◆今週の説教2002.07.28.◆ |
エゼキエル書講解説教 第55回――47:13-23章によって――
神は預言者エゼキエルを通じて、バビロンに囚われている民に、祖国の回復の希望を教えたもうた。それはエルサレム神殿の回復された姿に始まり、そこで行なわれる礼拝の回復が示され、さらにエルサレムの宮の聖所から湧き出る水が東に流れて死の海を命に満ちる海に変える幻として示された。
その次に、今日我々が学ぼうとしている47章13節が来る。エルサレムの焼かれる前に戻るのではなく、エルサレムから命の水が湧き出すようになり、手を伸ばして命の木の実を採ることが出来るようになった新しい世界に入って行くのである。バビロンの囚われから帰還した人々の生活する領域の区分が指定される。 「主なる神は、こう言われる、『あなた方がイスラエルの12の部族に嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。これは私が、あなた方の先祖に与えると誓ったもので、これは嗣業として、あなた方に属するものである』」。 神はイスラエルの先祖アブラハムに、「私はあなたとあなたの子孫にこの地を与える」と約束したもうた。その約束には偽りがなく、約束の変更もなかった。しかし、その約束は直ちに実現するようなものではなかった。アブラハムも、その子たちも、その子孫も、長い間、約束の地にありながら、土地を持たない宿り人であった。ダビデの時代に至って、ようやく約束の地は神の民の所有となったのであるが、ダビデとその子ソロモンの治世の時代が終わると、国は南北に分裂し、その一つまた一つが外国軍の侵入によって潰された。それはイスラエルの民が神の約束の地を嗣ぐに相応しくなかったからである。 国を失った民が70年の捕囚の後、帰国して、国を再建することが約束されていたが、その国の構想は神から示される。人間の思いではなかった。囚われ人が故郷に帰ること、また国を再建することを切に願ったのは確かであろう。しかし、人々の願いを神が認め、それを助けたもうたというよりは、神が御自身のために再建を命じたもうたことこそが重要である。いわば、神が設計図を与えて、「これでやれ」と言われたのである。その構想の基本的な点を13節以下に神が語られる言葉の順序で見て行くことにしよう。 「イスラエルの12の部族」と言われる。どこに12の部族がいたのかという疑問が起こって来る。バビロンに囚われて行ったのは、レビ族の祭司のほかは、ユダとベニヤミンの2部族だけではなかったのか。すなわち、それ以外の9部族は、そうなる前に、北王国の滅亡とともに散り失せてしまったように書かれていた。失なわれた部族の民がどのようにして回復するのか。それについては、この預言の中にも、この後の文書にも、書かれていないから、分からないと言うほかない。神のみの知りたもうところである。「どのようにしてですか」と尋ねることも出来ない。したがって、イスラエルは、神のなしたもうことに信頼をもって委ね、自分たちの栄光の回復を欲求すべきではないのである。 自分の国を愛するのは正しいことである、と世界中の民族がそれぞれに考えている。それに異を唱える理由はない。しかし、そのために愛国心と愛国心が衝突して悲惨な殺し合いがしばしば起こる。国を思う熱心の余り、国を滅ぼす実例も稀ではない。愛国心が良いか悪いかを論じる必要はないが、今、イスラエルの再建についての預言者の指示を聞く時、我々は人類に共通な愛国心を手がかりとして、国の再建を理解しないように心したい。神が全てを定めたもうのである。それは彼らの発想からは出て来ない12支族の再建というデザインである。 神の言葉なしでも、祖国の回復を求める思いがあるから、囚われ人が解放されて、彼らの愛国心と自発性をもとにして、自立した国を建てること、それは、理想として思いめぐらすことが出来るであろう。だが、その際、彼らは既に失われてしまった部族のために土地を確保することなど全く考えないであろう。さらに、22節には、「寄留の他国人の土地を分けて嗣業とせよ」と命じられるのであるが、これはむしろ彼らの考えには逆らう原理である。 次に、「ヨセフには二つの分を与えよ」と言われる。これは新しいことではなく、以前のイスラエルがしていたことである。ヨシュアによる土地分割の際、この方針が守られた。すなわち、ヤコブの12人の息子のそれぞれが12部族の族長となり、それぞれの部族の土地を神から受けるという基本構想であるが、この12人が同じように土地を受けるのではなかった。 二つのことが理由としてある。一つは、12人部族の中でレビ族は祭司もしくはレビ人として、専ら主に仕える務めを行なう。ために、彼らは土地を持たず、地を耕すことをせず、地を嗣業として持つのでなく、主なる神を嗣業とする。第二に、「ヨセフには二つの分を与えよ」と命じられる。ヨセフの子は2部族分の土地を受けるのである。ヤコブの12人の子のうち、ヨセフは若い頃、奴隷としてエジプトに売られてしまった。エジプトでは位人臣を極める出世をするのであるが、エジプトに従属したものとなったから、イスラエルから分かたれてしまう。だから、イスラエルのうちに嗣業の地を持たない。その代わりに、ヨセフの二人の息子がヨセフの名を嗣いで、二つの部族をイスラエルの中に創設する。すなわち、エフライムとマナセである。 こうして、レビ族を除いた残りが12族になる。その12の部族連合が神から賜わる土地を継承するのである。これはかつて、エジプトから帰還後、ヨシュアによって土地が配分されたときとおなじようになる。著しく違う点は、あとで述べる通り、寄留の他国人も籤によって嗣業の地を与えられるというところである。 さて、ここで、主は守るべき原則を言明したもう。曰く、「あなた方は、これを公平に分けよ」。――神御自身が公平を喜びたもうお方であるが、神はまたその民にも公平を命じたもう。この公平がイスラエル社会の最も基本的な掟である。これが神の民であることの印である。公平が大事であるということは誰もが一応知っているはずである。だが、公平よりももっと大事なものがあると言い出す人がいる。例えば、緊急事態、有事。緊急のときは、公平などと言ってはおられない、と人は言う。それで多くの人は納得して、不公平を我慢する。では、緊急事態でなくなったなら公平に戻るか。戻らないのである。緊急事態のなかで不公平がいっそう助長される。持てる者はますます持ち、持たない者は持っている物まで取り去られる。 もう一つ上げれば、自分の身近な者に対する依怙贔屓である。これも公平を破壊する。それが分かっていてもなかなか改まらない。身内に対する愛だから、愛は尊い、と見逃されてしまう。「公平」が良いものだということは分かっていても、これを行えと命令される生ける神がおられなければ、絵に描いた餅と同じである。我々はその生ける神を知っている。「公平」という尺度を厳密に適用して、いつもいつも、自分の考え方、行動、また持ち物を検討し続けることがないと、不公平がたちまち蔓延るのである。貪欲でないつもりでいても、自己検討の注意を怠ると、不公平になる。現代は特にそういう時代である。人を踏みつけていても分からない。 主は言われる、「これは私が、あなた方の先祖に与えると誓ったもので、これは嗣業として、あなた方に属するものである」。先祖に誓われた約束を神御自身が守り、成就したもう。だが、その子孫が約束に相応しくない民となったなら、約束は消滅してしまうのではないか。そうではない。神は御自身に背く者を罰したもう。けれども、約束の撤回はされない。神の真実は人間の不真実に連動して消滅するというものではない。人は状況が変われば、約束を忘れて良いと思うのであるが、神の約束は条件を越えたものであるから、状況が変わっても消滅しない。だから、約束の履行を停止されることはあっても、約束そのものがなくなることはない。これが我々の確信でなければならない。 「これは嗣業としてあなた方に属する」。嗣業というのは労せずして獲得した権利と取られる面はあるが、神の民においては、義務という面もある。先祖に対する義務、子孫に対する義務、そして何よりも神に対する義務がある。神がその民に土地を賜わったのは、神の国が来ることのいわば前渡し金であり、同時に神の国が来ることの証しを立てさせるためである。そして、神の国が来た時には、自分の預かっていた地を神のお返しするのである。お返しするものを失なってしまうほど不面目なことはない。 守り嗣いで最後の日にはお返しするのは土地だけではない。土地というのはむしろ象徴なのだ。守り嗣ぐのは神の約束であり、約束を真とする信仰である。「先祖の嗣業を人に譲ってはならない」と言われて来たが、それは、信仰を親から子に一貫して受け継がせ、終わりの日まで持ち続けさせることを象徴したものである。 親から受け継いだ土地をさらに増やして子孫に受け継がせる事は、先祖に対しても子孫に対しても良いことだと考えられ易い。しかし、これは禁じられる。こちらの人が土地を増やすならば、他の人の嗣業の地をそれだけ浸食したことになる。親族の中で土地を失なう人がいたならば、近い身内のものがそれを買い戻さなければならないという規定がある。レビ記25章25節には、「あなたの兄弟が落ちぶれてその所有の地を売った時は、彼の近親者が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない」と命じられる。 15節、「その地の境はこのとおりである」。神が全体の地境を定め、部族の順序を指定したもう。部族の中の細かい割り当ては籤で決める。「北は大海からヘテロンの道を経て、ハマテの入り口およびゼダデに至り、またベロテ及びダマスコとハマテの境にあるシブライムに至り、ハウランの境にあるハザル・ハテコンに及ぶ。その境は海からダマスコの北の境にあるハザル・エノンに及び、北の方はハマテがその境である。これが北の方である」。地中海の岸から東に入る道があった。ヘテロンの道という。それを行くとハマテの入り口があり、入り口からハマテまではまだまだ遠く、シリヤのずっと北である。土地の名を詳しく特定することは難しいが、北の境はかなり北に伸びている。ダビデ王の時代に軍の長であるヨアブによって国勢調査が行なわれたことがサムエル記下24章に書かれているが、彼の回った道筋を見ると、ダビデの支配の領域がほぼ分かる。北の方はシリヤの方まで広がっていた。ダマスコを囲い込んだのではないが、ダマスコの線まで北に伸びた。そこにダン族が住んでいた。ソロモンの時代にもイスラエルの住む領土は「ハマテの入り口からエジプトの川に至るまで」に及んだことが列王紀で知られる。 次に東の境であるが、これは「ヨルダンに沿って東の海に至る」と言われる。ヨルダンが国境になっているようである。地名がよく分からないが、大体の輪郭は分かる。滅亡前のユダとイスラエルは、ヨルダンの東にも土地を持っていた。ルベン、ガド、そしてマナセの半部族はヨルダンを渡る前にすでに東の土地を得ていた。それについては何も触れていない。すなわち、新しくなるのであって、もとに戻るということではないのだ。 次に、「南の方はタマルからメリボテ・カデシの川に及び、そこからエジプトの川に沿って大海に至る。これが南の方である」。申命記32章51節にチンの荒野にあるメリバテ・カデシという地名があるがメリボテはメリバテと同じであろう。そして、これはイスラエルが水がなくて反乱を起こしたメリバと同じであろう。死海のずっと南に下って、それから西に折れて、カデシ・バルネアを通ってエジプトの川に沿って海に出る。エジプトの川とはエジプトとの境にある川である。こうして、西はエジプトの川からハマテの入り口まで地中海が境になる。 大事なことは22節以降である。「あなた方は籤をもって、これをあなた方のうちに分け、またあなた方のうちにいて、あなた方のうちに子を生んだ寄留の他国人のうちに分けて、嗣業とせよ。彼らはあなた方には、イスラエルの人々のうちの本国人と同様である。彼らもあなた方と一緒に籤を引いて、イスラエルの部族のうちに嗣業を得るべきである。他国人には、その住んでいる部族のうちで、嗣業をこれに与えなければならない、と主なる神は言われる」。あなた方が嗣業の地を籤で分けるだけでなく、一緒に住む他国人にも土地を分けて彼らの嗣業の地とせよ、と命じられる。かつてイスラエルがカナンに侵入した時、先住民を殺して町を奪ったのであるが、バビロンから帰還する人たちには先住民と平和に共存することが命じられる。 この「他国人」というのはどういう人たちか。「子を生んだ他国人」というのは定住しているという意味である。久しく定住している者には市民権を与えるという、当時としては類のない融和的な生き方が命じられた。ただし、その命令をバビロンから帰還した人々が厳格に守ったようには思われない。それが神を信じている他国人であるというのが一つの解釈である。しかし、神を信じる改宗者でないと考える余地もある。レビ記25章47節に、これは昔のことであるが、「あなたと共にいる寄留者または旅人が富み、その傍らにいるあなたの兄弟が落ちぶれて、あなたと共にいるその寄留者、旅人、または寄留者の一族の一人に身を売った場合」と書かれているが、ともにいる他国人とは貧民であるに限らない。イスラエル人よりも豊かな場合があり得る。 この章の最後の部分はハッキリとは読み取れないところもあるが、前回学んだ命の水の場面の続きであるから、終わりの日の諸国民との間に実現する平和を述べたものと取るのが良いではないか。異邦人が神の都を取り巻く地域に住んで、嗣業の地を受け、礼拝に参加するのである。こうして平和の君の到来を待つのである。 |