2003.10.26.イザヤ書講解説教 第13回
――3:1-12によって――
「見よ、主、万軍の主は、エルサレムとユダから、支えとなり、頼みとなるもの――全て支えとなるパン、全て支えとなる水――を取り去られる」。
この前の2章を読んだ時、その冒頭で終わりの日のエルサレムの輝かしい姿が示された。しかし、その輝かしい幻を堪能するまで眺めていることは許されず、「万軍の主に一日があって、全て誇る者と高ぶる者、全て己れを高くする者に臨む」と告げられるのを聞かなければならなかった。エルサレムは廃墟として示される。
神が終わりの日になしたもう裁きのことを、我々は恐れ慎んで心得ていなければならない。全て高ぶる者は低くされるのである。人々、特に権力を持つ人たちは、その権力を用いて思い通りのことをすることが出来ると思って高ぶっている。世の終わりが来たら、また人生の終焉が来たら、何とも出来ないが、それまでは権力があれば気侭に振る舞うことが出来る、と人々は考えている。
権力ある者たちだけがそのようにへりくだらねばならないのではない。権力を持たない、むしろ力もあり富もある者から踏みつけられて、細々と生きることしか出来ない人にも、世の終わりには、神が清算をおつけになる。そこで人々は、その日が来るまでの間、狂った世は、あたかも神がいましたまわないのと同じように、狂ったままで突進するほかないのではないか、と諦めている。
しかし、そうでないことを知らなければならない。万軍の主は、終わりの日が来るまで、目をつぶってじっとし、世界に何が起ころうと知らぬ顔をしておられるのではない。神は全部を見ておられる。いや、見ておられるだけではない。休むことなくみ腕を伸べて働かせておられる。世界は神から離れて動くのではなく、我々が「摂理」という言葉で呼んでいる御業が行われている。摂理の行なわれているこの地上では、正義の支配が信じられなければならない。
そのことを知る我々は、真っ暗にしか見えない時代の中でも、ローマ書13章で言われるように、夜の業を捨てて、昼歩くように確信に満ちて歩き始めるのである。イザヤ書3章10節には、「正しい人に言え、彼らは幸いであると。彼らはその行ないの実を食べるからである」と記される。人は神の摂理の支配のもとで、正しく生きなければならない。そして、自らの行ないの実をたべるのである。
どうして、自分の働きの実を自分が食べるという秩序が維持されるのか。それは、神がこの世の日常的な秩序維持を一部分、人間の業に委ねておられるからである。人はそれぞれに課せられた務めを真面目に果たさねばならないが、真面目に働く者は、自分の働きの実、報酬を得て、自分のパンを食べることが出来る。真面目に働いたにも拘わらず働きの報酬を得ることが出来ない不正が行なわれるなら、人は裁判に訴えて失った権利を回復する。
しかし、裁判機構と政治機構が破綻してしまうならば、秩序は乱れてしまう。損なわれた正義を回復することは出来ない。不正は是正されることなく、ますます増殖し世は崩れて行く。今日、イザヤ書3章の前半で読むのはそういうことである。
さらに、これは特に声を大きくして言う必要もないほど我々には明らかなことであるが、この預言に描き出された情景は、単に昔のユダとエルサレムの有様であるばかりでなく、我々が今生きている紀元2003年の世界、2003年の日本の姿である。
どうしてこういうことが起こったのか。8節と9節にその理由の説明がある。「これは彼らの言葉と行ないとが主に背き、その栄光の目を侵したので、エルサレムは躓き、ユダは倒れたからである。彼らの不公平は彼らに向かって不利な証しをし、ソドムのようにその罪を顕して隠さない。禍いなるかな、彼らは自ら悪の報いを受けた」。神は見ておられた。人は何とも思わず神の栄光を傷つけていたが、神にとってはそれは小さいことではなかったのである。
「言葉」と「行ない」が主に背き、その栄光の目を侵した。具体的に言えば、先の章で見た通りであって、富む者はますます富み、軍備を拡張し、偶像礼拝を盛んにしている。これが禍いの原因である。
大雑把に区分して言うなら、宗教的な罪と社会生活に関する罪がある。前者は2章6節8節で触れられた。祭司がその務めを正しく果たさず、その務めを汚したり、職務違反、職務怠慢が行なわれたならば、預言者が警告を発すべきであった。後者については、裁判が公正に行われるとき是正され、失なわれたものを回復することが出来た。
しかし、すでにイザヤ書の初めの2つの章を学んだだけでも、裁判の原理が失なわれ、悪が野放しになっていた。それでは、神おん自らが介入して来て、これを粛正されるということになったか。確かに、そういう場合もしばしばある。ここに書かれているユダの国内の無秩序も神が介入して来られて、こうなさったと見て間違いではないと思う。しかし、少し違う取り方も出来る。
9節の、「彼らの不公平は彼らに向かって不利な証しをし、ソドムのようにその罪を顕して隠さない。禍いなるかな、彼らは自ら悪の報いを受けた」という言葉は、彼らの悪自身が彼らに対する神の報復を呼び寄せ、神が報復したもうた、と解釈することも出来るのだが、また、彼らの悪そのものが彼らを滅ぼした、と取ることも出来る。ソドムの場合はその悪それ自体が神の裁きを呼んだ。被害者が訴えたのではなく、加害する悪そのものが神の怒りの発動を促した。
第一の解釈は、神御自身が報復したもうと取る。第二の解釈は、神御自身が直接乗り出して来られるまでもなく、その前に、悪自身が己れを破滅させるという一段階があるという理解であって、これの方が細部に立ち入った考察である。これはローマ書1章の終わりに繰り返し語られたものであって、神が悪を摘み取ってしまわれるのでなく、悪をなす者をなすがままに任せることによって、罰を遂行される。なすに任せたもう第三段階では、こう言われる。「彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いに渡し、なすべからざることを為すに任せられた」。
為すが侭に任されたとは、神が手を引き、身を引いてしまわれたという意味ではない。自滅させるようレールに乗せたもうたということである。思い通りになると喜ぶ者があるが、ここに神の御手があることに気付いた人は、ここからの回復を願い求めずにおられなくなるであろう。
1節から学びに入って行こう。「支えとなり、頼みとなるもの、そして取り去られるもの」として、最初に挙げられるのはパンと水である。ところが、取り去られるものは次々に、続いて並べ上げられる。そして、それらが取り上げられる理由に説き及んで、「これは彼らの言葉と行ないが主に背き、その栄光の目を冒したので、エルサレムは躓き、ユダは倒れたからである」と言われる。
この預言を、後年のエルサレムの滅亡を指したものであると読むことも出来るし、現状がこの通りである、あるいはこれに向かって行っていると取ることも出来る。この二段階の没落の意味を重ね合わせたと解釈するのが正しいと思う。
エルサレムがこの預言のように滅亡したのは、イザヤが死んだずっと後であって、バビロン軍によって攻略され、滅亡した。その記録は列王紀下25章のほか、エレミヤ書39章、52章に生々しく記され、我々はいちいちうなずきつつ胸刺される思いで読むのであるが、今日は預言の成就した時の実情に触れることを省略して、預言された一こと一ことを見て行くことにしよう。
パンと水が人間の生存にとって基本的に大事なものであることは常識である。豊かな社会に生まれて来た人には想像も困難であろうが、戦争をくぐって生きて来た人ならば、想像の必要なく、記憶を甦えらせるだけで、あの無謀な戦争が敗北に終わった58年前、働き手は軍隊に取られ、家は焼かれ、米は空前の不作であり、大地震の復興も出来ていず、巨大な台風が襲い掛かり、今日食べる物がないということが、どんなに惨めな実情であるかを生々しく思い出す。
エルサレムは堅固な城壁に囲まれており、城壁自体は随分堅牢に築き上げられていた。城壁の中には食糧の蓄えがあったから、長年の籠城に堪えることが出来た。エレミヤ書52章6節に、「4月9日になって、町の中の食糧は甚だしく欠乏し、その地の民は食物を得ることが出来なくなった」と書かれている。食べる物がなくなって抵抗力はなくなった。王一族と兵士たちは敗北のほかなしと抵抗を諦めて、夜のうちに秘密の抜け穴から落ち延びて行き、後には食べる物もない民衆が取り残された。
イザヤの預言には、また水がなくなることが言われている。エルサレムには水源が幾つかあった。7章にはイザヤが神の命令によって息子シャル・ヤシュブを連れて、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズ王に会って、御言葉を語る場面がしるされる。アハズがそこに行っていたのは戦争に当たって先ず固めて置かなければならない地点だったからである。これはスリヤとエフライムが連合してエルサレムを攻略しようとして来た時のことである。
この同じ場所の記事がイザヤ書36章に出ているが、ヒゼキヤ王の14年、アッスリヤ王セナケリブが攻めて来た時、その家来ラブシャケがここに立って大声で侮辱する。この二つの記事から推察されるのであるが、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端というのは、エルサレムでは最も高い所で、ここから水道が城内に入る。しかし地面が高いからそれだけ城壁は低くなり、一番多くの兵力を配置して城壁と水道を守らなければならない搦め手であった。エルサレム陥落の時は水源も押さえられたに違いない。
「全て支えとなるものが取り去られる」。――その支えの代表がパンと水である。だから、パンと水という二つの物に、日常、極めて必要ないろいろな物資が含まれていると見るのが正しい。
なお、支えが取り去られるなら倒れるほかない、というのが一般の人々の読み方である。しかし、我々は、全ての支えの取り去られた後にも、人は神の支えによって立つことが出来る、という真理を思い起こさなければならない。ただし、イザヤ書3章ではそのことに触れない。彼らが神の真実に縋ってまた立ち上がるということは、ここでの主題ではないからである。彼らは本当の支えを求めようという願いには全く無関心であった。
2-3節。「すなわち勇士と軍人、裁判官と預言者、占い師と長老、50人の長と身分の高い人、議官と巧みな魔術師、老練なマジナイ師を取り去られる」。
先ず、「勇士と軍人」。国の防衛を担う人々である。これが頼りにされるのは、どこの国にも見られる通りである。人は軍備を増強すれば安全だと思う。武器は悪しき目的のために使いさえしなければ良いのであって、武器自体は善なる物であるという考えが広く行き渡っている。だが、これは間違いである。すでに2章4で、「剣を打ち換えて鋤とし、槍を打ち換えて鎌とし、国は国に向かって剣を挙げず、もはや戦いのことを学ばない」と書かれている。
軍事力は美術品のように飾って眺める物ではなく、殺傷能力があるように造られているから、これを使って人を殺す。殺しはしないとしても人を脅す。これは悪である。その他に、武器や軍備への信頼は神信頼を骨抜きにする。この点を明快に示すのはイザヤ書31章1節である。「助けを得るためにエジプトに下り、馬に頼る者は禍いだ。彼らは戦車が多いのでこれに信頼し、騎兵が甚だ強いのでこれに信頼する。しかし、イスラエルの聖者を仰がず、また主に諮ることをしない」。
次の「裁判官と預言者」は全国的な秩序に関係する指導者を指すと思われる。ただし、裁判官はこれまでに見て来たように、賄賂を取って裁きを曲げ、弱い立場の人々を助けることをしない。預言者というのも偽預言者を指すのかも知れない。人々は本当の預言者でなく偽預言者をこそ頼りにしているという皮肉が籠められている。
国内の秩序が乱れてしまう。次の、「私は童を立てて彼らの君とし、みどり児に彼らを治めさせる」。これは、政治能力のない者に政治をさせる、ということである。「私がそうする」と神は言われる。「これが私の裁きだ」と言われるのである。
人類は暴虐な政治にこりこりして、みんなが納得出来る支配者を選んで上に立てれば、政治はうまく行くのではないかと考えて、選挙によって政治家を選ぶようにした。良い人が選ばれた場合もある。しかし、そればかりではない。選挙のシステムは思慮深い人物を選び出すとは言えない。知名度はあるが、考えの幼稚な人物が選ばれてしまう。そのことに世界の国々は今日困り果てている。
人を治める者は、先ず自分自身を治めなければならない。ところが、自分を治めることの出来ない者が天下を治める地位につく。人を教える者は、先ず自分自身を教えることが出来なくてはならない。ところが、それの出来ない者が人を教育する。人を裁く者は自分自身を裁くことが出来る人でなければならない。ところが、自分を裁くことが出来ない者が人を裁く地位を得る。
背筋の寒くなる思いをもってこれを聞く人があろう。これは預言者が我々の時代のことを預言した言葉ととって良いであろう。
パンと水が肉体の生存に必要なように、正しい政治、平和な生活環境は、人間としての生活のためには不可欠なのだ。しかし、その目的を果たすためには、思慮深い人物が治めなければならない。ところが、子供が世を治める。子供というのは自分では子供と思っていないが、判断や思慮についてはまさに子供であるような人という意味である。
このことが12節に続く。「わが民は幼子に虐げられ、女たちに治められる。ああ、わが民よ、あなたを導く者は、かえってあなたを迷わせ、あなたの行くべき路を混乱させる」。
「民は互いに相虐げ、人は各々その隣りを虐げ、若い者は老いた者に向かって高ぶり、卑しい者は尊い者に向かって高ぶる」。
無秩序と言っても良かろうが、暴力の横行である。そこで、とにもかくにも、上に人を立てねばならないから、凡庸で良いから、仲間、あるいは兄弟の一人に縋り付いて、「あなたは外套を持っている。外套を着れば司びとらしい格好が付くから、私たちの司びとになって、この荒れ跡をあなたの手で治めて下さい」と頼み込む。しかし、その人は応じない。「私の家にはパンもなく、外套もない。私を立てて民の司びとにしないでくれ」。
要するに、人物がいないのだ。曲がりなりにも人を立てて、政府を作ろうとする企ても挫折する。
「これは彼らの言葉と行ないとが主に背き、その栄光の目を侵したので、エルサレムは躓き、ユダは倒れたからである」。
神の摂理が行なわれている世界の状況だと先に見た。神がどこかに隠遁してしまわれたから、世界が無秩序になったというのではない。万軍の主が生きて働きたもうからこそ今日の混沌が刑罰として来たのだ。そのことに目を開くなら、我々は主の憐れみのもとで悔い改めて立ち返り、国を建て直すことに立ち向かって行くのである。 目次