2002.10.27.
イザヤ書講解説教 第1回
――1:1によって――

イザヤ書の冒頭に「アモツの子イザヤが、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世にユダとエルサレムについて見た幻」と記される。言うまでもないが、イザヤ自身がこう書いたのではなく、この書を纏めた編集者が付けた説明文である。この説明文を編集者の私的な文章と見ることは正しくない。この預言が書き留められ、代々に伝えられることは神の御旨である。
 この1節に並んでいる語を、一つ一つ百科事典を引くようにして調べ上げて行けば、イザヤ書の概略が分かる。そして、この預言の書を読んで行くための有益な予備知識が与えられるであろう。その説明は十分興味ある材料であるが、聖書知識を注入されるだけで、救いの道に入ることにならないかも知れない。我々は別の道を選んで、命の言葉を聞くという姿勢で読んで行くことにしたい。
 イザヤ本人については、「アモツの子」であったことしか分かっていない。そのアモツがどういう人であるかについての記事はない。これ以上イザヤという人物について探索することは我々の仕事ではないであろう。
 ユダの王たちの名前が書き連ねられている。だから、これらの王たちの年代記を調べれば、預言者の生きた時代のことが分かる。すなわち、旧約の列王紀下と歴代志下を読めば、一代一代の王について聖書的評価がなされている。こうしてイザヤの預言がどのような状況の中で語られたかが分かる。
 今、我々は非常に重苦しい危機的な時代を生きている。イザヤ書を学びたいという願いが起こるのも、閉塞された空気の中で何とかして命を得させる息吹に触れたいからである。この時代の中で聖書を読む時、イザヤが預言者としての使命に生きたことと、我々がこの時代に生きることとは、或る意味で非常に似た状況なのではないかと思い及ぶ人は少なくないであろう。そのことに思い当たるならば、聖書の言葉が、身近な、現実味あるものとして我々に迫って来るであろう。
 このように、今我々を取り巻いている状況を聖書に読み込んで、そこから教訓をより多く読み取るのも聖書の読み方の一つである。こういう読み方も許されている。しかし、いつもいつもそういう読み方が出来るわけではない。無理をして自分を聖書の場面の登場人物の一人として描くことは、新聞記事に振り回された読み方かも知れない。だから行き過ぎないようにしなければならない。また、時代感覚がなければ聖書が読めないというのも奇妙な考えではないか。
 時代の事情を知らなくて良いとは言えないが、それぞれの箇所で触れる機会があるから、預言者の生きた時代の説明に立ち入ることを今回は見送って良いであろう。ただ、この1節で、踏み込んで考えて見なければならないと思うのは、「ユダとエルサレムについて見た幻」という言い方である。先ず、「幻」という言葉であるが、イザヤ書に記されているのは幻であろうか。
 例えば、ヨハネの黙示録、これは初めから終わりまで幻である。ところが、例えばイザヤ書7章は幻ではないのではないか。すなわち、アハズ王の時、スリヤ王レヂンと北王国イスラエルの王ペカの連合軍がエルサレムに攻め寄せた。ユダの王と民衆の心は風に動かされる林の木のように揺れた。その時、イザヤは神から指示を受けて、城壁と水道の工事に忙殺されている王に会いに行って、ただひたすら神に信頼して、静かにせよ、と託宣を告げる。これは、決して、幻とは呼べない現実的な描写である。また、20章にアッスリヤ王の軍隊がアシドドを攻め取った時から、神の命令によってイザヤは3年の間、裸、裸足になって、行き来し、ユダの頼みとするエジプトとエチオピヤが、アッスリヤに破られてこのようになるのだと触れ示した。預言者が恥を曝して裸で歩く。それは幻とは呼べない生々しい現実である。
 では、イザヤの預言には、幻を示されて、それを見つつ語っている部分と、御言葉を与えられて、それを取り次いで、宣べ伝える部分とがあり、「幻」と1章1節で言ったのは、両方を一方で代用した言い方なのか。そのように解釈してもひどく外れたとは思われない。しかし、幻と幻でないものとに分類するのが預言の解釈として正しいとは言えないのではないか。
 「幻と」いう言葉は、今日、人々の普通の言葉遣いでは、夢と同じようなもので、現実離れしたものを指すのである。現実に確かめられていないから、ありそうに思われる時もあるが、欺かれる場合も多い。人々の感覚では、肉の目で見、手で触るのが現実で、それは確かなのである。一方、幻はそれから浮いている。蜃気楼のようなもので、そこにあるかのように見えたが、近寄って捉えようとすると何もない。そのようなものが幻である、と人は考えている。しかし、聖書の世界ではそうではない。肉の目で見る以上に現実性と確かさを帯びているものが「幻」として神から示される。
 今日、我々の周囲の人々が日常語として使っている「幻」という言葉は、聖書の言う幻とは違うのである。聖書で使われている幻という語は「見ること」、「見たこと」、「示されること」、「神から示されること」なのだ。神から示されたものであるから、自分で見ているつもりのことよりも確かなのだ。
 それにしても、聞く言葉と、見ることとは混同してはならないのではないか。預言者は神から与えられたことを、全部ことばとして伝えたではないか。映像を描いたのではないのではないか。なるほど、預言者はたしかに御言葉を語った。だが、この捉え方は十分でない。2章1節を見よう。「アモツの子イザヤがユダとエルサレムについて示された言葉」と書いてある。「示された」とは「見るようにされた」という意味の言葉である。見たものなら、幻ではないのか。いや、ここには「見た幻」とは書かれていない。「見た言葉」と言われるのだ。
 言葉は確かに「聞く」ものである。しかし、時にはさらに踏み込んで、「見る言葉」として把握しなければならない。姿のない言葉として捉えるだけではいけない場合もあるのだ。
 人間の議論は深入りし過ぎると出口が分からなくなるほど脆弱なものであるから、慎しみをもって出来るだけ簡単に論じて行くべきであるが、簡単に言うならば、言葉と幻、あるいは見えるもの、この二つは切り離せない。そのように捉えるなら、混乱を避けることが出来る。切り離して、言葉は言葉として扱った方が分かり易いとも見られるが、いつの間にか、言葉が抽象的な理論になって、生命を失うのである。
 言葉はひたすら耳を傾けて聞くべきもの、という面を持つとともに、見える面を持つ。
 つまりそれだけの現実性を持っている。先に、イザヤが自ら裸、裸足になって、エジプトに頼ることの危険を示した出来事に触れた。軍事力の大きいエジプトを頼って安全を図り、主に依り頼まないことは、不信仰であり、神の裁きを招く。そういう警告が言葉で説教されていた。しかし、神は言葉での説教を命じたもうただけでなく、目に見える印しによって教えることも命じておられる。そういうことは、他の預言者にも屡々見られることを思い起こそう。
 言葉で教えるだけでは印象が弱いから、目で見るという手段をもう一つ付け加えて補いたもうた、と見るのも一つの常識的解釈であろうが、人間が弱いからあらゆる方法を講じて信仰を支えなければならないと説明するだけでなく、本来、言葉は、「印し」と呼ばれる一面を引きずっていると言うべきである。これが聖書で教えられる言葉の重要な特質ではないであろうか。
 言葉は言葉として辻褄が合っておれば正しいのか。数式ならば間違いを含まなければ正しいのであるが、言葉はそれ自体の中に間違いが含まれなくとも、正しいとは必ずしも言えない。言っている言葉は正しくても、語る人が、語るのと逆な生活をしているならば、彼の語る言葉は立派なものと評価されても、実は破綻している。
 要するに、言葉には証しが伴うのである。神もしばしば御自身の言葉に証しや印しを伴わせたもう。旧約の時代にも、神の約束は、約束の言葉だけでなく、印しを伴った。新約においても、言葉に印しが伴う。今日も御言葉には印しが伴うのが通例である。特定の儀式としての印しが重要な場合があることは言うまでもないが、一般的に言っても、神が御言葉を与えたもう時、また預言者が神の言葉を宣べ伝える時、先に例を挙げたように、ある意味の印し、あるいは見えるものが伴うのである。
 さらに付け加えるならば、今日も、御言葉が語られる時、印しが伴っていることに目を向けねばならない。語った御言葉を無にするような印しをしてはならない。
 以上に論じただけでは、預言者が幻を語ったことの十分な説明にはなっていない。だから、「言葉とは何か」について、もっと考える必要はあるが、大体のことは以上で見えて来たのではないだろうか。我々は言葉を重んじ、特に神の言葉を重んじなければならないが、御言葉、御言葉としきりに言いはしても、抽象的な言葉遊びに陥ることになりかねないことに警戒したい。聖書の言葉が見えて来るほどに生々しくまた、深く学ばなければならないのである。イザヤ書の学びに入るに先立って、「御言葉を見る」という課題が投げつけられたことを心に留めよう。
 次に「ユダとエルサレムについて見た幻」と言われる。イザヤはその他の国々のことにも触れているではないか。例えば、13章の初めには、「アモツの子イザヤに示されたバビロンについての託宣」と書かれている。
 エレミヤは「万国の預言者」としての使命を受けた。イザヤはそれよりは狭い範囲の課題を負わせられたようである。勿論、固有の守備範囲以外のことは、本来の預言でなく、外から紛れ込んだ雑音に過ぎず、顧慮するに価しない、と切って捨てるべきではない。ユダとエルサレムのための預言者が、時にバビロンについての預言をしても当然である。預言の元でいます神は世界の神だからである。
 イザヤは「ユダとエルサレム」についての預言を語った。このことは2章1節にも繰り返される通りである。預言者としての召命を受けた時、6章10節で神はイザヤに「あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞こえ難くし、その目を閉ざせ」と命じたもうた。「この民」とはユダの民、神の選民と自負している民である。
 神はイザヤによってこの民に語り、この民の選び、召し、契約、この民の堕落、刑罰、そして回復、就中この民の中にメシヤを生まれさせる約束、そのメシヤがどのようにして贖いを全うするかが告げられる。そのメシヤはユダヤに生まれて来るのではあるが、世界の救い主である。そのようなわけで、イザヤはユダとエルサレムの預言者であったが、メシヤの来臨を預言し、世界の救いを語った預言者として知られている。
 「この民」に告げることこそ必要なのである。彼らはその必要を感じていないだけに、シッカリ教えなければならない。すなわち、彼らは神を知っているつもりであった。先祖伝来の宗教を守っているではないか。エルサレムには諸国民に対して誇ることが出来る立派な神殿があるではないか。我々は宗教において諸国民の中で最も進んでいる、と彼らは思っていた。そういう慢心が間違いだと教えなければならない。だから、ユダとエルサレムのための預言者が必要であった。
 預言者はもっと古い時代からいたのであるが、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルというような大きい書物を残す預言者が現われたのはこの時代である。神がそのような預言者を立てることを必要とされた時代である。
 イスラエル宗教は民族宗教・祭儀宗教としてほぼ出来上がっていた。人々はそう思っていた。だから、人々は預言者の語る言葉を煩わしい余計なことと感じ、預言者を迫害した。寿命を全うして大往生した預言者は恐らく一人もいない。彼らはみな殺されたのである。主イエスはそう教えておられる。
 すでに民族宗教、国家宗教、多数者の宗教、国のうちの誰もが信じる宗教として出来上がっている宗教について、異質なことを言って騒がすのは、神に対する反逆であると人々は大真面目に考えていたのである。すなわち、人々は神の御心を矮小化し、小さく纏まった自己満足の宗教制度を作り上げていた。それが神の御旨に反するとは考えることが出来なかった。
 預言者たちは神から遣わされて、この既成宗教に警告を突きつけ、反発され、預言者たちはこうして一人残らず殺されたのであるが、殺された預言者の墓が後年建てられるようになる。預言者の与えた教えは一旦反発されても、ユダヤ教の中心路線に組み入れられて行く。それが、我々の主イエス・キリストが世に降りたもうた時のユダヤ教であった。預言者はもはや排除されず、預言者たちの書は律法と並んで正典としての位置を認められていた。しかし、まだまだ問題があり、ますます悪くなっていた。キリストを殺して何とも思わない宗教になっていた。
 我々の主、イエス・キリストは世界の主、世界の救い主であられるが、活動の時間の大部分はユダヤ人に向けて、その悔い改めを促すために注ぎたもうた。だが、ユダヤ人は婚宴に予め招かれていながら、いざという時その招きを断った。彼らのように、滅びて行くならば、主の招きは無駄になったのか。そうではない。主イエスがユダヤ人のために3年間心血を注いで教えたもうたことは無駄ではなかった。彼のその働きは全世界の救いの基礎となった。それと同じには扱えないが、ユダとエルサレムに向けてのイザヤのメッセージは全世界の救いのために用いられている。
 さて、イザヤの教えがユダヤ教本流の中に採り入れられることによって、ユダヤ教は誤りを犯すことのより少ない健全な宗教となったかというならば、そうではなかった。ユダヤ教はキリストを殺すような宗教になった。そのようにユダヤ教は主イエスを教えを採り入れて自己を改革し続けることにはならなかったが、キリスト教はどうかというと、これまた必ずしも御言葉による改革をし続けるものではなかった。だから、キリスト教会の中で、御言葉にしたがった改革はつねに叫ばれねばならない。
 祭儀宗教として出来上がっているという意識のユダヤ教は、神の言葉を聞くという最も大切なことを排除して自己完結を図った。それと同じことが教会の中で起こったが、それを今日のキリスト教会がしていないかということが我々への厳粛な問いなのだ。
 イザヤがユダとエルサレムに向かう必要があったように、今日も、神の言葉を語る預言者は、未信者に向けて遣わされるだけでなく、むしろ、特に神の民に向けて遣わされることが必要だということを教えられたい。