2003.12.28.

イザヤ書講解説教 第15回

――4:2-6によって――

 
 「その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇り、また光栄となる」。
 イザヤ書ではこのところ、続けて「その日」という言葉に始まる聖句を聞いて来た。2章11節、17節、20節、3章7節、18節、4章1節に「その日」という言葉がある。いずれも裁きの日、禍いの日である。しかも、「その日」という言い方で示されているのは、2章2節に、「終わりの日に次のことが起こる」と語られたその日、窮極の平和の日を受けたものであった。それが禍いの日になっていたのであるが、4章2節で聞く「その日」という言葉には輝きが戻って来る。
 「その日」という同じ言い方で、同一の日に起こることが次々に並べられたと言うのか。そうではない。確かに、一日のうちに、極端から極端までのことが一挙に起こると考えるのは、我々の弱い頭には無理であろう。「その日」というのは、やはり何月何日と指して言うものであると理解されるが、同じ時にあれもこれも起こるというのではなく、「その日」と言われる日は、神が臨在して、計画を断固として成就したもう日、「主の日」である。人の思い及ばないことが起こる日である。
 2章の初めに宣べ伝えられた「終わりの日」、これは万民の慕う平和の実現の日として描き上げられるのであるが、しかし、神が来たってその力を顕したもう日には、それまで神が差し控えておられた峻厳な裁きも行なわれるのである。我々は4章2節で、峻厳な報復が終わって終わりの日の輝きが戻って来た、という単純な見方で見ることはせず、終わりの日、神のなしたもうことに様々な面があるが、要約すれば、救いと裁きであり、我々はその一面だけしか見ることが出来ないから、一つずつ見て来たのである。
 さて、2章2節以下と、4章2節以下が、終わりの日の完成という同一の主題で語られると見ることは間違いでないと思う。しかし、内容まで全く同じだと言うことは慎重にした方がよいであろう。2節だけ取り上げても、「主の枝」という言葉、「イスラエルの生き残った者」という言葉がある。これらは2章の預言の中には出ていなかった言葉である。この二つの言葉だけでも、かなり重要な意味を担っているのである。中味はずっと濃い。たとえて言えば、螺旋階段を登って、同じ所に回って来たが、フロアは一つ上になっていたようなものである。
 「主の枝」という言葉は、主の恵みを美しい枝として描いたのだという解釈があるが、そうではないであろう。イザヤ書の講解説教としては、ここまでに聞かなかったものである。それでも、聖書に親しんでいる人なら、預言者イザヤの書の特徴的な言葉だということに気付いているであろう。すなわち、有名な11章1節に、「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、うんぬん」と言うところにある「若枝」である。4章2節の「主の枝」はそれと同じ意味である。すなわち、王なるキリストのことである。
 枝、若枝、ダビデの若枝、ダビデのための若枝、エッサイの枝、主の枝………これらはイザヤ書を読み慣れない人には思い付きにくいであろうが、イザヤ書に使われる特徴的な象徴である。これはダビデの子孫として来られる王なるキリストを指す。11章の10節に、「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」と言う時、「エッサイの根」は「若枝」と同義語である。イザヤ書でもう一つ挙げれば、53章2節に、「彼は主の前に若木のように、乾いた土から出る根のように育った」という比喩も、苦難の僕の姿であるが、王なるキリストを指すイザヤ的表象である。
 今、イザヤひとりが専ら使うような言い方をしたが、この言葉を使った預言者はイザヤだけではない。イザヤが始めて、後の預言者がそれを受け継いだのではないかと思うのだが、エレミヤは23章5節で、「主は仰せられる、見よ、私がダビデのために一つの正しい枝を起こす日が来る。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行なう」と言う。王なるメシヤの預言である。エレミヤはもう一箇所、33章14-15節に言う、「主は言われる、見よ、私がイスラエルの家とユダの家に約束したことを成し遂げる日が来る。その日、その時になるならば、私はダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行なう」。
 ゼカリヤ書にもある。3章8節だが、「見よ、私は私のしもべなる枝を生じさせよう」。同じく、6章12節、「万軍の主はこう仰せられる、見よ、その名を『枝』という人がある。彼は自分の場所で成長して、主の宮を建てる」。このように、預言者たちの間では、「枝」と言えば意味は通じたのである。
 次に、「イスラエルの生き残った者」という言葉であるが、これは、これまで1章の8節と9節で触れたし、これがイザヤ書を読み解くキーワードになるということも述べて置いた。イザヤは真の信仰者、したがって救われる者を、「残りの者」として把握するのである。10章22節が特徴的だと思われるが、「あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」。名前だけのイスラエルは本当のイスラエルでなく、血統が繋がっているだけでも本当のイスラエルでなく、イスラエルの中の残りの者だけがまことのイスラエルである。
 では、残りの者と、そうでない者の区別はどうすればつくのか。それは残るか残らないかの違いである。だが、そのことと結び付いているのは、残りの者は帰って来るという点である。「帰る」とは「悔い改め」である。だから「残りの者」を理解する時、常に悔い改めとの結び付きを忘れないようにしたい。
 イエス・キリストの教えが悔い改めを中心とするものであったことは知られている通りである。「時は満てり。神の国は近付きたり。汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」。残りの者を少数者と言い直すのは、正確な処置ではないが、こういう人が見せ掛けよりも実数が少数であることは確かだと見て良いし、「少数者」という言葉が含む味わいがあり、それは残りの者と結び付く。
 そのように見て来ると、4章2節は、2章2節と似たことを言っていると一応言えるとしても、実質的にずっと重要なことを言っているのが分かる。2章では、神の主権が明らかにならなければならないことは言っているが、王なるキリストの到来による平和については、ハッキリした言葉では言い表していない。
 残りの者についても、悔い改めについても、打ち消すようなことを言っているわけではないが、4章の方にあるキャッチワードが2章にはないので、うかうかと読めば、単なるユートピア物語りとして理解されてしまう危険がある。それだけに、誰でも飛びつく分かり易さがあるが、救いの深い意味を読み落としたままで、分かったような気になってしまうことに用心しなければならない。と言って、2章の預言を無視してもならない。螺旋階段を一回りしたから、上に登れたのである。
 「その日、主の枝は麗しく栄える」とは、救い主キリストの来臨によって、彼の栄光が輝き出るという意味の象徴的な言い方である。これはキリスト預言であり、救いの教えであり、また救いをなしたもうお方への讃美である。
 次の「イスラエルの生き残った者」とは、先に言ったように、救われる者のことであるが、残ったというのは、これまで傷つかぬよう仕舞ってあったという意味に取れなくもないが、むしろ、数々の試錬と戦って来たという意味を読み取るべきであろう。「残る」というのと、「残される」というのは、同じと見て差し支えない面と、区別をつけるべき面とがある。神が残したもうから人は残るのである。
 「残りの者」と「選ばれた者」は言葉の意味から言って同じだとは決して言えないが、実際経験について言うならば両者は一致する。選ばれていたから、炉の火で試されても、篩で振るわれても、残るのである。そのような残りの者がピカピカと輝いているかのように空想してはならない。最終的には神が栄光を授けたもうと信じなければならないが、神が栄光の衣を着せて下さるまでは、選ばれた残りの少数者は、高貴な姿というよりは不格好であり、ボロを纏っているのである。
 ここまでに、神の裁きの行なわれる「その日」の苛酷な状況が何度か学んで来たが、その裁きが選ばれた残りの者にとって、何ごともなく過ぎ去るものであったと見ることは、一面では正しいかも知れない。だが、「残りの者」とは、矢張り、苦難に痛めつけられながら耐え抜いて残る者であると捉える方が正しいであろう。彼らは滅びを潜り抜けて来たのである。だから着る物がボロボロになりながら生きて来た人なのである。残りの者だからといって、安全地帯に匿われていたのでなく、エルサレムの滅亡の中を潜り抜けて来たのである。
 「その日、主の枝が麗しく栄える」。それは、艱難の時が過ぎ去って、自然にそうなったからか。そうではなく、キリスト御自身が栄光を輝かせたもうたからである。それも単に時が満ちたから、キリストの栄光が現れたと言うべきでなく、キリストが御自身に負わせられた務めを全うされたから、栄光を得たもうたと見なければならない。
 こうして、主キリストが枝のように麗しく輝きたまい、その枝の輝きが地の作物の輝きとなる。こうして、地の産物はイスラエルの残りの者の誇り、また光栄となるのである。
 「そして、主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られる時、シオンに残る者、エルサレムに留まる者、全てエルサレムにあって、生命の書に記された者は、聖なる者と称えられる」。
 エルサレムは一たび汚されたのである。エルサレムの娘らは、ずっと保護されていたのでなく、汚されたのである。一たび汚されたけれども、潔められ、初めから潔かった者と同じように潔くされた。これを潔めるのは主なる神の業である。主は御霊をもって潔めたもう。その御霊が「審判の霊」、「滅亡の霊」と呼ばれる。すなわち、汚れを滅ぼすのが神の霊の働きである。霊は心のうちに入って行って、内側から潔めるのである。
 ここに語られるのは、具体的にはエルサレムのどこがどうなることかと問われるならば、充分な答えは出来ない。これは実際のエルサレムに起こることの預言ではなく、霊的な救いを比喩によって説いたものであると見るべきであろう。エルサレムの完成が語られていることは間違いない。エルサレムの完成は新約聖書ヨハネの黙示録にも描かれるものである。
 「エルサレムの血をその中から除き去られる」と言われるのは、血そのものの汚れが除去されることであるが、回復の時が来るまで、エルサレムの破壊と殺戮の時の流血がまだ潔められずに残っているという意味もあるであろう。すなわち、イザヤの時代にはまだ滅ぼされていなかったエルサレムが、外からの敵によって滅ぼされる日が来ると預言しているのである。それが済んだ後に完成が来る。
 外から攻め込む敵の刃によって血まみれになるだけではない。エルサレム市民がその手によって兄弟の血を流し、それは敵の手で殺される以上の汚れであることを読み取らなければならない。1章15節で聞いた通り、「あなた方が手を伸べる時、私は目を覆って、あなた方を見ない。たとい多くの祈りが捧げられても、私は聞かない。あなた方の手は血まみれである」と記されている。虐げは殺人に通じるのである。その汚れを取り去るには、正しい裁判、貧しい人、寡婦、孤児のための裁判をすることだと次に言われた。それをしないことがエルサレムの血の汚れである。だが、正しい裁判がなされれば汚れが潔められるのか。その血がついには神によって潔められることを知らなければならない。すなわち、「麗しい若枝」と言われる御子の血によって潔められるのである。
 「シオンに残る者」とは、次の「エルサレムに留まる者」と同じ意味であろう。そこを捨てて行く人が多かった時に、シオンに残り、礼拝を守った人である。彼らも残りの民である。
 「すべてエルサレムにあって、生命の書に記された者は聖なる者と称えられる」と言われるのも、先と同じ人たちを指して言ったのであろう。エルサレムに残ったから、信仰を貫いたから、その功績が認められて、生命の書に名を記された、と言っているのではない。聖なる民であることと、エルサレムに留まることと、シオンに残ること、生命の書に名を記されることとは、原因・結果の関係で結び付いているのではなく、同時に結び付いたのである。
 「その時、主はシオンの山の全ての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲を造り、夜は煙と、燃える火の輝きとを造られる。これは全ての栄光の上にある天蓋であり、あずまやであって、昼は暑さを防ぐ陰となり、また暴風と雨を避けて隠れる所となる」。
 新しいエルサレムの創造が語られているが、壮大な規模のエルサレムが語られるのではない。ヨハネの黙示録21章に描かれた新しいエルサレムよりももっと単純なのである。預言者エゼキエルも、再建される宮について、かなり詳しく預言したが、イザヤは宮の再建に触れてもいない。主は「天蓋」あるいは「四阿(あずまや)」のようなものを造ると言われる。つまり、屋根だけなのだ。残りの者に対する神の愛の非常に素朴な表現がなされている。
 主は雲と火を造りたもう。創造されるのである。雲と火というのは、出エジプトの時、主自らが昼は雲の柱、夜は火の柱となって、民らと共におり、彼らを守り、また導きたもうた出来事を想起させるものである。だがそれとともに、天地創造の初めのことが繰り返され、初めに天を造られたように、今度は大空の代わりに雲と火とによって天蓋を創造し、民らを暑さ寒さ、また風雨から防御したもうのである。

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