◆今週の説教2001.11.25.◆ |
エゼキエル書講解説教 第48回――44章1-3節によって――
「こうして彼は私を連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった」。
44章をよく理解するために、先ず、ここまでの経過をおさらいし、エゼキエルがどういういうふうに一巡したかを頭に描いて置きたい。 預言者は回復された宮を、御使いに案内されて見て回り、再び東の外門に戻って来た。 ここは、エゼキエルが御使いに導かれて新しい宮を見て回る順路の出発点である。40章17節によると、エゼキエルはこの門から外庭に入り、先ず北の外門に向かう。40章20節にあった通りである。 そこから南の外門に回る。40章24節である。続いて28節にある通り、南の内門を通って、内庭に入り、その内庭を横切って東の内門に行く。32節にある通りである。次に、35節にあるように、北の内門を見せられ、次に、38節にあるように、門の建物に組み込まれている、供え物を洗う部屋、また犠牲の獣を屠る部屋を見る。それから、44節以下にあるように、内庭にある二つの部屋、すなわち宮を守る祭司と祭壇を守る祭司の部屋を見る。 それから47節の終わりに書かれているように、神殿の前にある祭壇を見て、それから神殿の聖所の建物の中に案内される。祭壇については40章の中では、そこを瞥見したことにだけしか触れないが、43章13節以下で詳しく述べられる。 先の続きであるが、41章で建物の中を一わたり見終わって、42章にあるように、神殿の外にある北側の建物を見、それから北側の外庭を通って東門から外に出、宮の周囲を測って見る。それで、宮の規模に関しては見終えたことになり、東門に戻って、43章にある通り、イスラエルの神の栄光がこの東の外門と内門を通って聖所に入り、宮に主の栄光が満ちるのを見る。 我々の了解するように、エルサレムの宮が再建されるよりも、イスラエルの神、主の栄光がそこに帰って来るくだりが、エゼキエルの預言のクライマックスであるが、そこで万事が終わったわけではない。それからのことを今日は学ぶ。回復されたエルサレムにおいて何が行なわれるかである。これは一般化して言えば、再生された人が神と共に生きる生き方である。具体的に言えば、如何なる礼拝生活をなすべきかの教えである。 礼拝生活の一環として、4節以下では礼拝の掟を守るべきこと、祭司の務めが秩序にかなって執り行われるべきことが教えられるが、今日は1節から3節までを学ぶ。 東の門に戻って見ると、門は閉じられていた。少なからぬ驚きであったようである。これは三つあるうちの正門である。それが閉まっている。初めエゼキエルが見た時には開いていた。彼自身そこを通って中に入った。御使いの導きがあって入ったのだが、門番もいない空の建物であるから、誰でも門を通れたであろう。相応しくない人も入ることも出来たであろう。だが、今は閉まっている。誰が閉めたかを問題にしても意味はない。それが人の手で閉じられたのでないことだけは確かである。だが、何故、閉じられたかの意味を考えて見ることは必要であろう。 エゼキエルがバビロンで見たバビロンの神の神殿が門を盛大に開いて祭りをするのと対照的なやり方であると指摘する人もいる。そうかも知れない。しかし、今は聖書の言葉だけでここを読み解いて行こうと思う。 「彼は私に言った、『この門は閉じたままにして置け。開いてはならない。ここから誰も入ってはならない。イスラエルの神、主が、ここから入ったのだから、これは閉じたままにして置け』」。 彼は言ったというその彼、これは案内の御使いである。それは40章3節にあったように、「その姿は青銅の形のようで、手に麻の縄と測り竿を持っていた」。神ではなく神の遣わした御使いであることは確かだが、遣わされただけなら、普通の人間の形であって良いところ、青銅の形のように威厳に満ちていた。だから、この御使いの言うことはそのまま神の御旨であると受け取るのが正しい。東門を閉めて置くのは神の命令であった。 「閉じたままにして置け」。これは東門についてだけ言われたものである。礼拝する者は北と南の門から入るのである。だが、門があるのに閉じたままにして置くのはどうしてか。ヨハネ黙示録21章25節には「都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄と誉れとをそこに携えて来る」と書かれているではないか。黙示録の言う門は12ある。それは全世界に向けて開かれていることを象徴する数である。 確かに、神の家として回復される宮は、「もろもろの国民の祈りの家」で、全ての民に開かれ、また決して閉じられることはないはずである。しかし、今、エゼキエルに示された門が閉じられていたことには三つの意味がある。 一つは、門は世界に向けて開かれるとはいえ、誰でも気ままに入れると安易に言い換えてはならないことである。ヨハネ黙示録でも、先に引いた言葉に直ぐ続いて、「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行なう者は、その中に決して入れない。入れる者は、小羊の命の書に名を記されている者だけである」と述べている。 では、小羊の命の書に名を記された者なら、東門から入って差し支えないのではないか。――いや、それは違う。「イスラエルの神、主がここから入られたのだから」と御使いは註釈する。神の栄光の通り道は特別なのだ。神はご自身の栄光に我々を与らせて下さるのだが、人が神のように振る舞うことを認めておられるわけではない。これが東の門の閉じられる第二の意味である。 神は聖でありたもうから、神の民も聖でなければならない。これはレビ記19章2節で「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなた方の神、主なる私は聖であるから、あなた方も聖でなければならない』」と宣言された通りである。 しかし、聖の源泉であられるお方の聖と、彼の聖に与らせられている者の聖との区別は当然つけなければならない。栄光の源泉であられるお方の栄光と、栄光に与らせられている者の栄光を混同すべきでない。 第三に、神の栄光が人と共に宿るべく来たりたもう道は一つしかないし、一回しかないことをここで学ばなければならない。このことの意味は二重である。一つに、再生された宮においては、神の栄光が東門からひとたび入った後、門は閉じられ、もはや入り直しの必要はない、という意味がある。すなわち、エゼキエルがかつて10章から11章に掛けての幻で示されたように、主の栄光が宮から立ち上がって、東門から出て行き、町の東にある山の上に去って行ったようなことは、もう起こらないことを暗に示している。 旧約の歴史で見るように、神の栄光がイスラエルを去った事件は一再ならずあった。例えば、サムエル記上4章にある事件である。イスラエル人はペリシテ人と戦うために出て行って、エベネゼルのほとりに陣を敷いたが、初めの衝突で四千人が殺されるという惨憺たる敗北を喫した。 そこでイスラエルの長老たちは何故敗北したかの原因を考え、主がともにおられなかったからであると推論し、当時シロの幕屋の内にあった神の契約の箱を陣営の中に持って来て、神と共に戦えば勝てる、と信じた。彼らは歓呼して地は鳴り響いた。 ところが、イスラエルの陣営のこの歓声を聞いたペリシテの軍勢は、必死に戦う覚悟を決めて合戦に臨み、イスラエル軍を三万人殺し、主の契約の箱を奪い取り、契約の箱を守っていた祭司ホフニとピネハスも殺された。 この報せがシロに齎らされた時、98歳になって既に目が見えなくなっていた祭司エリは神の契約の箱が奪われ、自分の二人の息子も殺されたと聞いて、座から転げ落ちて息絶えた。 その報せがエリの嫁であるピネハスの妻に齎らされた時、彼女は臨月になっていたが、急に陣痛を起こし、男の子を産んだが、彼女もまた死ぬ。死の前に、最後の声を振り絞って、男の子に「イカボデ」と名付け、「栄光はイスラエルを去った」と言って息を引き取った。 こういう悲劇的な事態が旧約の歴史には何度も繰り返される。「神ともにいます」との確信は最も重要なメッセージであるに違いないが、そのメッセージを受け入れる側の信仰が、名前だけの無内容な形式、生命なき単なる安心感に化していたならば、現実の生きた力はない。 ところが、再生されたエルサレムにおいて、主の栄光はもはや去らない。そのように、キリストにあって、御霊によって再生された人間においては、Iコリント6章15節が言うように、身体そのものが神の宮であるが、この宮から神の栄光が去ることはないと確信して良い。それが、旧約の昔と違いキリストにあって新たにされた恵みの確かさである。ただし、その確信が単なる信念で、御言葉に従いまた御霊の支配のもとにある信仰でない場合、本来あってはならないのだが、「神の栄光はイスラエルを去った」という嘆きを繰り返さねばならないと弁えたい。 もう一つのことは、神は東門からのみ入りたもうことが象徴する真理である。神の来たりたもう道は一本しかない。それ以外の道筋からは来られないのである。神は自由自在に、よしと見たもう方式を採用して、どこからでもご自身の宮に来たりたもうのではないか。そうではない。確かに神は全能であられるが、救いの秩序を守りたもう。神はイエス・キリストにおいてのみ来たりたもう。そこに救いの確かさがある。 さて、門が開かれる特例があるということが、3節に記される。「ただ、君たる者だけが、この内に座し、主の前にパンを食し、門の廊を通って入り、またそこから出よ」。 君たる者、政治的権力者に神の門から出入りする特権が与えられるのか。そうである。 ただし、回復されたエルサレムにおいて、君たる者がどういう人かを良く踏まえて置かなければならない。 エゼキエルは宗教の回復だけでなく、政治的秩序の回復も預言している。34章23-24節、「私は彼らの上に一人の牧者を立てる。すなわち、我が僕ダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らの牧者となる。主なる私は彼らの神となり、我が僕ダビデは彼らのうちにあって君となる。主なる私はこれを言う」と預言された。牧者というのは王のことである。 この預言は悪しき牧者への判決の言葉に続くものである。悪しき牧者とは、現実に神の民を治めていた王のことである。その牧者たちは己れを養うが、羊を養わない。自分は上等の食べ物を食べ飽きるほど食べるが、羊は飢えている。権力者たちは強い羊のように、弱い羊を押しのけて先に水を飲み、飲んだ後、水を後ろ足で濁して去るから、羊たちは濁った水しか飲めない。 牧者は神の羊の群のために神によって立てられ、その職務を遂行するために権力を持つのだが、その権力を自分の欲望のためにしか用いない。だから、国は衰え、ついに滅びたのである。その国を再建したもう時、神は単に権力を持つだけの王を立てることはされない。 同じ主旨の預言が38章24-25節にある。「我が僕ダビデは彼らの王となる。彼ら全ての者のために一人の牧者が立つ。彼らは我が掟に歩み、我が定めを守って行なう。彼らは我が僕ヤコブに私が与えた地に住む。これはあなた方の先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、我が僕ダビデが永遠に彼らの君となる」。この38章の今引いた言葉の前にこういう託宣がある。「見よ、私はイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から集めて、その地に導き、その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、一人の王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分かれない」。――ユダとイスラエルの分裂のようなことはもうないとの約束である。エゼキエル書で預言されている君は、そのように来たるべきダビデであって、バビロンの囚われの人々が帰国して王国を再建するという預言ではない。だから、人々は解放後、帰国して神殿を再建するが、王国の再建には着手していない。エゼキエルに示された宮はエルサレムの宮の再建のモデルとなったが、東門を王のためには開けるということはなかった。だから、44章3節を王の特別待遇の意味に取ってはならない。 それでは、この3節は何を言うのであろうか。すでに気が付いた人は気付いたと思うが、この「君」というのはダビデの子、メシヤのこと、キリストのことである。神の栄光のためにのみある東門を開いて入って来るのは、こじつけでなく、ダビデの子として到来するイエス・キリストである、と解釈するほかない。 では、「君たる者がこの内に座し、主の前でパンを食する」とはどういうことか。そういう儀式があったのか。王が神の前でパンを食べる儀式はバビロンにあったかも知れないが、イスラエルの記録はない。ただ、そういうことはあり得たかも知れない。すなわち、神殿礼拝がまだなかった時代、人が供え物を供えたのち神と共に食することなら、比較的多く旧約聖書の記事がある。例えば、出エジプト18章12節に、「モーセの舅エテロは燔祭と犠牲を神に供え、アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセの舅と共に神の前で食事した」とある。 また、出エジプト24章11節に、「彼らは神を見て、飲み食いした」とある。すなわち、七十人の長老がシナイ山に登って契約の書を読み聞かせられ、「私たちは主が仰せられたことを皆、従順に行ないます」と誓う。モーセは雄牛の血を取って半ばを祭壇に注ぎ、半ばを民の長老に振り掛け、「見よ、これは主がこれらの全ての言葉に基づいて、あなた方と結ばれる契約の血である」と言う、その契約の儀式に続く儀式が神の前で、神と共に食する儀式である。 王が神の前でパンを食べるという儀式は民の代表としてという意味である。全ての民らが祭壇の前に集まるべきだが、実際問題として不可能であったから、モーセの契約の時も七十人の長老が民の代表となって食した。 イスラエルが出エジプト以来守って来た過ぎ越しの食事は、人が神と共に食することを象徴する儀式であったと考えられる。確かに、昔を偲んで小羊の肉と、苦菜と、種入れぬパンを食べるだけで、何ほどの意味があるであろうか。旧約の民にとっては、出エジプトの出来事の追憶の意味しかなかったかも知れないが、我々キリスト者にとっては、イエス・キリストによる過ぎ越しの成就の宣言があるから、単なる過去の事件の回顧ではなくなった。 君たる者が神の栄光の進む道を進んで、主の前でパンを食するのは、彼に属する民にまことのパンを味わわせることを指しているのである。 イエス・キリストはヨハネ黙示録3章20節で言っておられる。「見よ、私は戸の外に立って叩いている。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私はその中に入って彼と食を共にし、彼も私と食を共にするであろう。勝利を得る者には、私と共に私の座に就かせよう。それは丁度、私が勝利を得て、私の父と共にその御座に就いたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。 東の門から入って来る王は、今読んだ、戸の外で叩く王である。彼は我々の中に入って来られ、共に食したもう。 |