2003.09.27.

イザヤ書講解説教 第12回

――2:18-22によって――

イザヤ書2章は、終わりの日に実現すべき窮極の平和を、幻として示すところから始まっている。これが万人にとって慕わしいものであることは言うまでもないが、慕わしい幻が示されるばかりでなく、「主の恐るべき日」が来るという厳粛な予告も同時に示されたのである。
 終わりの日、「彼らはその剣を打ち換えて鋤とし、その槍を打ち換えて鎌とし、国は国に向かって剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」。これは全ての人の思いの中に、消し去ることの出来ない強固な欲求として、少なくとも憧れとして、固着しているものである。――もちろん、そういう思いが起こって来るのを遮二無二押さえつけて、己れ自身と他の人を戦争へ戦争へと駆り立てて行こうとする無思慮な人がいることは、我々が経験によって知る通り事実である。しかし、そのような人でも、ハッと目覚めて、己れに立ち返って、自分のしていることが如何に道に反した醜悪な業であるかに気付く機会が必ず、またしばしばある。
 しかし、永遠の平和に目を向け、その幻を直視し、自分自身を取り戻したような思いになるとしても、この安らぎは忽ちのうちに崩れ去ってしまう。すなわち、人が平和への憧れを持つのは、正当なことに違いないが、人間の置かれている現実は、あの幻によって示された平和な状態とおよそ逆だからである。だから、「あなたは、あなたの民ヤコブの家を捨てられた」と6節は言う。
 「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」と諸国民が言うのに、ヤコブ自身の家は捨てられたのである。ヤコブの神の家が捨てられるのではないが、ヤコブの家は失われる。
 こういう現実が起こっている理由について、2章6節以下にはこう教え示された。「彼らの国の内には富が満ち、軍備も整って軍馬も戦車も満ちている」。富んでいる人々にとっては、現在の富がもっと殖えないことが不満であろう。この不満は、その日その日の糧に事欠くのと同じほどの苦痛に感じられることであるが、実際は、彼らは毎日、飽きるほど食べている。それでいて、彼らはなお足りないと感じている。彼らはこれでおかしいとは思っていない。なぜ思わないのか。彼らの神がそのように思うことを許しているからである。彼らの神とは、彼らの作った偶像である。
 「神」という同じ言葉のもとに、全く違った二つのものが混同されていることを見抜かなければならない。一つは真の神、生きています神。全てをその義によって統べ治めたもう神。もう一つは、神と呼ばれる偶像である。人の造ったものである。ヤコブの家ではこの区別が分からなくなっていた。
 生ける神は、人の隠れた思いを知り、人の思いの中の良心に呼び掛けて目覚めさせ、自らの行ないを自ら裁くことが出来るようにさせたもう。偶像神はそれをしない。人間が自分に都合の良いように考え出したことを、人間によって造られた偶像神は、全部受け入れてくれ、何一つ拒否しない。それどころか、神は私の願いを聞き入れて下さるという感触さえ味わわせる。だから、偶像神を礼拝している人も、いろいろな場合に「感謝です、感謝です」と言う。ただし、物事が順調に運んでいる場合にそうなのであって、逆境においても感謝するということではない。
 しかし、彼らの企てることは、割合うまく行くのである。なぜなら、彼らは力をもっていて、力をバックに威圧して、その思いを実現するからである。すなわち「彼らの国には馬が満ち、その戦車も限りない」と記される。これは国の軍備が充実しているという意味ではあるが、同時に、その軍備は直接軍隊を動かす者の利益を保護する。実際、剣を帯びている者の前で、剣を帯びていない庶民は何も言えない。軍隊は外からの脅威に対して内の者を守るのだと理由づけられているが、内部に対する脅威を抱え込むことにもなる。
 さて、8節に、「また、彼らの国には偶像が満ち、彼らはその手の業を拝み、その指で作った物を拝む」と言われる。金銀が満ちる。軍馬と戦車が満ちる。それとセットになって偶像が満ちる、と言われる。富み栄えている国はまた軍備を固めた国であり、それはまた偶像の満ち満ちた国であり、それはまことの神への恐れと愛を失った国である。
 そのようになる場合が多いことは異論がないとしても、そうなる、と決めつけるのは行き過ぎではないのか。金銀と武器の量は偶像の数と単純に連動するとは言えないように思われる。だが、そのようなものを頼りとすればするほど、神を礼拝することが疎かになるのは確かである。
 この関連で触れなければならないのは、6節に書かれた「外国人と同盟を結んだ」ということである。これは外国人との誓いによってその宗教が入ってくるということでもあるが、外国との軍事上の提携をも表している。安全保障のために外国と同盟するのである。彼らはすでに武器と軍馬と戦車を持ち、それを持つことが神信頼をおろそかにすることはすでに見た通りである。それに加えて、彼らは他国と軍事同盟を結んで国を守ろうとする。神に拠り頼むことが国の安全の唯一の道であることを考えようとはしない。
 ここにはもう一つ、正しい裁判を軽んじるということが入り込む。1章23節に、「孤児を正しく守らず、寡婦の訴えは彼らに届かない」と言われたが、そのことである。裁判は不正を糺すためにあるが、結局は、不正な有力者を是認する働きしかしていない、と神は預言者を通じて警告を発したもう。裁判に携わる者は、神を恐れて、神がどういうご意向であるかを考える限りは、正しい裁判を行うことが出来るが、神のことを考えない裁判官は、まいないをくれる者や、自分を高い地位に取り立ててくれる有力者に有利なように裁判をするから、貧しい人が有力者に虐げられても、権利は回復しない。今日の我々の身辺はどうだろうか。弱い人の発言権は守られているだろうか。こうのような状況を神が良しと見たもうであろうか。もし、不正がまかり通っているなら、それは不義を見ようとしない神が信じられているからである。
 「彼らはその手の業を拝み、その指で造った物を拝む」………。造った人よりは造られた物の方が下の地位にあるのは言うまでもないが、彼らにはそれが分からなくなって、造った人が造られた物を崇めるという上下の転倒が行なわれている。それは宗教の堕落であるに留まらず、社会全体の腐敗になって行く。今日がそういう時代ではないかどうか、シッカリ考えて見る必要がある。
 「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」と神は命じたもう。最も基本になる戒めである。しかし、モーセの時代に、すでに人々は形なき神を礼拝するのを不満とした。モーセがシナイ山に登っている間に、アロンは民衆の要望に同情して、金の子牛を造らせた。それがどうしていけないことかが分からないならば、ヨハネ伝14章の主イエスの御言葉を思い起こせばよい。
 「ピリポはイエスに言った、『主よ、私たちに父を示して下さい。そうして下されば、私たちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのである……』」。我々はすでに神を見たのだ。
 ところで、偶像とは、人が手で作った物、見えない神を見える物、形ある物、に置き換えた物と定義して良いが、形ある物という場合の形、これは必ずしも目に見える形を指すだけではないということに気付いていなければならない。目に見える、形のある像ではないが、「神観念」というもの、これは人が作ったものである。無形の偶像である。人間によって作られた神であるから、ロボットのような物であって、造った人の調節した通りに動いてくれる。これは人間の良心を目覚めさせ、人間に言葉をもって語り掛け、人間を審判することは決してしない。
 自分たちは偶像を刻んではいない、などと安心してはいけない。工人の手で作られ、商人によって販売されている偶像より、もっとタチの悪い偶像をキリスト者と言われる人たちが自分で作って持ち回っているということがないかどうか。そういうことまで我々は考えなければならない。
 18節で、「こうして偶像はことごとく滅び失せる」と聞くとき、我々は自分と関係のないことが語られていると考えてはならない。我々の心の中から、いっさいの偶像を葬り去らなければならない。
 18節にあるこの言葉の直ぐ前に、17節の最後の行には、「主のみ高く上げられる」といわれている。この二つの言葉を対比させながら、理解を深めることが出来るようにされている。偶像とまことの神は両立できない。主のみ高く上げられるところでは偶像は消滅するのである。
 「己れを高しとするものは全部低くされる」という意味のことが、12節から17節までの間に繰り返し書かれていた。高慢な思いを持つ人が挫かれなければならないことは容易に分かる。しかし、例えば、レバノンの高く聳える香柏、バシャンの樫の木、などはどうであろうか。これらの巨木が亭々と聳えるのは生育の条件が良いからであって、この木が己れを高しとして神を侮り、他の被造物に対して威張っているということではない。にも拘わらず、それらの大木までが裁きを受けると言われるのはなぜか。一つには比喩として人間に思い上がりの裁きを気付かせる言い方であろう。
 しかし、それだけではない。全て聳えるものは、植物でも建造物でも、見る人に畏敬の念を起こさせるのであるが、それは神の威厳を侵害することになるという事実を我々に思い起こさせてくれるのである。
 「主のみ高く上げられる」という11節にもあったし、17節にも繰り返される言葉は、この章の初めにあった「主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え」と呼応するような意味を持っている。主の家の山が高く上げられるのは、平和到来の日に主のみ高く上げられたもうことを象徴しているのだ。そのことをキチンと把握しないならば、終わりの日の絶対平和の幻を示されてもお伽話と同じ程度のことになってしまう。
 19節に、「主が立って地を脅かされる時、人々は岩の洞穴に入り、また地の穴に入って、主の恐るべき御前と、その威光の輝きとを避ける」と語られる。
 これをさらに詳しく言い直したのが次の句である。
 「その日、人々は拝むために自ら造ったしろがねの偶像と、こがねの偶像とを、もぐらもちと、こうもりに投げ与え、岩の洞穴や、崖の裂け目に入り、主が立って地を脅かされる時、主の恐るべき御前と、その威光の輝きを避ける」。
 人々の慌てふためく有様を生々しく描き出す文章であって、説明はなくても良く分かるであろう。
 彼らは偶像を拝んで安心していた。偶像を拝めば拝むほど、彼らの良心は麻痺するのであるから、安心して眠りこけることが出来た。しかし、実際に主が来られる日、それは彼らが安易に想像していたような日ではない。それは存在を根底から脅かされる日である。新約聖書のテサロニケ人へ第二の手紙の5章に書かれている通りである。「あなた方自身がよく知っている通り、主の日は盗人が夜来るように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らを襲って来る。そして、それから逃れることは決して出来ない」。旧約でもそうだが、新約でもその日は恐るべき日として教えられている。
 人々は偶像を投げ捨てて洞穴に逃げ込もうとする。そこに逃げれば神の恐るべき御前と、その威光の輝きを避けることが出来ると思う。しかし、勿論、それを避けることは出来ない。恐るべき場面に出会う時、人々はきまって目をつぶる。恐ろしい場面が見えないから、見ただけで気絶するようなことは起こらない。しかし、恐るべき事は見ないだけで、事実そこにある。彼らは一瞬、滅びを遅らせることが出来たとしても、一瞬の後には滅びに入るほかない。
 金や銀で造られた偶像をモグラモチと蝙蝠に投げ与えるとは、この人たちが自らのしていたことの過ちを悔いているという意味であろう。もぐらもち、こうもり、これは獣のなかで最も見栄えが悪く、詰まらぬ動物である。価高い金銀の像を最もつまらない動物に与えるとは、慌てる余り自分のすることが分からなくなり、手当たり次第に物を投げつけているというよりも、こういう物を拝んでいたことが知られれば許して貰えないと分かっているからするのである。すなわち、彼らは何も教えられていない異邦の民ではなく、「あなたは自分のために偶像を刻んではならない」との戒めを与えられていた主の民である。
 「主がこられる」ということも彼らは教えられて知っていた。それを彼らは見くびっていた。あるいは、主が来られたその日には、主の民の特権が明らかになると、厚かましい期待を持っていた。しかし、主が来られるのは、彼らを脅かすためであった。彼らの甘い期待は恐怖に転じる。
 これまでは偶像禁止の戒めを平気で踏みにじっていた人たちである。しかし、これは矢張りまずかったと気付いた。そこで、あの金銀の像は私が拝んでいた物ではありません。あの像はもぐらもちや蝙蝠がもて遊んでいた物で、私には関係のない物です、と言おうとしているかのようである。しかし、たとい己れの間違いに気がついたとしても、許されるわけはない。ここに偶像と生ける神との違いがある。
 「あなた方は鼻から息の出入りする人に頼ることを止めよ。このようなものは何の価値があろうか」。
 人間は土から造られ、その鼻に息を吹き込まれて、生きたものとなった、と創世記2章7節で言われている。そのことがそのまま引かれている。人間とは、息がなくなれば土くれと異なるところがないのである。息を与えておられるお方が息の元栓を止めたもうたならば、何も出来ない、何の意味も発揮できない。
 そういうものに頼ることは止めよとは、生きるものに命を与え、死人を再び生かすお方にこそ信頼せよ、ということである。先に見たように、偶像がなぜいけないかは、神のまことの形であられる御子イエス・キリストを仰ぎ見ればハッキリするのである。キリストにある真の神認識を徹底的に損なおうとするのが偶像である。しかし、我々はもうキリストを見たのである。
    

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