2004.02.29.

イザヤ書講解説教 第17回

――5:8-12によって――

 
 「禍いなるかな、彼らは家に家を建て連ね……」。場所はエルサレムとしておこう。預言者がその家々を眺めている。そこは山の上の町で、山の上にギッシリと邸宅が建っていた。
 今日風に言えば、建築ブームである。富裕な人々は競って家を建てる。すでにあった建物にはさらに建て増しをしている。盛んなものである。いわゆる泰平と繁栄の時代の風景である。
 しかし、主なる神は言われる、「禍いなるかな!」。――したがって、神から遣わされた預言者も、この風景を眺めて、結構なご時世だ、と喜ぶのでなく、声を上げて泣き出すのである。「禍いなるかな」と訳されている言葉は、その訳で良いのであるが、「禍い」という意味があるのでなく、これは感嘆詞である。泣き声そのままである。「ああ悲しいかな」あるいは「アーン、アーン」と泣き叫ぶ声である。
 「禍いなるかな」という嘆きの声は、旧約にも新約にも、頻繁に出て来ることを我々は知っている。特に預言の中に多く現れる。裁きのすさまじさを生々しく描き出すものである。
 どうしてか。二つの言葉を見なければならない。一つは、「自分一人国のうちに住まおうとする」である。これは、家に家を建て連ね、田畑に田畑を増し加えた結果、自分一人しかこの国の中に住む者がいない孤独になる、と取ることも出来なくないが、そうは取らないようにしよう。そして、他者を無視した傍若無人の態度を示すものと受け取って置くことにする。この態度に対する審判が下るのである。
 もう一つは、「万軍の主は私の耳に誓って言われた、『必ずや多くの家は荒れ廃れ、大きな麗しい家も住む者がないようになる』」という御言葉である。神は必ず報復すると誓いたもう。
 この二つの言葉はどう結び付くのか。分かり易く言うならば、原因と結果である、と捉えて良いだろう。しかし、今は栄えているように見えるけれども、やがては破滅する、というふうに、二つのことを分けて考えるのでない方が本当は良いと思う。今、栄えているように見えるけれども、そう見えるだけで、裁きは始まっていて、その裁きが隠されているから見えないだけである。
 「自分一人、国のうちに住まおうとする」というのを、上に述べたような、他者を押し退ける意味に取るのであるが、これは二つの意味を含むように思われる。第一は、他者というのは人であって、人を押し退けて、土地を独占し、自分が住む、という意味である。つまり、隣り人が住んでいるのに、それを追い出して、そこに自分の家の建て増しをするのである。
 当時の状態はどうだったのであろうか。イザヤの時代とほぼ同じ時代に生きて、預言者としての姿勢も同じであったと知られるミカの預言を見ると、2章1節以下にこう言われる。「その床のうえで不義を計り、悪を行なう者は禍いである。彼らはその手に力ある故、夜が明けるとこれを行なう。彼らは田畑を貪ってこれを奪い、家を貪ってこれを取る。彼らは人を虐げてその家を奪い、人を虐げてその嗣業を奪う。それゆえ、主はこう言われる、うんぬん」。
 同じことが書かれていると言わない方が良いかも知れない。ミカが指摘しているこの時代の罪は、イスラエルが神から授かった嗣業を、強い者が弱い者から掠め取るというもっと酷い悪逆である。したがって、主の刑罰も少し違って、単なる他国の侵略でなく、神からの嗣業がなくなることである。「わが民の分は人に与えられる」。「われわれの田畑はわれわれを捕らえた者の間に分け与えられる。それゆえ、主の会衆のうちには、籤によって測り縄を張る者は一人もなくなる」。神の民にとって神からの恵みとして一番大切なのは嗣業の地である。これを子々孫々受け継いで、終わりの日に神にお返しするのが務めであった。それが失なわれるとは、かなり大きい失墜である。
 とにかく、土地と家を国の中で取り合いっこするのである。と言うよりも、民のうちに権力を持つ者が暴虐を働くのである。そのような有力者が進んで悪を行なうのが実情だということをミカは指摘している。「ヤコブのかしらたちよ、イスラエルのつかさたちよ、聞け。公義はあなたがたの知っておるべきことではないか。あなた方は善を憎み、悪を愛し、わが民の身から皮を剥ぎ、その骨から肉を削ぎ、また我が民の肉を食らい、その皮を剥ぎ、その骨を砕き、これを切り刻んで、鍋に入れる食物のようにし、大鍋に入れる肉のようにする」。
 イザヤの預言に戻るが、16節に、「禍いなるかな、彼らは偽りの縄をもって悪を引き寄せ」とあるが、縄というのは測り縄、今で言えば巻き尺である。これで土地の測量をし、ここは私のものだ、と言って人を押し退けて取り上げる。本当は人の土地なのだが、巻き尺が不正であるから、人の分が自分のものになってしまう。
 測り縄はどの家にもあるわけでない。金持ちしか持っていない。そして、金持ちは大小二通りの測り縄を用意して置き、自分には有利になるよう使い分ける。二種の升や秤や測り縄を持つことは神の律法では禁じられているが、彼らは二種の計器を作る力があるから二つ持つ。
 測り縄とは基準である。その基準によってある事が不法であり、ある事は合法となる。二種の尺度を使い分けると、他の人と利害が反する場合、自分にはいつも有利な尺度が適用される。有力者はつねに自分が合法であるような法律を持ち出し、無力な者はその保護を受けない。その人たちは犯罪を犯したわけでもないのに、住むところを追い出されて行く。「自分一人、国のうちに住まおうとする」とはそのことである。他の人を全部殺して自分だけ生き残る、ということではない。正義を自分に都合の良いようにだけ適用し、自分以外の人のために正義が行使されることを求めない人があるとすれば、それは「自分一人国のうちに住まおうとする」人である。我々はもう、これは昔の事件ではないと気付かなければならない。今でも自分一人国の内に住まおうとする人々がいて、そういう人たちが力を持ち、そういう人たちから閉め出されて、住むところを失なって行く隣人がいることを見落としてはならない。
 さらに、我々は現代における有力者が不正を犯しているのは目に余る、と言うだけであってはならないことに気付かなければならない。自分にさえ禍いが降り掛からなければ良いと思ってはいけない。それは、この世では合法化されていて。犯罪とは言われない。けれども、神は生きておられる。主は我々が何もしないのを見ておられる。「これらのいと小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」と我々の主は言われる。
 「自分一人、国のうちに住まおうとする」ということには隣人が目に入らないという他に、もう一つの面がある。すなわち、神が目に入らないのである。大きい家を建て終わって、我ながら良くやったと満足している人は、詩篇127篇の「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」という聖句を忘れているのである。
 彼らは、例えば祭りの日に神を忘れていないように見える。それは社会生活を営むという次元での神礼拝で、礼拝に行かなければ、人から正しくない男だと思われるから、社会人としての対面を保つために礼拝に行くだけである。決して心から神を愛し、また神を恐れているのではない。神が生きておられることが本当に分かっているならば、不正はできない。
 「禍いなるかな」と嘆かなければならないのは、9節に書かれてある通りの理由によるのである。「万軍の主は私の耳に誓って言われた、『必ずや多くの家は荒れ廃れ、大きな麗しい家も住む者がないようになる』」。――多くの家とは、目の前に見えている多くの家という意味である。これが滅びる。すなわち、エルサレムが滅び失せる、と言われるのである。
 イザヤは神の声を聞いたのである。これはイザヤ自身の発想による予告ではない。マルコ伝13章の初めにあるが、主イエスの弟子たちがエルサレムの宮を出て行く時、「主よ、ご覧なさい。何という大きい建築でしょういか。なんという大きい石でしょうか」と語り掛けた。それに答えて、主は言われる、「あなたは、これらの大きな建物を眺めているのか。その石一つでも崩されないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
 ここに一定の型があると見てほぼ間違いがない。すなわち、人々の満足し、感心するような建造物を見ても、主の民は感心して眺めているのでなく、この建物が崩れ落ちる日がいつか来ることを思わなければならない。必ず崩れる、と断言して間違いではない。すなわち、昔から今日に至るまで、巨大な建造物で崩れなかったものは一つもない。だから、これは崩れ去るという公式を適用して良い。
 しかし、主イエスがエルサレムの宮の崩壊を預言したもうたのは、来たらんとする特定の事件を指して言われた預言である。今ここでイザヤの言うのも、神が誓って語りたもうた預言である。
 公式通り、この預言は実現したのであるが、我々は注意すべきである。神の語りたもうことまで公式化してはならない。神はマニュアル通り行動したもうことはない。その都度、一つ一つのケースに真実と慈しみをもって対応しておられる。したがって、我々は神が必ずこうされるに違いないと言うとき、神に自由があることを忘れ、自分の言うように神がなしたもうと思い上がってはならない。
 今の場合、神が誓って言われたという点にも注意を払って置きたい。必ずこうなる、私は嘘をつかない、と神が言われたのである。すなわち、神御自身がそれを必ず行ないたもうと言われたのである。
 さて、今度は目をエルサレムの城壁の外に移して見る。「田畑に田畑を増し加えて、余地を余さず……」。エルサレムの郊外に場所を移したと見ても、エルサレムの中から外を眺めたとしても、どちらでも良いのであるが、余すところなく耕されて、作物が茂っている。何も知らないで眺める人でも、美しい田園風景だと思うであろう。その畑の持ち主自身ならば、なおのこと満足感は大きい。
 しかし、預言者の精神をもってこの風景を眺める者には、「禍いなるかな」という叫びを発せざるを得ないであろう。
 「10反の葡萄畑も、僅かに1バテの実を結び、1ホメルの種もわずかに1エパの実を結ぶ」。10反というのは、1匹の牛が1日に鋤で耕す広さ、それの10倍である。ここで言う1反は、英語で言う1エーカーと同じである。40.46アール、それの10倍である。その広さの葡萄畑を歩きまわっても僅かの実しか集めることが出来ない。1バテというのは3.6リットルになる。
 1ホメルは230リットル。それだけの種を蒔いて、収穫は1エパ。すなわち、播いたものの10分の1しか取れない。種を蒔かなかった方が良かったのだ。
 最後の11節、12節に進む。「禍いなるかな、彼らは朝早く起きて、濃き酒を追い求め、夜の更けるまで飲み続けて、酒にその身を焼かれている。彼らの酒宴には琴あり、竪琴あり、鼓あり、笛あり、葡萄酒がある。しかし、彼らは主の御業を顧みず、御手のなされる事に目を留めない」。
 これも「禍いなるかな」で始まる。家が立ち並んでいるのを見て、あるいは田畑が茂っているのを見て、禍いなるかな、と言うのは預言者らしい。しかし、今回はちょっと違うようである。預言者的な目で見なくても、すでに破滅の相がが見えているではないか。これは酒をたしなむという程度ではなく、かなりの中毒症状になっている。破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいる人の姿が描かれれている。
 これは明らかに上流階級にのみ見られた頽廃ぶりでああろう。貧しい人は朝早くから働かねばならなかった。庶民層が健全であったというわけではない。14節では、「貴族、もろもろの民、群衆、そのうちの喜び楽しめる者は皆……」と言うから、全階層に腐敗が広まったと見なければならない。しかし、今、ここでは、上流の、働かなくても贅沢三昧に暮らせる人たちのことを言っている。
 朝から晩まで、仕事をしなくても生きて行けるのは問題だ。彼らにも仕事はあったはずだ。あったけれども、ごまかしていたのだ。例えば、役所のデスクワークのような仕事である。やろうとすれば、幾らでもすることがあり、直接の仕事でないが、国の将来のために学んで置かなければならない学びはたくさんあった。朝から酒を飲んでいる人は、手を抜けば殆ど何もしなくて良く、僅か残ったことも下役にさせて置けば良いという地位の人であった。
 聖書にはこのように朝から濃き酒を求める人のことは余り出て来ない。ローマ書13章にも酔う者は夜酔う、と言う。それも夜の業であってキリスト者には縁遠い。キリスト者はパウロが使徒行伝20章でエペソの長老に勧めているように、自分で食べる分は自分で稼ぎ出すだけでなく、人を助ける分も働かなければならない。人に働かせて自分は贅沢するというのは、殆ど犯罪である。
 「濃き酒」というのは、庶民がお茶代わりに飲む普通の葡萄酒と違って、蒸留酒であったであろう。彼らは薄い葡萄酒には飽きて、深く酔わせてくれる酒を求めた。22節には、「濃き酒を混ぜ合わせる勇士」という表現があるが、酒については実に詳しい。初めは贅沢で、良い酒を求めていたのかも知れないが、中毒になってからは、酒に身を焼かれるほどになることを求めた。そこまで、彼らの人格破壊が進んでいた。
 彼らの酒宴の席にはいろいろな楽器があった。その楽器の演奏者が呼ばれて来ていたか、彼ら自身がそれらの楽器を奏でることが出来たか、それはどちらでも良い。贅沢な酒宴を開いていたのである。
 彼らの宴会には葡萄酒がある、ということが書かれているのは、どういうことか良く分からない。ある人はこの葡萄酒は、もはや飲むためでなく、床に流すとか、頭から浴びるとか、巫山戯たことに使ったのであろうと解釈するが、そうかも知れない。今日も高価なシャンパンを頭から浴びることに浪費する見栄を喜ぶ人がいるということである。
 彼らの酒宴にはいろいろな物がある。しかし、主の御業を顧みるということはない。主の御業とは何か。一つは我々の救いである。もう一つは裁きに相応しい者の裁きである。彼らはその二つを全然顧みようとしなかった、

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