◆今週の説教2001.12.30.◆ |
エゼキエル書講解説教 第49回――44章4-14節によって――
主の栄光が宮に戻ったことが、43章から44章の初めにかけて語られた。主なる神はこれからはこの宮を住みかとして留まり、民の礼拝を受けたもう。そこで、礼拝はどのように捧げられねばならないかが次に示される。宮に栄光が満ちただけで終わるのではない。
エルサレムが回復し、神殿が再建され、人々が礼拝に集うようになり、それから礼拝の水準が向上し、主の栄光が回復するに至るという順序で事が進むのではない。下からだんだん築いて行くのでなく、むしろ上から始まって降りて来ると言うべきであろうか。 人間の手によってでなく、神の尺度に則って、御使いの手によって造られた宮に、先ず神が入りたまい、その次に礼拝する民が起こされる。 主の栄光が東の門から入り、門は閉じられ、主の栄光は宮の聖所のうちに満ち、それから5節で言われる、「人の子よ、主の宮の全ての掟と、その全ての規定とについて、私があなたに告げる全ての事に心を留め、目を注ぎ、耳を傾けよ。また、宮に入ることを許されている者と、聖所に入ることの出来ない者とに心せよ」。 主の栄光が宮のうちに入ったなら、その栄光を拝する礼拝が自然に生み出されるのではないか。そうではない。生まれながらの人間が、生来の判断力によって正しい神礼拝を選び取ることが出来ると思うのは錯覚である。神から教えられなければ、人は決してまことの神を礼拝しないし、正しいやり方で礼拝を捧げることも出来ない。 さらに、主の宮における礼拝にはいろいろな規定が課せられる。このことを聞いてますます意外に思う人がいるかも知れない。そもそも礼拝は全ての人に開かれているのではないのか。確かに、聖書は全世界の造り主なる神が全ての者によって崇めらるべきであり、かつ、全ての人が礼拝に来ることが出来ると教えている。イザヤ書2章の有名な預言がある。「終わりの日に次のことが起こる。主の家の山はもろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え、全ての国はこれに流れて来、多くの民は来て言う、『さあ、我々は主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我々に教えられる。我々はその道に歩もう』と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである」。――主の家の山はもろもろの峰より高く聳えるのであるが、全世界の民は流れる如くに、遮るものもなく、エルサレムに集まって来る。したがってそこには自由な礼拝がある。 そこでは難しい規定は課せられない。「全て重荷を負いて労する者は我に来たれ。我汝を休ません」と言われる通りである。ただ、この恵みの真理を曲げてとって、この世の猥雑なもろもろをそのまま聖なる御前に持ち込むことが許されると思うならば飛んでもない間違いである。そのことは容易に理解できるであろう。だから、礼拝には規定がある。この規定を排除してしまうと、礼拝は名前だけで礼拝の実質のないものになる。人はそれを礼拝と呼び、礼拝を捧げているつもりになっているが、それが礼拝でないのだということを知るべきである。神は礼拝に掟を課したもう。この掟によって、我々は礼拝でないものを「礼拝」と呼んで、自己満足することがないように守られている。 この事情を分かり易く教えて下さったのは主イエス・キリストである。マタイ伝22章の記す王子の婚宴の譬えを思い起こそう。王は当時の習わしにしたがって、婚宴に招かれた全員のために礼服を用意して待っていた。しかし一人だけ礼服を着けないで宴席に座っている者がいる。王は穏やかに言う、「友よ、どうしてあなたは礼服を着けないでここに入って来たのか」。問われた客は答えない。問いを無視している。つまり、「何を着ようと私の勝手ではありませんか。なぜ礼服を着けないかの理由を説明する義務はないでしょう。私はここで座っていたいから座っているだけだ」と心の内で答えていたのである。そこで王は「この者の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」と言う。彼は祝宴から一転して滅びの淵に投げ出される。 「礼拝者には条件がある」と言うと分かり難いし、また誤解の生じるもとであろう。やはり無条件ということを確認しなければ分かり難いし、間違いになる。礼拝への召しは価なしのものである。しかし、招かれて来たからといって、礼拝が礼拝として成り立っているとは必ずしも言えない。恵みとして条件が与えられる。恵みであるその条件を受け入れないなら、呪われて外に捨てられるのである。 では、イエス・キリストは彼の説教を聞きに集まって来た者らに、「この説教を聞くからには、聞くに相応しい聞き方をし、聞いた者に相応しい応答をせよ」と言われたのか。そういう主旨のことは言われなかったように受け取っている人が多いようである。だが、そうではない。たしかに、神の国の謂わば募集規定のような条件が先ず示されて、条件をクリアした者が選り分けられるというのではないが、御言葉を聞いているうちにその言葉によって聞く姿勢が整えられずにおかないような教え方を主はしておられる。 例えば、ヨハネ伝13章15節で、「私があなた方にした通りに、あなた方もするように、私は手本を示した」と言われたではないか。また、その少し後、34-35節で、「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなた方が私の弟子であることを、全ての者が認めるであろう」と言われた。 つまり、この新しい掟によって、選び分かたれていたがまだこの世には見えなかったキリストの民が、立ち上がり・整えられ、それが世の前に示され、世はその群れをキリストの群れであると認めるのである。主の民とは主の栄光のための民である。エゼキエルに示されたことと、ヨハネ伝で今読んだことは、一見かけ離れているかのように思われるが、エゼキエル書に書かれている掟は、もっと明らかにされた形としては、キリストが与えたもうた「互いに愛し合う」という掟であり、身をもって示したもうたことになる。 「私があなたに告げる全ての事に心を留め、目を注ぎ、耳を傾けよ」。その規定は神が与えたもう。指導者が基準を設けるというのではない。また、いろいろ試行錯誤したのちに基準が出来るというのではない。神が語りたもうのである。 それを誠実に、意味を十分深く汲み取って受け取らなければならない。心を留め、目を注ぎ、耳を傾けよ、とはその意味である。 次に「また宮に入ることを許されている者と、聖所に入ることの出来ない者とに心せよ」と言われる。入って良い者といけない者の区別がある。この区別は、選民と異邦人の区別、まことの祭司と祭司補助役の区別である。「心せよ」とは、その区別をよく弁え、入るべからざる者が入ることがないようにせよという意味である。だが、その区別は出来るのか。区別に当たって目を付けるべき点はどこなのか。 我々が主の民とそうでない者とを区別しようとすれば、間違う場合が多いことは確かである。主イエスは毒麦の譬えで、毒麦を抜き取ろうとして正しい麦を駄目にしてしまうと警告したもう。神が判定したもう刈り入れの時を待たなければならない。それは我々に識別眼がないことを指摘するだけでなく、自らを主たらしめているという誤りに対する裁きである。 しかし、「見分けることは私に出来ません」と言うのが正しいのであろうか。謙遜は大事なことであるが、「羊の皮をかぶった狼に注意せよ」と言われているのに、注意を怠って、それを見破れず、狼を羊の囲いに入れてしまい、その狼を制することが出来ないため、羊が荒らされるままになるとすれば、罪は大きい。そういうことが仮にあるとすれば、という話しではない。これは今日の教会の問題である。いや、今日に始まったことではなく、教会の初めの時からあったものである。 使徒行伝20章29節で「私が去った後、狂暴な狼があなた方の中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らすようになることを私は知っている」とパウロがエペソの長老たちに言ったが、それはかなりハッキリ予測されたことなのだ。教会はずっと狼の侵入と戦って来たのである。少なくとも、群れの牧者たる者、すなわち、ここでパウロは長老たちに警戒を促しているのであるが、彼らは狼を見抜かなければならないし、主の群れに、相応しくない者は放逐するなり矯正するなりしなければ、教会は荒れ廃れるのである。そこで、見分ける基準、また見分ける眼識が主によって与えられるよう祈るのである。その基準は、新約の教会においては、キリストを正しく示しているかどうかであるが、旧約では単純に律法にかなっているかどうかであった。律法に適わない者は斥けられねばならない。 では、宮に来るに相応しい者はどこにいるのか。ここで、さらに驚くべき言葉を聞くのである。「また、反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことを止めよ」。 礼拝に来るに相応しい汚れのない者がどこかに待機しているというのではない。召されるのはイスラエルの民なのだが、彼らは今汚れたことをしている。反逆の家なのである。だから、彼らは先ずその汚れたことから離れなければならない。 預言者の務めは汚れていない民を掘り起こすことではなかった。汚れていない民がどこかに取り分けられていることはあるかも知れない。例えば、預言者エリヤに神が示したもうたように、バアルに膝を屈めない七千人を神は残したもう、という場合はある。そのような隠された七千人を掘り起こすことが預言者の使命である場合もある。しかし、エゼキエルに今命じられているのはそういうことではない。イスラエルの民の全体が汚染されている。それを礼拝者に相応しく整えることが預言者の務めなのである。 「イスラエルの家よ、その憎むべきことを止めよ」。この「憎むべきこと」とは何であるかについては、次の節で明らかになるから、今は触れない。考えねばならないのは、今それを止めよ、と言われる意図である。「あなたのしていることを直ちに止めるのは難しいであろうから、今のままで主の招きを受け入れてはどうか。今していることを止めるよりもっと重要なのは主の恵みを受け入れることである。恵みを先ず受け入れれば、あなた方は自ずと変わって行くのであって、今している憎むべきことに何の興味も感じなくなる」。――そういう助言をする指導者は現今少なくない。妥当な助言のように思われるかも知れない。「今止めよ」というのは律法主義的で、「今止めなくても良い。そのうちに必ず止めるようになるから」というのが福音的だと論じられている。 なるほど、今止めなくても、そのうちに止める時期が来ると言えそうである。しかし、いつまで経っても止めない場合がある。それどころか、その憎むべきことが、ますますはびこって福音が根付くのを妨げるケースが多いのではないだろうか。「あなた方は、少しのパン種が粉の塊全体を膨らませることを知らないのか。新しい粉の塊になるために、古いパン種を取り除きなさい」。コリント人への第一の手紙5章6-7節の言葉は、たしかに礼拝の民の形成の戦いを反映したものである。 7節で主は言われる。「あなた方は私の食物である脂肪と血とが捧げられる時、心にも肉にも割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った」。 「割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した」。これは何時の出来事を言ったのであろうか。その事実について我々は的確には知らないが、宗教の紊乱状態において、異邦人が犠牲奉献に関与し、また聖所に踏み入れることは少なくなかったと考えられる。それは、エゼキエルのこの預言がなされる以前であったが、バビロンに捕らえ移される以前であろうか。確かにそうである。だからエルサレムはその宮もろともに滅びた。しかし、バビロン捕囚後も変わらなかった。それは11章でエゼキエルに示された幻によってハッキリしている。 「私の食物である脂肪と血」という言葉を聞いて驚く人がいるかも知れない。勿論、この「食物」というのは比喩である。神が動物の脂肪を食べ、動物の血を飲まれる場面を想像してはならない。食物と言われるのは捧げ物のことである。捧げ物とはいえ、単に犠牲奉献の儀式の仕方に関して語られるのではない。「心にも肉にも割礼を受けない異邦人」という言い方が示すように、肉の割礼を受けていさえすれば正規の神の民、犠牲奉献の適格者であるということではないのである。 イスラエルは肉の割礼を受けていたが、心の割礼、すなわち新しく生まれることを経験していたわけではない。そういう点で無割礼の異邦人と異なるところはない。ではイスラエルも異邦人も同じであるか。そうではない。神の民が分け置かれるということの意味は大きい。 「もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った」という際の「憎むべきもの」とは偶像を指すと考えられる。イスラエルは偶像を用いず、専ら主の言葉を聞いて信ずる信仰に立つべきであって、偶像を採り入れると、途端に契約は消滅するのである。 異邦人が礼拝に関与するのは悪しき動機からではないかも知れない、という議論があろう。キリスト教会の第一世代に、多くの異邦人がまことの神を求めてユダヤ人の会堂に出入りしていた。会堂だけでなくエルサレム神殿にも異邦人が来ていた記録を幾つも読むことが出来る。だが、エゼキエル書で指摘されている罪はそのことではない。礼拝の混乱を指摘しているのである。 異邦人の介入は、異教の犠牲奉献の混入のことである。例えば、列王紀下16章10節によれば、ユダ王アハズはダマスコの神殿の祭壇とソックリ同じものをエルサレムに作らせているが、この祭壇で犠牲を捧げる時、異邦人がいたことは十分あり得た。また、その前、祭司エホヤダによる変革が行なわれるまで、エルサレムにはバアルの宮があったことが列王紀上11章18節にある。さらに、各地の高き所の礼拝はヤーヴェ礼拝という名であったとしても実質はバアル礼拝の混入したものであり、異邦人と渾然一体になったのである。 今日のことに飛躍するが、キリスト教会という名の集団の中で、主の死を告げる聖晩餐が記念される時、弁えのない者がこれに与ることは禍いを招くと使徒が警告しているにも拘わらず、弁えなき者をこれに与らせている向きがある。異邦人のうち心と肉とに割礼を受けない全ての者は、わが聖所に入ってはならないとの禁止命令が直接このことを言うと見る必要はないとしても、関わりを考えて見なければならない。 さて、礼拝秩序の最も肝心のところは、礼拝をリードする祭司の姿勢である。10節に、「レビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、私から迷い出て、遠く離れた者はその罪を負わねばならない」と言われ、また、12節では、「彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって罪の躓きとなった故、主なる神は言われる、私は彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない」と言われる。民らの求めに応じて偶像を用いる礼拝を執行した祭司がいた。神は彼らの先祖との約束故にレビの子孫を聖なる務めに任じたもう。しかし、そのうちの幾らかは失格者であった。 この躓きの事実の詳細は分からないが、同じレビ族の祭司で、ザドクという人が信仰の純粋な道を守って偶像反対の戦いをした。レビ人とザドクが戦ったようである。ザドクという名の祭司はたくさんいて特定が困難である。このザドクの信仰、その神学を受け継いで行くのが15節以下にあるザドクの子孫の祭司である。その子孫が来たるべき回復の日に祭司を勤めるということが15節で語られるのである。 イスラエルが迷った時、祭司自身も迷って偶像礼拝に引きずられることもあったのである。祭司の間で信仰を守るための戦いが行われたのである。その戦いが再建された神殿の礼拝に痕跡を残すのである。我々はその戦いの厳しさを思い知らされるのである。
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