身の聖を示したもう。つまり、正義であろうとしても、正義を現実化できないのが人間であるゆえに、神は正義を示すことによって、御自身が聖なる神であることを示されるのである。
 17節を我々は回復を示すものと読みたい。これは、回復の姿でなく、陰府が口を開けてエルサレムにいる人間を呑み尽くし、あとには羊が草をはむ草原しか残らないことを言うのだと主張する人もいる。それが正しいかも知れない。7章の終わりに、「その地はただ牛を放ち、羊の踏む所となる」というのはそれしか役に立たないという意味だが、5章17節も同じ主旨かも知れない。
 しかし、ここは主の栄光の回復と結び付いている。主の栄光が回復し、神は正義によって御自身を聖なる者として示したもうのに、人間がいなくて羊と山羊がいるだけというのはおかしい。神の栄光が現れるところに人の救いもある。
 そこは、かつては家に家を建て連ねた町であるが、それがそのように回復しなくて良いのである。荒れ跡と言われるが、もとは何もなかった所だ。人間にとって繁栄は喜ばしいことであろうが、もとの繁栄に返ることが御旨にかなうとは言えない。羊が平和に草をはむその静けさがあればそれで良いのである。
 

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