2004.01.25.

イザヤ書講解説教 第16回

――5:1-7によって――

 
 イザヤ書の中でも文章の美しさで有名な箇所である。預言者によって「愛する者のための、愛の歌」と呼ばれる。「愛する者」とは神のことである。神が愛する者であることは今日の箇所では特別強調されているとは言えないが、神への愛は軽んじてはならない。
 「愛の歌」という言い方が、耳に馴染みのない言葉として響く感じを持つ人がいるかも知れない。だが、聖書の中ではところどころでこれは聞かれるのである。われわれの聖書の並べ方でいえば、イザヤ書の一つ前に置かれているソロモンの「雅歌」が愛の歌である。これは愛し合う男女の歌の交換の形をとっている。
 こういうものが聖書の中に収めるのは、不適切だと憤慨する人、こんなことで良いのかと戸惑う人がいるかも知れない。聖書の権威を重んじたくない人は、これは昔のヘブルの恋愛歌がここに紛れ込んだのであろうと考える。しかし、神と人との愛を、男女の愛になぞらえることは聖書では決して稀なことではない。旧約では、多くの箇所にわたって神とイスラエルの関係が、夫と妻の関係になぞらえられる。新約では、エペソ書にキリストと教会の関係が婚姻に譬えられる。
 男女の愛が肉的な関係を代表するものとして、霊的な事柄を慕い求める者にとって警戒すべきであると警告されることがしばしばあることを、われわれは承知している。それが人生の道を狂わせることがあるし、本人だけでなく、第三者の家庭を破壊することもある。さらに、これは本性に従ったもので、何が悪いか、と開き直ることによって人間の自然を肯定し、人の道を覆す恐るべきものとしての正体を暴露する。
 しかし、そのことを恐れて、所謂「禁欲的」な姿勢を取って、律法の禁止条項を増やして、人間性を抑制することによって、愛の重要さが見えなくなり、神の愛が分からなくなる危険がある。
 この問題は、別の機会に改めて論じる事が適当であるから、今はこれ以上は深入りしないでおくが、簡単に言うならば、本当の愛と、愛の腐敗してものは別なのである。その区別をつけることはそれほど困難ではない。栄養が豊富にある食物ほど腐敗した時には毒性が強い。
 イザヤ書の本文に戻って、一語一語見て行くことにしよう。私にはその実際がよく掴めているわけではないのだが、「愛の歌」というのは歌そのものとして甘美な調べ、聞くに心地よい響きの歌ではなかったかと思われる。そして、預言者イザヤがこの預言を人々に語った時、その甘美な歌を歌って聞かせたのではないかと想像される。聴衆がウットリと聞いているうちに、「ところが結んだものは野葡萄であった」という思い掛けない帰結になる。
 ところで、神の愛についての言葉は、比較的聞き易くまた理解しやすいのではないかと思われる。われわれも神の愛について説教されると、喜んで聞く。そのことについて気難しい評論をしようとすれば、出来なくはない。神は愛であるが、人間の本性は罪に染まっているのが現実であるから、神の愛を受けることが出来ない。愛について考える資格もない。………そして、延々と罪のことを論じなければならない。だが、今、それをしようとは思わない。というのは、愛の歌が空しく終わるのを読まなければならないからである。「ところが、結んだものは野葡萄であった」。
 では、人間の側の不信仰や忘恩によって、神の愛は空しくされてしまったのであろうか。神とはそんなに無力なものなのか。そうではない。神の力は愛として働きかけるのであるが、それを拒む者に対しては、厳しい裁きとなる。
 さて、「野葡萄」とここで言われているものがどういうものかは分からない。「野葡萄」と訳すのが正しいかどうかも分からない。悪い葡萄とか酸い葡萄と訳する人もいる。全然別の種類の植物かも知れない。福音書に出て来る「毒麦」というのは、食べると有毒であるという意味はないが、麦でない、食用に適さない別の植物である。そのように、一見似ているけれども、別のものかも知れない。あるいは、葡萄であることには違いがないが、俗に「先祖返り」と呼ぶ異変が起こって、品種改良を重ねるうちに失われた性質が突然変異で子孫に現れることかも知れない。
 いま預言者の言葉を聞いている人の大部分は、エルサレムの市民であって、葡萄作りの農民はいなかったと見てよかろうが、直接その栽培に携わる人でなくても、葡萄畑は見慣れているし、栽培に関することは常識として知っていた。ここで譬えに引かれる細々したことのいちいちについて説明なしで良く理解出来たはずである。葡萄や葡萄畑の譬えは預言者にも主イエスの説教の中にも多く出て来る。
 エレミヤ書2章22節に、「私はあなたを全く良い種の優れた葡萄の木として植えたのに、どうしてあなたは変わって、悪い野葡萄の木となったのか」という言葉がある。この譬えは、イザヤ書5章と主旨も同じである。エレミヤがその伝統を受け継いだと見てよいのであろう。
 葡萄の木の譬えを他の預言者の中にも見たついでに、関連はないのであるが、エゼキエル書15章の譬えにも触れて置く。「人の子よ、葡萄の木、森の木のうちにある葡萄の木はほかの木に何のまさる所があろうか」。――葡萄の木は木そのものとしては役に立たない。器ものを作る材料にならない。釘にもならない。ただ、実を実ならせてこそ価値がある。ところが、森の中に生えている葡萄の木は木の陰になっているから、蔓は延びるけれども実は結ばない。全く取り柄がない。抜いて捨てるほかない。イエス・キリストが「私は葡萄の木、あなた方は枝である」と譬えをもって語りたもうた時、キリストに繋がっていない枝は枯れて、焼かれるのみ、と言われた譬えは、エゼキエルの譬えの方に繋がるものである。
 エゼキエル書の譬えとイザヤ書の譬えは大いに違う。森の中に生えて来た葡萄の木は役に立たない。
 「土肥えた小山の上」の葡萄畑は、森の木のなかに枝を伸ばしている葡萄の場合と全く対照的である。そこは土が肥えている。小山の上だから日当たりがよい。良い実を結ばないはずがない。
 場所として好条件であるとしても、土に石が混じっていては、栽培には不都合である。だから農夫は土を深く掘り起こし、篩に掛けて石を取り除いたのであろうか。こうすれば申し分ないではないか。
 いや、良い収穫があっても、盗人に取られてしまってはいけない。そこで物見櫓を建てて、盗難に備えた。もうすることはないか。葡萄が取れ過ぎて、無駄になってはいけない。そこで、酒ぶねを掘っておく。酒ぶねとは、地面に大きい穴を掘って、漆喰で固めたものである。こうすれば、取れた葡萄はそのまま酒ぶねに入れ、それを足で踏んで、袋を潰しておけば葡萄酒になる。
 これらの処置は比喩であるから、正確なところ何であるかを突き止める必要はない。持ち主として労を惜しんで省略したことは一つもない。良き実を結ぶべき葡萄の木が、実を結ばなかっただけである。
 ここで、われわれは「良い実を結べ」と主イエスが教えられたことを思い起こさずにおられない。これは、言うまでもないことであるが、良い実を結ぶのが当然であるという意味で教えられたものある。「あなたは安閑としていては、悪い実しか結ばないのだから、寸暇を惜しまず努力して、良い成果を上げるようにせよ」という訓戒とか激励というものではない。
 そうではなく、あなた方は生まれ更わった「新しい人」なのだから、新しい人としての実を結ばないわけはない、と言われている。そうすると、この葡萄畑の愛の歌は単に旧約のイスラエルのことを言う比喩として読むべきではない。これはよそごとでない、ということを良く心得て置きたい。
 ただし、それが結論であると解釈するのは正しいが、最終結論に達する前に、旧約の文書をキチンと読み取って置かねばならない。
 「万軍の主の葡萄畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である」と7節で言われる。「この葡萄はキリスト者であるお前のことである」と言われたと取って良いのではあるが、先ず、キリスト以前のイスラエルの歴史を読み取らなければならない。すなわち、救いの歴史を学び取らなければならない。
 さて、我が愛する方は、葡萄畑のために、なすべき全てのことをなさった。当然、その葡萄は極めて良い実を結ぶはずであった。何よりもここに植えられたのは良い葡萄である。われわれの経験から言って、収穫される実の品質は、植えた葡萄の品種によって決まる。天候不順によって不作になるとか、害虫が大量に発生するとか、盗人が取って行くということはあるとしても、良い品種の葡萄が結んだ実が野葡萄であるということはあり得ないと考えられる。
 しかし、現実には、そういうことが起こったのである。神によって選ばれた者、神の愛を一身に受けている者が当然結ぶべき実を結ばない。
 なぜそういうことが起こるかという問題は、ここでは扱われていない。3節に、「それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、私と葡萄畑の間を裁け。私が葡萄畑にした事のほかに、何かなすべきことがあるか。私は良い葡萄の結ぶのを待ち望んだのに、どうして野葡萄を結んだのか」。
 私が悪いのか、葡萄畑の葡萄の方が悪いのか。その判定をエルサレムに住む者とユダの人々に命じたもう。イザヤ書の冒頭で、「天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ」と呼んで、神は「私は子を養い育てた。しかし、彼らは私に背いた」と訴えられた時、天と地を裁判人あるいは裁判の証人として呼びたもうた。その場合と少し違って、今ここでは、エルサレムとユダの人々を、実は被告人であるが、同時に裁判人の役割を持たせ、自分で自分を裁くようにさせておられるのである。自分で自分の受ける裁きが正しいと納得しないわけに行かない。
 そこで判決である。5節に、「それで私が葡萄畑になそうとすることをあなた方に告げる。私はその籬(まがき)を取り去って、食い荒らされるに任せ、その垣を取り壊して、踏み荒らされるに任せる。私はこれを荒らして、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと茨とを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らせない」と言われる。神の民としての一切の特権と保護の停止である。神の保護がなければ立ち所に破滅することは言うまでもない。
 これはイスラエルの堕落して行く経過の説明ではなく、結果を示すものである。すなわち、これはユダの国、そして都エルサレムの滅亡の預言である。それはおよそ百年先のことの預言である。
 7節に、「万軍の主の葡萄畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物はユダの人々である」と言われる。ここに「イスラエル」、「ユダ」と名が上がるが、イスラエルについては、二つの解釈がある。ソロモンの死後、国が二つに分裂して、北のイスラエルと南のユダとに分かれる。イスラエルは先に紀元前721年に滅亡した。ユダの滅亡は紀元前587年の事である。このように、二つの王国に分裂した状態でも、アブラハムの約束を受け継ぐ12部族に属するという点で、同格のものとして扱われる。宗教的伝統を比較的忠実に守ったのは南のユダであり、ユダの立場で書かれた文書が比較的多いので、北王国を構成していた部族は失われてしまったように読まれる場合があるが、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫12支族は同じ約束のもとに置かれたのであるから、平等に見るべきであろう。
 7節の言う「イスラエルの家」は北王国のことを指すのか、分裂以前の統一民族の名であるのか、それは良く分からない。どちらとも取れる。分からなくても重大な支障はないであろう。どちらかをハッキリさせなければならないというものでもない。
 大事なことはその次である。「主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び」。
 ここに「公平」と「流血」、「正義」と「叫び」がそれぞれ対句になるように組み合わされる。だが、これでキチンと対称になっているのか、と不思議がる人もいるであろう。実は、ここには「掛けことば」という手法が使われている、音が似ているのに意味は逆なのである。「ミシュパートを求めたのに、見よ、ミシュパー、ツェダカーを望まれたのに、見よ、ツェラカー」という言い方である。葡萄を望んだのに、似てはいるが全然違う野葡萄が実ったことを辛辣に言ったのである。こうして、この後、5章の間、「禍いなるかな」という言葉に始まる句がずーっと続くのである。
 今、「公平」と言った言葉はもっと幅広く取ることも出来る。これを「正しい判決」と訳しても良い。その方が正しい訳かも知れない。無罪になるべき人が死刑判決になって、血を流すということがあったであろう。それを言ったと取ればピッタリである。
 正義と訳されているところも、正義の裁判の意味に取ればもっと良く分かる。貧しい者がますます貧しくされる仕組みが地上にある。神の正義はその仕組みを覆すのである。だが、そういう裁判はイスラエルにおいても行なわれることは稀であった。
 ともかく、神の葡萄園であることの第一の徴しは「公平と正義」だと宣言される。それはどうなのか、と不審に思う人もいるであろう。神の民、神と契約を結んでいる民なら、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛する」ことを第一に心掛けなければならないのではないか。そうすれば、神は神を愛し、その戒めを守る者とその子孫に、恵みを与えるというのが契約内容ではなかったのか。
 それはその通りである。しかし、神を愛し、その戒めを守っていると称する者が、祭儀の規定を守っているだけで、虐げを顧みようとしないなら、神は決して喜びたまわないことを、イザヤ書の初め以来繰り返して警告されたではないか。1章11節で言われた、「あなた方の捧げる多くの犠牲は、私に何の益があるか」。犠牲の儀式、その分量の多さ、宗教のことにつぎ込む金額の大きさを見ると、何と宗教の盛んな国であろうか、と感心させられる。しかし、そこには神の民の実質はないのだ。
 その続きの17節に言われた。「善を行うことを習い、公平を求め、虐げる者を戒め、孤児を正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」。宗教の儀式が盛んに行われることはむしろ偽善の徴しになる。社会が公平になるようにすることの方が主の民にとって相応しいのである。
 正義と公平について、この続きの16章で聞くことを、今聞いておこう。「万軍の主は公平によって崇められ、聖なる神は正義によって己れを聖なる者として示される」。先には正義と公平が神の要求であると聞いたのであるが、ここでは神にこそ公平と正義が本来あると示される。その神の公平と正義に与ること、御子を通じて与ること、それが求められる正義なのだ。
 そのイエス・キリストは、マタイ伝21章33節以下の葡萄園の譬えで、「神の国はあなた方から取り上げられて、御国に相応しい実を結ぶような異邦人に与えられるであろうと警告されたのである。

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