◆今週の説教2001.08.26.◆

エゼキエル書講解説教 第45回――41:1によって――


 40章の初めから続いているエルサレム神殿の幻の記事は、建物の寸法などをくどくど述べるだけで、読む人に困惑を起こさせるものであるかも知れない。そんなに大切なものであろうか。イエス・キリストの教えの中には、神殿をキチンと建てるとか、その再建というような主題のものはなかったのではないか。確かに、彼は現にある神殿を指し、またその壮麗さに驚嘆している弟子をたしなめて、「この石一つも崩されずには他の石の上に残ることのない日が来るであろう」と言われた。神殿が立派であることよりも、それが崩れて行くことのうちにこそ神の御心を見なければならない。キリスト教が神殿宗教でないことは議論の余地がない。
 「霊とまことをもって神を礼拝する」ことこそが重要だという教えを、我々はヨハネ伝4章24節でシッカリ教え込まれている。ユダヤ人はエルサレム神殿の礼拝が正しいと主張し、サマリヤ人はゲリジム山の神殿礼拝が正しいと言っていた時、主はどちらでもないと教えたもうた。壮麗な大神殿を建立して、神に捧献し、実はそれを作った人間の知恵と力を自画自賛する宗教が多くある中で、イエス・キリストはその道と全く遠いところにありたもう。彼はユダヤ教の中にある神殿尊重の姿勢の行き過ぎに対しても批判したもうた。
 けれども、主イエスが「あなた方はこの神殿を毀て。私は三日のうちにこれを建て直す」と宣言された御言葉は忘れてならないものである。ただし、これはエルサレムのシオンの丘の上に立つ神殿の破壊と再建を言われたものでは決してない。これは、十字架で殺されて、三日目に甦るご自身の身体のことを暗喩を用いて言われたのである。それでも、この御言葉について見ても、象徴としてであるが、宮の再建が語られていることは明白である。だから、エゼキエルに示された再建されたエルサレム、また再建された神殿を、単に囚われの中にいるイスラエルに光栄の回復の希望に駆り立てる勧め、励ましという程度の意味に解釈して済ませてはならない。宮の再建は、キリストの死からの復活、死に対する勝利と結び付けて理解しなければならない。
 いや、復活と言えば、キリストが死に勝利したもうただけでなく、キリストを信じる全ての者が、キリストとともに死に、キリストの復活に合わせられて生き、一人一人が体の甦り、死人の甦りに与らせられるということ、さらに、生かされた体を、この地上において、生きた供え物として神に捧げ、神殿の儀式によってでなく「霊的礼拝」によって神に仕えることも、ここで読み取らなければならない。
 今日学ぶエゼキエルの書41章でも、神殿の描写が詳しくなされている。余り大事でないことについての説明が詳し過ぎて、煩わしいと感じる人は少なくないであろう。だが、そういう印象を持たされる箇所が、聖書にはこのほかにも幾つか出ていることを思い出すべきではないか。
 第一に荒野の幕屋である。「会見の幕屋」とも、「証しの幕屋」とも呼ばれた。モーセが神から証しの板を授けられて山から下りて来るなり、直ちに建設を命じたものである。十誡の板は契約の箱に納められ、幕屋のうちの至聖所に置かれた。この幕屋は神が民とともに住みたもうことを象徴するものである。出エジプト記25章以下に、幕屋の各部の寸法その他がかなり詳しく語られている。しかも、これは神の命令で作るのであり、それも「山で示されたように」と出エジプト記27章8節に記されるように、モーセはそのモデルを見て来たのである。へブル書8章7節8節にあるように、これは天にある幕屋の雛形を模した物と言われる。
 第二は、ソロモンの建てた神殿である。列王記上6章から8章に亘って記されている。それまでの幕屋であった礼拝所を、切石とレバノンの木材で建てた本格建築に置き換えたのであるから、設計の基本構造は幕屋と同じであった。重要な箇所の寸法は記録されている。この神殿がバビロン軍によって破壊され、バビロン捕囚となった人たちが帰還後、エズラの指導のもとに再建した。しかし、極度の窮乏の中で行なわれた再建事業であったから、建物に昔日の面影はなかったようである。この再建された神殿の規模については、エズラもネヘミヤも詳しくは語らない。昔と比べて余りに貧相だから書けなかったのであろうか。最も大事なものとして、他のことを犠牲にして取りあえず建てたが、暫定的なものという考えが人々にあったらしい。しかし、立派なものに建て替える機会は来なかった。ユダヤ人の勢力は衰退して行くばかりで、彼らは他民族の支配に屈するようになる。
 この神殿がヘロデ大王によって多大の費用と半世紀の歳月をかけて大改修され、殆ど新しい建築と言えるほどの堂々たるものとなって、キリストの時代を迎えた。だが、ヘロデ神殿についての詳しい記述は聖書にない。この神殿は紀元70年にローマ軍によって破壊され、ユダヤ人はこの地から放逐されたので、再建を望むことも出来なくなった。だから、ユダヤ人の間では過激派の民族主義者シオニストは別として、神殿再建の願いが受け継がれるということはなかった。それとは別に、キリスト者の胸のうちには、新しいエルサレムが生き続ける。それがヨハネの黙示録21章に記される。
 黙示録21章の神殿は、ソロモンの神殿やヘロデの神殿の回復として書かれたのではない。規模が全然違う。かつてあったものを復元したのではない。全く新しいエルサレムが天から下って来るのであるが、それがなおエルサレムの宮という名を引き継ぐのは、破壊されたヘロデの神殿の再建でなく、むしろエゼキエルの見た幻を引き継ぐからである。
 分かり易く言うならば、エルサレム神殿についての聖書の記事には二系統ある。一つは既に滅んだ。一つは生き続ける。地上的・歴史的な建造物としての神殿と、歴史を越えた天上のものとしての神殿とである。この二系統が実際に絡み合っているのであるから、別々に考えてはならないのであるが、区別はハッキリ見て置こう。今、我々に示されているのは天上の神殿である。
 すでに見たように、主イエスはご自身の体の甦りを宮の再建に譬えたもうた。我々もそれに倣って、自らの肉体の甦りを宮の再建と言って良いであろう。だから、エルサレムの宮の新しく建てられることは、我々が己れの霊肉を捧げることであって、我々にとって決して無関心であってはならない。
 さて、今日学ぶ41章が語っているのは、宮の中心部分に関してである。1節に「拝殿」という言葉があるが、これは一般に聖所と言われるのとは別の言葉であるが、「聖所」と取って良い。拝む場所という意味はない。宗教的用語ではなく、大きい家とか大広間というような意味の言葉である。すなわち、今日見る限りのところでは、そこで行なわれる礼拝の内実については何も触れず、ただその入れ物が示されるだけである。だから、聖所というよりホールと言うほうが良いし、至聖所も至聖所として機能し、大祭司が年に一度だけ入ることの許される聖なる場所としてでない、ただの部屋として示される。
 さて、ここに書かれている文章から、建物の姿を構築して見よ、と言われても、なかなか難しい。だが、読む人が眼前に聖所の建物をまざまざと見るかのように把握出来るだけの説明を書き手はしたと取るべきであろう。だから、書かれたところを読み取って、平面図と立体図を描くように努力して見よう。
 2節に書かれているように、幅20キュビト、奥行き40キュビトの長方形のホールである聖所がある。4節にあるように、その奥に幅20キュビト、奥行き20キュビトの正方形の至聖所がある。至聖所は神殿の一番重要な部分で、神の箱が置かれるが、今回のテキストはそれには触れない。小さい方の部屋である。聖所と至聖所は戸で仕切られていて、戸の幅は6キュビトであると3節に書いてある。聖所と至聖所を区切るのは幕であったと我々は承知しているが、ここでは戸になっている。
 キュビトという寸法は何度聞いても身に付かないが、1キュビトは約45センチメートルである。だが40章5節に、「そのキュビトは1キュビトと1手幅である」と言われるように、日常のスケールを越えた大きい尺度であって、55センチメートルほどになるのであろう。したがって、ホールは幅11メートル、奥行きが22メートルくらいで、そう大きい建物でもない。昔は柱なしの大きい建物は建てられなかったのである。
 この聖所に入って祈るのであるが、そこへ入って行く入り口は、東側にだけある。祭壇で供え物を捧げて、それから聖所に入って祈るのである。入り口に入るために、40章48節に「廊」と書かれているアプローチ部分を通るのである。通廊、あるいは玄関の間と思って良いであろう。その入り口の前に二本の脇柱がある。聖所の床が高くなっていて、そこに上がるために十段の階段を上る。
 大まかに言えば、外側を計って、幅が34キュビト(18.7メートル)ほど、奥行きが90キュビト(49.5メートル)ほどある直方体のビルディングが聖所と至聖所で、その両脇に、高さは約半分になるが、「脇間」が連なる三層の建物がくっつく。聖所の高さは少なくとも30キュビト(16.5メートル)であったであろう。
 列王記上6章2節に「ソロモンが主のために建てた宮は、長さ60キュビト、幅20キュビト、高さ30キュビトであった」と言われるが、これはエゼキエルに示された宮の建物の内部の大きさと一致する。石を組み上げて作る壁の厚さは違うかも知れないが、神殿の本体と言うべきこの聖所の広さに関しては、ソロモンの神殿と同じであった。付属建物に関しては違いがかなりあるようである。
 列王記上7章15節には、18キュビト(9.9メートル)の二本の青銅の柱のことが書かれていて、これを廊に立てたというが、エゼキエルが廊の前に立てられた脇柱と言っているものがそれである。脇柱は建築の構造上必要だったのではなく、独立した飾りである。
 石の柱を立てて神を礼拝したという昔の慣習に従ったものらしい。なおこの脇柱は、東門と北門と南門にもあったことが40章10節24節と36節に出ている。このような構造はエゼキエルがバビロンに捕らえられて来る前に毎日見ていたものである。聖所の前の脇柱について、21節は、四角であったと言う。
 5節以下に「脇間」と訳されているものが聖所を取り巻く。これもソロモンの神殿にあったものである。脇間という小さい室は、聖所の壁の外側に張り出した3階建ての建物の各階に30室ずつあるから、三方に10ずつ並んだと思われるが、両側に15ずつであったかも知れない。
 脇間が階を重ねて上に行くにしたがって広くなる、と7節に書かれているが、下に行くほど壁が厚くなり、その分だけ部屋が狭くなるのであろう。階が上がるごとに1キュビトずつ広くなっている。この脇間が何のためにあったかは分からないのであるが、中央の聖所の高い建物を補強するために、両側で下の方を厚くしたのではないだろうか。ソロモンの神殿にも脇間があったことが列王記上6章8節に書かれている。そういう構造にして置かないと大きい建物は建たないことを当時の人は知っていたのである。
 それでは、エゼキエルの見た神殿の幻は、旧神殿と同じもの、したがって旧神殿の復興であったのか。そう単純ではない。40章2節で見たように、この宮の建てられた場所がすでに違う。「非常に高い山」の上である。現実のエルサレムではない。「非常に高い」とは天と同じほど高いということであり、エゼキエルが天に運ばれて行って、天上の本物の神殿、あるいは天にある雛形を見て来たという意味であると取ることが出来る。
 エゼキエル書8章によれば、第6年6月5日にエゼキエルはエルサレムに運ばれて、そこで行なわれているかずかずの汚しごとを見ている。これもエルサレムに関する超自然的な黙示であることは確かだが、その時見たエルサレムは、汚れに染まった、しかもその汚れを隠しているエルサレムである。預言者は壁の中にまで割り込んで、隠れて行われている偶像礼拝の秘密の儀式を暴き出す。
 それに対し、40章以下のエルサレムは、空の箱のようなものであるが、天上のエルサレムである。エゼキエルはそこへ行って見たのであるが、実際に聖所と至聖所に入ったのかどうかはハッキリしない。「彼が内に入って測ると」と書いてあるが、案内の御使いが入って行って測ったのは確かであるが、エゼキエルが入ったとは書かれていない。
 要するに、エゼキエルが見て来たのは、一面の意味では回復されたエルサレムではあるが、モーセがシナイ山の上で天上の幕屋の雛形を見たのと同じく、神殿の天上の雛形であった。雛形であるから、これにしたがって神殿は建てられねばならない。だから、エゼキエルが見終わって後、43章10節に主なる神は言われる、「人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。………彼らがその犯した全ての事を恥じたなら、彼らにこの宮の建て方、設備、出口、入り口、全ての形式、全ての掟、全ての規定を示せ。これを彼らの目の前に書き、彼らにその全ての規定と、掟とを守り行わせよ」と言われるように、これを実行するのである。
 この預言の言わんとすることは、宮の建物の規模としてはソロモンの神殿で良かったのであるが、そこでは礼拝が正しく守られていなかったから、回復されたエルサレムにおいてはその点を正さなければならない、という主旨である。
 さて、聖所の付属建物を見よう。聖所に添った脇間の外側は20キュビトの空き地を隔てて部屋が並ぶ。そのうちの北に一つと南に一つは祭司の部屋である。42章13節に、「主に近く仕える祭司たちが、最も聖なる物を食べる場所である」と書かれている。それ以外の部屋には特定の使用目的はないようである。この部屋の列で囲まれた区域、100キュビト四方の広さであるが、これが「宮」と呼ばれる領域であることが13節から分かる。その領域の東と西の境は建物によっては区切られていない。
 また聖所と至聖所の建物の西に70キュビト四方の建物がある、と41章12節に書いてあるが、これは祭司の建物である。ソロモンの神殿にはこのような建物はなかったらしい。
 こういう新しい建物にどういう意味があるかは分からない。
 15節後半以降、部屋の内装について書かれている。よく分からない点が多い。切石のむき出しでなく羽目板を張ってあった。そして上の方は壁に彫刻があった。それは棕櫚とケルビムであった。
 棕櫚は義を象徴し、それ故に神讃美に相応しく、ケルビムは神の栄光が顕され過ぎて人を打つことにならないように、翼を拡げてこれを覆うのであって、したがって、ケルビムが翼を拡げていることは、そこに神の栄光があるということを象徴していた。栄光そのものは見てはならないものであるが、ケルビムの翼を見ることによって、栄光があると信じるのである。
 聖所の戸にもケルビムと棕櫚が彫刻されていた。これらの彫刻ももとのソロモンの神殿と基本的には変わっていなかったと思われる。
 このようにして見て来た建物は、神殿ではあるが、まだ神殿として使用されていない、謂わば空の箱であった。この空の入れ物を満たす神の栄光が来なければならない。それは43章に至って示されることであるが、我々は空の箱としての聖所を慕い求めていてはならない。我々の身体こそが神の宮である。この身体を十分に活用して生きることが礼拝なのである。  

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