2003.11.30.

イザヤ書講解説教 第14回

――3:13-4:1によって――

 すでに前回のところで学んだように、主なる神はユダ王国における政治の乱脈を嘆き、「わが民は幼な子に虐げられ、女たちに治められる。ああ、我が民よ、あなたを導く者は、却ってあなたを迷わせ、あなたの行くべき道を混乱させる」と12節で言われた。
 「我が民」という、親しみをこめた言葉をこの節の中で2度も聞くのであるが、神は御自身の民の上に慈しみの目を向けておられる。神は御自身の御旨を実現するために、御自身の民を選びたもうた。そして、その集団が正しい方向に向かうように、これを導き治める者を上に立てたもうた。
 ところが、治める務めを持つ者がその任務を果たしていない。そこで、神はその治める者を裁きたもう。神が任命したもうたのであるから、神が裁きたもう。その裁きを我々は学んでいる。
 さて、「治める者」とは何か。それは先に聞いたところであるが、君主、支配者、権力者、長老、などと呼ばれる者らである。4節で「私は童を立てて彼らの君とし、みどりごに彼らを治めさせる」との御言葉を聞いたが、政治の務めを担うだけの能力のない者が政治権力を握るという、あってならないことを神御自身が起こったのだと宣言される。これは民に対する裁きである。
 一体、誰が裁かれているのか。――それをシッカリ見なければならない。人にはみな、自分以外の者に裁きが向けられると解釈する傾向を持つ。だから、人が裁かれることは良く分かる。しかし、自分が裁かれていることについてはなかなか分からない。だから、悔い改めについて、或る程度は一般論として理解するが、自分自身が悔い改めなければならないという点については、なかなか分かろうとしない。最後までわからない場合が少なくない。だから、自分の悔い改めを埒外に置いて、人が悔い改めるべきことを考えるこの愚かさを脱却しなければならない。
 神の裁きについては、これを他人の問題と見ないで、己れ自身こそ裁かるべきことを先ず考えるという基本姿勢が大事である。イエス・キリストの福音は「汝ら悔い改めよ」という御言葉から始まった。これを「誰それの悔い改めるべき時が来た」と讀み変えてはならない。各自が「私こそ悔い改めなければならない」ということを先ず自分に言って聞かせるのである。
 その第一の手続きを終えられた後に、学ぶべきことがまだ残っている。すでに見た通り、人々の上に治める者として立てられた者、その者に対する非常に厳しい警告、いや審判が語られる。――それは誰のことか。
 我々はほぼ全員、ここで語られているのは、当時のユダ国の政治家たちについてであるという聖書常識を持っている。その常識は間違っていない。そして、そこから我々は、現代のこの国、また他にもある驕り高ぶった国々の政治家に、この裁きの御言葉が適用されるべきであると考えて、政治批判を始める。それも間違った読み方とは言えないのではないかと思う。
 今日、この国の政治が大いに乱れているという批判を聖書から始めるのは正しいであろう。しかし、聖書から誠心誠意聞き取ったからこういう批判になったというのでなく、安易な気持ちで、自分の不満を聖書の言葉にかこつけて、神の怒りにことよせて自分の怒りをブツケているだけではないかという自己吟味は必要であろう。
 神が「我が民」と言われたことが、そのまま、この日本の国に住む者と置き換えてよいのかどうかも考えなければならない。神がアブラハムとその子を選びの民とし、それと契約を交わしたもうたことが、日本の民にそのまま適用出来るであろうか。全く無関係と言ってはならないであろう。けれども、安易に転用することは、御言葉を軽んじることになり兼ねないという恐れを持たなければならない。
 この国にも「神の民」とハッキリ認定できる人々がいる。誰それはそうでないとは言えない。思い起こされるのはパウロがコリントである夜、幻のうちに主から示されたことである。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには私がついている。誰もあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には私の民が大勢いる」。使徒行伝18章に伝えられる通りである。
 コリントの町に神の民が大勢いる。しかし、誰がそれであるかは見えない。だが、恐れないで、黙することなく福音を語り続けるならば、キリストの民が起こされて集まって来る。彼らはキリストの言葉によって養われ、キリストの言葉を戒めとして受け入れる。彼らはキリストの定めに従って主の晩餐を守り続ける。この群れがソックリそのまま神の民だと言っては不正確であろう。すなわち、外見上区別はつけがたいが、麦畑に毒麦が播かれている場合があるからである。この毒麦を抜き出して焼き捨てる仕事は人間に託されておらず、キリスト御自身が終わりの日に遂行したもう。
 そのような毒麦が混じっているとしても、キリストの御言葉に従います、という誓約が行われているなら、それは集団としては、キリストの民の集団であると看倣すほかない。疑わしい場合があるのは事実だし、誓約を守らないことについての警告は必要だが、ハッキリした証拠がない限りは、キリストの民でない、と決めつけることは我々の分際を越えている。
 そのような意味での主の民を治める者の責任については、よく考えなければならない。人間の社会が出来ると、そこには必ず世話役という者が立てられる。小さい集団なら世話役があれば十分かも知れないが、少し大きい団体になると、権力をもって取り仕切る人が必要になる。ところが、「あなた方の中で、大いなる者は人に仕えなければならない」と主イエスは教えたもうた。これが国家と非常に違う教会という共同体の秩序である。では、治める者は要らないのかというと、そうではない。
 羊の群れには行くべき方向を示す指導者である牧者は必要である。みんなが勝手に行きたい方向に向かうならば、羊の群れは散りはてる。教会も教会としての秩序を守らなければ、神とキリストに背を向けた人間の集団になってしまう。
 今日学ぶ聖句を、教会政治とか、教会秩序とか、教会訓練の観点から学ぶことは通常しない。これはイザヤの時代のユダの政治の記録である。また、今日我々の教会の中で、治める務めが機能不全に陥っているわけでもない。しかし、シッカリ気を配っていなければ、我々の間でも、人間同士の相互の協調がうまく行くだけで、キリストの御旨を疎かにすることは起こり得るということを考えて置こう。この世が崩壊している今の時代、教会もそこかしこで崩壊を始めているのが事実である。「童を立てて彼らの君とした」と言われる状況が、教会の外でなく、教会の中に始まる時代が来ている。
 以上のことを踏まえて、今日学ぶべき御言葉に向かうことにしよう。今日、神が語りたもうのは、ユダの家の長老と君たちに対する裁きの申し渡し。これが13節から15節にわたって述べられる。それと、シオンの娘に対しての裁きの申し渡し。これが16節以下4章1節までである。
 13節、「主は言い争うために立ち上がり、その民を裁くために立たれる」。
 神は裁きのために立ち上がりたもう。これは、裁判官として判決を下したもうと取ることも出来るし、検察官として告発しておられると見ても良い。さらに「言い争う」とは、今日で言う民事事件の原告のように、告訴することである。神の場合は、告発状と判決文は、内容的に同じである。
 「その民を裁くため」というが、民を被告席につけて裁くという意味もあるが、ここでは、民のために裁く、あるいは民の内を裁きによって調整すると解釈した方が良い。15節「なぜ、あなた方は我が民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか」はまさにそういう言葉である。そこで、14節に、「主はその民の長老と君たちとを裁いて」と言われるがこの人たちが裁かれる。
 「長老」とは文字通り年寄りであった。制度がどうなっていたかは文書がないから分からないのだが、老人は尊敬されたし、老人の持つ知恵こそが本当の知恵だという考えが揺るがずにあったから、老人が治める務めを持っていた。こういう老人が支族の代表として会議を構成するようになる。これがモーセの時代からの部族連合の政治形態である。そして会議が作られる前から長老支配はあった。
 この他に、預言者サムエルによって、ベニヤミン族のキシの子サウルが王に立てられた時以来の王の支配がある。王を頂点とした支配がどうなっていたか、ハッキリしない面が多いが、王は一方では宮廷の官僚によって行政を行なうとともに、地方の豪族を起用して王権を補佐させていたと思われる。そして、王は原則として世襲であったから、若くても王位につく場合はあった。
 したがって、王制と議会制が両立し、その間の対立はなく、列王紀の幾つかの例では、王に不都合があった時に、長老たちが協議して現職の王を免職にし、代わりの王を立てるということもあった。王権が最高のものだとは必ずしも考えられていなかった。
 しかし、とにかく権威というものがあって、それは神から来る。神から来たことをどこで確認するかで、形態や手続きが違って来るが、法にしたがって王や長老が立てられて神の御旨を行なった。ところが、権威を託せられた者が、その務めを正しく行わないことが起こる。一口に言うならば権力の濫用である。
 「あなた方は葡萄畑を食い荒らした。貧しい者から掠め取った物は、あなた方の家にある」。
 葡萄畑を食い荒らしたとは、一つの比喩である。これは盗人が葡萄を食い荒らすことではないし、貧しい飢えた人が侵入して貪り食ったというのでもない。葡萄畑の権限を任されている管理者が、権利を濫用して、葡萄畑を荒廃させたのである。5章7節に、「万軍の主の葡萄畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物はユダの人々である」とあるのが葡萄畑の説明である。葡萄畑を正式に託された者が葡萄畑を荒廃させるのである。その責任者が神の葡萄園の豊かさを荒れ果てたものとした。
 では、葡萄畑を荒廃させるとは、具体的にはどういうことか。その答えとして、続いて「貧しい者から掠め取った物はあなた方の家にある」と言われる。貧しい人から掠め取ったのである。国の中に住む人々の生活を安らかにすることが職務であり、彼らは貧しい者の世話をすべきであったが、貧しい者を食い物にした。
 実際に掠め取ったかも知れない。彼らはしようと思えば、そうするくらいの力を持っていた。しかし、掠め取るほどの露骨なことはしていない、と言うかも知れない。何もしないのに、彼らの家には財産が増えて行き、貧しい人の家からは働いても働いても財産が減って行くということであろう。それは世の中の仕組みが不正だからである。富んでいる者がますます富み、貧しい人がますます貧しくなる仕組みはなかなか直らない。それが是正されないままだから、社会はますます歪む。そういう不正を見ないことにして、助長しているから、貧しい人はますます苦しくなる。つまり、正義の政策を行なわないことが罪になる。現代はまさにそのような犯罪的政策が行なわれ、それ故に職を奪われ、住む所を失なう人が増えて行く時代である。
 「『なぜ、あなた方は我が民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか』と万軍の神主は言われる」。民を守るためにこれらの役人が立てられたのだが、役人が務めをはたさないため、主なる神ご自身が守りたもう。
 次に、16節から、シオンの娘たちへの裁きと刑罰が述べられる。王や権力者への裁きには刑罰の言い渡しがなく、娘たちだけが刑罰を受けるのであろうか。そうでないことは、この刑罰がエルサレムの陥落と破壊であることを見れば分かる。「あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れる。シオンの門は嘆き悲しみ、シオンは荒れ廃れて、地に座する」。
 シオンの娘というのは、先に述べられたエルサレムの有力者、上流階級の娘であろうか。それだけではなく、もう少し広い層を含んでいるように思われる。すなわち、女性は所謂「玉の輿」に乗って上流社会に入ることがある。だから、上流社会に生まれた若い女性が華美にまた驕慢に振る舞うだけでなく、比較的下層の娘も目で媚びを送るのである。
 彼女たちには自分の美しさを誇る慢心と、相手が得られないかも知れないという心細さを持っていた。それがケバケバしい装身具に表れる。内面の空しさを隠すかのように、過度の飾りを身に着ける。その派手さはそのまま彼女たちの精神の貧しさを表わす。
 女性が自分の受けた賜物を用いて意義のある人生を送ることは、昔は先ずなかった。彼女たちは有利な結婚相手を見出すことに真剣であった。自分の美しさを少しでも目立たせようと四苦八苦していた。神の民の娘なら、ペテロが第1の手紙3章で言った勧めがある。「あなた方は髪を編み、金の飾りを付け、服装を整えるような外面の飾りではなく、隠れた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身に着けるべきである。これこそ、神のみまえに極めて尊いものである。昔、神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも、このように身を飾って、その夫に仕えたのである。………あなた方も、何事にも怯え臆することなく善を行なえば、サラの娘たちとなるであろう」。
 だが、神を忘れて、頼るべからざる者を頼りとする時、主は彼らの頼みとするものを奪い去りたもう。それは3章の1節に記されたが、4章の1節にも語られる。一人の生き残りの男に7人の女がしがみつくという惨めな場面が描かれる。
 神の民とされた者として、余りにも惨めではないか。この惨めさは不当なものではない。当然なのだ。その説明は2章6節から始まった。偶像の導入によって、神の民の終わりの日の栄光の約束も消えた。我々の身辺の悲惨さも、我々の国の政治の退化も、この国を満たしている偶像礼拝の結果である。我々自身、神の嫌いたもう偶像を捨てて、神の民に相応しい純潔に立ち返らなければならない。
 

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