◆今週の説教2002.02.24.◆

エゼキエル書講解説教 第51回――44:23- 31によって――


  新しいエルサレムにおける祭司の規定の中で、24節に「争いのある時は、裁きのために立ち、我が掟にしたがって裁く」と書かれている。このところは読む人に意外な感を与えるかも知れない。祭司が裁判に携わるという記事は確かに旧約の歴史の中に時々ある。例えば、ユダの王ヨシャパテは、レビ人、祭司、及びイスラエルの氏族の長たちを選んでエルサレムに置き、主のために裁判を行ない、争議の解決に当たらせた」と書かれている。歴代志下19章8節の記事である。
 裁判が行われないことは無秩序と同じである。イザヤ書11章のメシヤ来臨の預言の中に「その目の見るところによって裁きをなさず、その耳の聞くところによって定めをなさず、正義をもって貧しき者を裁き、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口の鞭をもって国を撃ち、その唇の息をもって悪しき者を殺す、云々」とあるのは、メシヤが来て、うわべの判断によって人を裁かず、正しい裁きを行なわれるならば、それによって国のうちに平和と繁栄が実現する、そのさまを描写したものである。
 裁く者は神に代わって裁くのであるから、神がそうであられるように、人を偏り見てはならないし、具体的には賄を取ることが固く禁じられる。この規定を守る者でなければ裁き人になれない。ヨシャパテが祭司を裁判官にしたのは、祭司にはこの規定を守ることが出来るからであった。
 しかし、イスラエルの歴史全体を通じて見るならば、裁判に携わることと、礼拝のために専ら仕えることとはハッキリ区別される。モーセは民の裁きに携わったが、礼拝の管理はアロンの仕事であった。モーセが一人では民の裁きを担い切れないので、70人の長老が立てられて裁判のことでモーセを助けた。その70人の長老は各氏族から立てられた者である。これがイスラエルを治める自治機構であった。裁判のことは彼らが行なう。
 そのうちにイスラエルのうちにも王が支配し、裁判をする制度が立てられるが、その制度の基礎は氏族の長老であり、今日で言う下級審は長老たちが町々の門で開く裁判であった。祭司は通常、裁判には携わらない。
 何よりも主イエスの場合を見るべきであろう。ルカ伝12章の13節以下にこういう記事がある。「群衆の中の一人がイエスに言った、『先生、私の兄弟に、遺産を分けてくれるように仰って下さい』。彼に言われた、『人よ、誰が私をあなた方の裁判人または分配人に立てたのか』」。――主は裁判人になることを拒否しておられたのである。人々はこのような方こそ裁判人に相応しいと考えたのであるが、彼は「私の職務はそれではない」と言われたのである。
 遺産の分割が規定通りに行われず、不正があるならば、裁判に訴えて是正するのはこの世の秩序として正当なことである。そして主イエスは、人格の高潔な方であり、正義を全うするお方であるから、彼に正しい裁きをしてもらいたいと求める人がいたのは当然と見られるかも知れない。
 しかし、彼は裁くために来たのでないと言われる。さらに、御自身に裁きを期待することは、地上的な物への欲望あるいは執着なのだとそこで教えたもう。
 「政教分離」という言葉は今日的なもので、そこには問題のある要素も含まれている。
 すなわち、神の栄光のための現世という姿勢を排除する世俗主義がある。その一面もあるが、主イエス御自身は最も深い意味で政教分離を体現しておられるということも見落とすことは出来ない。彼がピラトの法廷において、「私の国はこの世のものではない」と言われたのは同じ主旨である。
 「悪しき者には手向かうな。右の頬を打たれたならば、左をも向けよ」と主は教えられた。ということは、「悪人が恣に振る舞っているのを放置しておけ。この世がどんなに乱れていても、この世のことに関わりを持たないで、ひたすら来たるべき世に思いを向けよ」という主旨なのか。そうではない。悪を抑制することは神の創造された地上の秩序を保つことなのだ。神はこの世をも支配しておられる。我々はその支配に服しなければならない。しかし、それはこの世の秩序であり、来たるべき世の永遠の秩序ではない。この区別は混同しないようにしなければならない。
 主イエスは過ぎ行くこの世の幸福の増進のために来て、十字架におつきになったのではない。来たるべき世について教え、永遠の命を与えるために来られた。この世の幸福と彼の教えとを混同してはならない。この世の善は善であっても、永遠とは別の次元のことになる。我々は肉の体をもってこの世で生きているから、当然この世の秩序にも従う。しかし、この世を越えたところ、天に本籍を持っているから、地上の国の秩序を乱すようなことはしないが、本拠を天に置く者として行動を選択する。謂わば二つの国の市民権を持つのであるが、天国の市民であることの方が優先する。この二重籍の区別、これが我々にとっての「政教の分離」なのだ。だから、天国の鍵を行使する権能を委ねられているとはいえ、我々は地上において高い権威を要求することはしない。主の栄光が汚され、信仰生活が侵害されることに対しては戦うが、信仰の名によって権力を行使することはない。むしろ苦難と敗北に甘んじるのである。
 旧約の時代から王と祭司の職務は分離されていた。王の職務と祭司の職務の綜合が理想として考えられたと言えなくないが、現実には、この二つの職務を兼ねた、あるいは兼ねようとした人物は、旧約のイスラエルの歴史の中には現われない。王であるとともに祭司である人物として旧約聖書に出て来るのは、イスラエルの中ではなく、アモリ人のなかにいたサレムの王メルキゼデクである。父もなく、母もなく、系図もなく、墓も残さず、遺跡もなく、ただ一度アブラハムを祝福するために現われて消えた人である。それは来たるべきメシヤにおいて実現すべきことの先触れであった。
 王が支配するという制度が、イスラエルに初めからあったわけではない。初め、人々は律法には従ったが、自ら正しいと思うことを行なっており、氏族連合としてゆるい結合によって統一され、それで社会秩序が保たれていた。外国からの影響があって、イスラエルの中にも王が欲しいと人々が言い出した。それで預言者サムエルがベニヤミン族のうちからキシの子サウルを選んで王として立てたのである。
 祭司制度もまたイスラエルに初めからあったものではない。他民族ではもっと古くから祭司制度を持っていた。例えば、ヨセフの舅ポテペラはエジプトのオンの祭司であった。また、モーセの舅エテロはミデアン人の祭司であった。その時、イスラエルには祭司はいなかった。モーセの兄アロンが初めの祭司である。そういうふうに、祭司制度は外から採り入れられた。そして、歴史の中で発展して来た。
 王も祭司もいなかった時分、イスラエルは存在しなかったかというと、そうではなく、むしろ、王も祭司もいなかった所に、信仰の父アブラハムが立っていた。王がいなくても彼自身が王であり、祭司がいなくても彼自身が祭司であった。後から採り入れられた制度は、それが信仰の教えと励ましに役立つ限りにおいて採り入れたのであった。要するに、制度については固定的に考えてはならないし、その制度の目的をシッカリ見ていなければならない。
 それでは、今日学ぶところに、祭司が裁判をすると書いてあるのは、どういう意図であるか。これまでも祭司が裁判を行なったケースがあるから、今後もあると見ることは出来なくない。しかし、ここに書かれているのはそのような、謂わば臨時に、必要に迫られて実施されるということではないであろう。
 24節の前、23節には「彼らは我が民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと潔いものとの区別を示さなければならない」と言われる。ここから入って行く。つまり祭司は律法の教えをなすと言うのである。旧約の民は神の御言葉に教えられ、律法を守ってこそ生きるのであった。だが、神の言葉を教える務めは誰が遂行するのか。教える人がいなければ、神の民は神の民として存続出来ないではないか。だが、旧約における教えの制度は必ずしも明確でない。古くは、一家の家長が家族に父祖から伝えられた御言葉を教えたようである。
 ところが、人口が増えたり、社会が単純でなくなったりして、家族の中での教育が難しくなると、一家の家長のほかに、教える務めが立てられる必要が出て来た。その時期になって預言者が出現する。
 御言葉を教えるという務めなら、祭司よりも預言者の方が相応しいのではないかと考えられる。だが、預言者というものは制度化に馴染まない。制度化すると預言は窒息してしまう。神の御霊の自由な働きによって召しがあれば、預言者の務めが始まる。経歴も家柄も男女差も問われない。預言者はまた、自由な御霊の働きによって御言葉が与えられれば語るが、そうでなければ何も言わない。
 それだけに、御霊の自由な働きが止めば、預言者活動はなくなり、預言者のいない時期になる。預言者がいないからといって、人々が寄り合いをして誰かを代人に立てることは許されない。いない時はないままなのだ。そういう時、神の直接の託宣を語る人はいなくても、書物に記された神の言葉があれば、それが読まれ、教えられ、神の民は保たれたのである。
 それで、神の言葉が絶えず教えられて行くためには、祭司が教師になるのが良いと考えられたのである。この精神がバビロンの囚われの中で盛んになった。これも確定的制度と見ない方が良いであろう。制度がどうであるかではなく、神の民は神の言葉を教えられ続けなければならないということを大局的に把握しなければならない。主イエスの来られた時代に、祭司は教えの務めから手を引いており、律法学者が教えていた。今の時代にも神の言葉は召しを受けた器を通して、神の民に教えられている。
 バビロンの囚われから帰って来た時、ネヘミヤ記8章の初めにあるように、この群れを教えたのは、祭司である学者エズラであり、他の祭司たちが彼を助けた。以下のように生き生きと書かれてある。「その時、民は皆一人のようになって水の門の前の広場に集まり、主がイスラエルに与えられたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに求めた。祭司エズラは7月の1日に律法を携えて来て、男女の会衆および全て聞いて悟ることの出来る人々の前に現われ、水の門の前にある広場で、曙から正午まで、男女および悟ることの出来る人々の前でこれを読んだ。民はみな律法の書に耳を傾けた。学者エズラはこの事のために、かねて設けた木の台の上に立ったが、彼の傍らには右の方にマッタテヤ、シマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤおよびマアセヤが立ち、左の方にはベダヤ、ミサエル、マルキヤ、ハシュム、ハシパダナ、ゼカリヤ、およびメシュラムが立った。エズラは全ての民の前にその書を開いた。彼は全ての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、全ての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民はみなその手を挙げて『アァメン、アァメン』と言って答え、こうべを垂れ、地に平伏して主を拝した。エシュア、セレビヤ、ヤミン、アックブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザリヤ、ヨザバデ、ハナン、ベラヤ、およびレビ人たちは民に律法を悟らせた。民はその所に立っていた。彼らはその書すなわち神の律法を明瞭に読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた」。
 さて、祭司が裁判をすることに戻るが、これも律法の教えと結び付いている。「我が掟に従って裁き」と言われているように、裁判の実施は、単なる社会秩序の維持ではなく、律法に基づく裁判の実行である。
 裁判のことに続いて、24節の後半に、「私のもろもろの祭りの時は、彼らは我が律法と定めを守り、我が安息日を聖別しなければならない」と律法の礼拝規定について書かれているのは、この裁判が律法の実施であることを示している。
 その次に死人の扱いのことが出ているが、死が汚れであると見られていたこともあって、祭司は死人の葬りにはタッチしないのである。葬式宗教とは無縁である。死人の葬りには迷信が入り込みやすい。それに、旧約においては、葬式は家族の営みである。だから、祭司の家族の死に際しては関与するのである。
 最後に祭司の規定として、嗣業がないと言われる。イスラエルには土地が分割されて与えられた。しかし、レビ族には土地の配当はなかった。土地を与えられた者らはその土地を耕したり、牧畜をして、生産に携わる。しかし祭司とレビ人は、専ら祭壇に仕え、御言葉を教えることに携わり、朽ち行く物の生産には関与しない。
 これは祭司の務めが聖なる務めであって、他の職業より尊いという意味であると言う人がいるが、そういう理解はあったかも知れない。主イエスが善きサマリヤ人の譬え話をされた時、半死半生の人の傍を通り抜けて行く祭司がおり、レビ人がいる。主がこういう譬えを語られたのは、祭司とレビ人が特権階級であったこと、経済的には貧しい生活であったとしても、人々から尊敬されて誇り高く生きていたからである。
 今日においてはどうなるか。伝道者は専ら神に仕え、また人々の救いのために仕えているのであるから、世俗の労働に携わってはならないと考える人もいる。自分の生活のためということを忘れて神の御業のために打ち込むことは結構なことと言うほかないであろう。しかし、旧約の事情を新約の今のことと混同することは間違いである。I ペテロ2章9節には、「あなた方は選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗闇から驚くべきみ光りに招き入れて下さった方の御業を、あなた方が語り伝えるためである」と教えられている。昔は「聖なる国民」、「神につける民」というのはイスラエルだけであるとされていた。今は、あなた方がそうなのだと言われる。昔は「選ばれた種族」、「祭司の国」というのはレビ族の祭司、特にザドクの家系の祭司だけであったが、今ではキリストの民が全て祭司なのである。
 「彼らには嗣業はない。私がその嗣業である」。この言葉が我々に当てはまるのである。嗣業とは、言葉の意味としては、親から子に受け継がれる財産であり、旧約のイスラエルについて言えば、ヨシュアによって分けられ預けられた土地である。それについては45章でさらに学ぶことになっている。
 旧約の人々は嗣業の地を大事にした。彼らは零落しても嗣業の地を賣ってはならない。
 もし手放さなければならなくなったならば、親戚が買い戻さなければならない。それほど大事にしたのは、神から賜った賜物であるだけでなく、最後の日には、神の国の土地として、神にお返ししなければならないからである。
 主イエスがタラントの譬えで語りたもうたように、終わりの日にはお返ししなければならない。その日になって、返すべきものが失われていたとすれば、その人の全歴史、親から子への全歴史が空しかったということになるのである。
 さて、我々は「私がその嗣業である」との御声を聞いているのである。神は実りある土地という恵みを差し出したもうのでなく、むしろ御自身を差し出したもう。ということはどういうことか。神が御子イエス・キリストにおいて御自身を我々のものとして差し出しておられることである。

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