◆今週の説教2001.06.24.◆

エゼキエル書講解説教 第43回――39章によって――


エゼキエル書38、39章に語られているゴグについての預言は、謎に包まれている。このゴグという人について聖書が触れるのは、聖書正典としては、この他に、新約聖書のヨハネ黙示録20章8節があるだけである。というよりは、ヨハネ黙示録はエゼキエル書の預言に基づき、それを引き継いで語っていると考えて良いだろう。その黙示録20章8節9節にはこう書かれている。「サタンは獄から解放されて出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上って来て、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」。 
ヨハネ黙示録では、ゴグとマゴグが同格に並べて書かれ、地の果てから呼び出される二人の王のように受け取られるが、エゼキエル書38章2節で見たように、ゴグはマゴグの地の君主である。マゴグという地がどこであるかは分からない。前回、少し触れたが、ゴグというのはかつて小アジアのリディアにいた王の名「ギゲス」がなまって、歴史の事実から離れた神話として語り継がれるようになったと見られている。長年に亘って語り継がれているうちに、北の果ての王というイメージが出来てしまった。北の果てということは38章15節にも、39章2節にも言われている。普段交渉のない遠い地である。 
この物語がさらに語り継がれているうちに、黙示録に見られるように、ゴグとマゴグという二人の王がいることになってしまったのではないかと思われる。今日はもうこれ以上立ち入って穿鑿することはしないでおく。とにかく、ゴグとかマゴグとかいう名の者が世の終わりに現われるという予告が大切なのではなく、そのような象徴によって示されている終末の事態こそ聞くべき重点である。 
ここに描かれるのは世界最終戦争である。エゼキエル書でもヨハネ黙示録でも、ゴグの襲来と滅亡の後に描かれるのは神の国の成就である。黙示録の記述によると、千年王国が実現してサタンは地の底に閉じ込められるが、千年の後、サタンは今一度神に対する反逆に立ち上がり、ゴグを地の果てから呼び出して、聖徒とエルサレムを包囲攻撃させる。しかし、天から火が降って来てゴグの大軍を焼き尽くす。こうして神とその民とに対する最後の反逆は破れ、サタンは永遠に滅び、祝福された状態が始まる。エゼキエル書39章で読むのは、黙示録の経過を少し詳しく描いたものに他ならない。 
さて、この預言は何を言わんとするのか。――確かに、これは預言には違いないが、通常の預言とは、形から言っても、内容から言っても、かなり違っている。これは普通「黙示文書」と呼ばれている部類に入る文書である。「黙示」とは啓示であるが、この種の啓示の場合こう呼ぶ。では、通常の預言とどういう点で違うか。非常にハッキリ区別されるとは言えないが、通常の預言は、平たく言えば、律法の本当の意味の解明である。神を愛し、隣人を愛するために、どうすべきか、どうしてはならないかを預言者は教える。 
それに伴うのは、律法違反をしても平気でおられる傲慢と厚かましさに対する警告と断罪、そして罪の悔い改めの要求である。さらに具体的には、悔い改めない民に対する刑罰が何であり、悔い改める者の祝福が何であるかが示される。例えば、エルサレムの滅亡の予告、また回復の約束がある。 
そのように、預言は人々に正しく生きる道を示した。ところが、ゴグに関する預言、黙示は、ゴグに悔い改めを迫る言葉ではなく、また信仰者にどういう生き方をせよと教えるものでもない。ここには教えはないのではないか。世の終わりにどういうことが起こるかについての知識は与えるかも知れないが、それを知った人々がそれで変わるとは必ずしも言えない。すなわち、我々の内面に関わって来る要素が少ない。 
世の終わりについての黙示が、我々の生き方に関する教えを含まないと言い切るならば、正確でないかも知れない。世の終わりには裁きがあるのだから、その裁きに備えること、具体的には、与えられた御言葉を守ること、気を付けていること、信仰を持ち続けることが要求されている。これらの教えは単純であるが、基本的に重要なものであることは説明するまでもない。ヨハネの黙示録の初めに言われるが、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは幸いである。 
時が近付いているからである」。何が起こるかの知識を得れば良い、というのではない。終末に備えて守るべきことを守る、それが大切である。 
世の終わりにこういう事態が起こる、ああいう事態が起こる、また、それらが起こる時までどれだけの期間待たなければならないか、終末の前触れとしてどういう兆しがあるか、というような知識に非常に興味をそそられる人は少なくない。特に乱世の代においては、人々は閉塞感の中で、言い知れぬ不安から逃れようとして黙示を受けたがる。今日はそういう時代である。しかし、その時は知ることが出来ない。これが聖書の教えである。 
マルコ伝13章は、福音書の中で主イエスが黙示を語りたもうた特殊な部分であるが、その4節によると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレがひそかかに尋ねている、「私たちにお話し下さい。何時そんな事が起こるのでしょうか。また、そんな事が悉く成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。彼らが密かに来たのは、人の知らない情報を独占しようとしたからであろう。 
不安な時代に人々は、生き残りを賭けて、終わりの時の前兆の黙示を得たがる。こういう預言への関心が興味本位、あるいは好奇心に流れやすい。四人の弟子がこう尋ねた時、主イエスは「あなた方は気を付けていなさい」と答えたもうた。知ることより気を付けていること、目を覚ましていることが大切であると主は教えたもうた。 
さて、39章の預言を学んで行こう。これは38章に述べられたのとほぼ同じ内容の反復である。「ゴグに向かって預言して言え」と預言者に命じられる。この預言の説教を聞いているのはバビロンに捕らえ移されたユダの民である。彼らはゴグについてはごく漠然としたことしか知らない。律法の中でも、預言者の言葉の中でも、父祖の言い伝えにも、ゴグのことは出て来なかったのである。 
そのゴグがエゼキエル書38章と39章にいきなり登場する。だから、これを聞いた人々が、奇妙な話しとしてしか受け取れず、この教えを自分たちの現実の生活の中にどう生かすかが良く掴めなくて当惑しても、非難することは要らないであろう。ここには、日々をどう敬虔に生きるかの教えではなく、もっと巨大なスケールで歴史の終わりまでを捉え、また地の果てまでを見通した信仰者の心構えを指し示す。 
殆ど聞いたこともない、メセクとトバルの地の大君であるゴグにも、神の支配が確かに及んでいるのである。さらにそれは末の日のことであって、日常的なことの彼方にある。そこも信仰の視野に入っている。現在と関わりないとは言えないが、現実との繋がりはかなり薄い。すなわち、これまで見た預言は、人々の目に平和だと見えている段階の次に起こるべく用意されている破滅とか、人々がエルサレムは難攻不落であると信じ切っている時に予告される滅亡とか、自分たちは生きていても枯れた骨と異ならない者であると思っている時に語られる回復とか、一見、見えるのと正反対のことでありながら、現実と続いていて、具体的である、そういう種類の預言であったが、それとは別な種類の預言である。 
ゴグが北の果ての地にあって次第に支配領域を拡げ、ついにエルサレムに攻め寄せて来るというのではない。38章4節にあったように「あなたの顎に鈎を掛けて引き出す」と神は言われる。その気がないのに無理矢理に引き出された謂わば道具である。ただし、ゴグが全く消極的だというのでなく、大軍を率いて来るし、世界の主だった大国と同盟してその軍隊を一緒に連れて来る。38章11節にあるように、貫の木も門もなしで無防備で住んでいる者を見ると略奪の欲望をそそられる。それはユダの経験したバビロンや、ペルシャや、エジプトの大軍の脅威と比べものにならない巨大な武力である。そのようにして、最終段階では、これまで経験したことのない苦難が神の民に臨むのである。 
主イエスはマルコ伝13章で弟子たちから終わりの艱難の日について尋ねられた時、「神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような艱難が起こる」と予告された。ゴグが攻めて来るのはそのような最大の艱難の日である。 
終わりの日に大いなる艱難が来る、というのは聖書のいろいろな箇所に現れる一致した警告である。この世に生きるとは終わりの艱難に備えることだと言えるほどである。世界の諸問題が一つ一つ解決されて、神の御旨がだんだん良く行われるようになるというのでなく、聖徒たちの戦いは終わりまで続く。むしろ、終わりの日に最も大きい試みが来る。 
この教えに注意していないクリスチャンが多いが、重要な予告である。信仰者の歩みは年を重ねるほど祝福に満ちたものになって行くと考えられ易いが、それは違う。確かに、祝福が増し加わり、霊的な恵みも物質的な恵みも蓄積されるという一面がある。しかし、最後まで試練があるという事実は動かないし、最後こそが大試練である。最後がハッピーエンドだと人は皆期待するであろうが、現実はそうではない。歴史の終わりは幸福の絶頂の一歩前ではなくて、最大の苦悩の時なのだ。それが聖書の教えなのだ。 
最終段階の試練を、新約聖書は「反キリスト」によるものという言い表わしによって示す場合が多い。ヨハネの第一の手紙2章18節に、「子供たちよ。今は終わりの時である。あなた方が、かねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れて来た。それによって、今が終わりの時であることを知る」と言われている。反キリストはキリストの反対だから捉えやすい。ヨハネの書簡に出て来る反キリストは、異端者という意味が大きいように思う。すなわち、その書簡の4章3節では、「イエスを告白しない霊は全て神から出ているものではない。これは反キリストの霊である。あなた方は、それが来るとかねて聞いていたが、今や、すでに世に来ている」と言われている。 
反キリストについて我々は詳しいことは何も教えられていない。しかし、主イエスはマルコ伝13章で、終わりの日の艱難について教えたもうた時、21節に「その時、誰かがあなた方に『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。偽キリストたちや、偽預言者たちが起こって、徴しと奇跡とを行ない、出来れば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気を付けていなさい。一切の事をあなた方に前もって言って置く」と言われた。偽キリストと反キリストとは必ずしも同じではない。反キリストとは単にキリストに反抗するだけでなく、キリストに紛うほどの輝きを帯び、キリストに匹敵するほどの絶大な権力を帯びている。だからキリストへの忠誠が試される。 
思い起こすのだが、イザヤ書14章12節以下にこう書かれていた。「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたは先に心のうちに言った、『私は天に昇り、私の王座を高く神の星の上に置き、北の果てなる集会の山に座し、雲の頂きに昇り、いと高き者のようになろう』。しかし、あなたは陰府に落とされ、穴の奥底に入れられる。云々」。――これはバビロンの高慢とその処罰の預言であるが、地上の権勢を極め、天に昇って、王座を神の星よりも高く挙げようというのは反キリストと通じる。反キリストはそのような者である。 
ゴグが「反キリスト」として登場すると見れば分かり易い。確かに、エゼキエルの預言にはゴグと反キリストを結び付ける言葉はない。けれども、反キリストのことを考え併せれば、エゼキエルの預言をグッと身近に引き寄せて読むことが出来るのではないか。 
さて、終わりの日の反キリストの攻撃に、我々がどのように立ち向かって行くべきか。 
それについては、不思議に思われるかも知れないが、聖書は殆ど何も教えていない。これまで教えられた戦いの手引きを集大成すべきではないかと思われるであろうが、実際、何も教えない。何故なら、その必要がないからである。 
この38章でも39章でも示されるように、ゴグはイスラエルの山々に侵入するのであるが、その日に神が立ち上がり、ゴグを滅ぼしたもう。神は火を送って、ゴグの軍隊とその同伴者を滅ぼし尽くしたもう。かつて経験したこともない最大の苦難に遭うのは確かなのだが、戦いそのものは主が引き受けたもうから、信仰者のなすべき戦いについては殆ど語られない。これが黙示文書に共通した語り方である。 
イスラエルは全く何もしないのか。9節に言う、「イスラエルの町々に住むものは出て来て、武器すなわち大盾、小盾、弓、矢、手槍、及び槍などを燃やし、焼き、7年の間これを火に燃やす」。彼らは町の中に留まっているわけではない。町から出て来る。主が戦って勝利したもうから、彼らは主の勝利の証人となるだけなのだ。すなわち、主が勝利したもうた後、夥しい武器と屍骸が残される。その処理が仕事である。屍骸の処理については11節以下に語られるが、武器については9節10節で言われる。 
武器の主要部分は鋼鉄で出来ているが、刀の束や槍の柄は木である。それを燃料に使うのである。7年間森に木を切りに行かなくても間に合うほど、夥しい木が残される。武器全体がどんなにうずたかく積み上げられるかは想像に余りがある。 
屍骸の処理については、墓地に葬るのと、野の鳥や獣に命じて処理させるのと二通りのことが書かれている。墓地は「海」すなわち死海の東エドムの地にある「旅人の谷」と呼ばれていたところを当てがわれる。この谷が屍骸で埋められる。これに葬るために7ヶ月掛かる。そして、「旅人の谷」と呼ばれていた所は「ハモン・ゴグの谷」という名になる。ハモン・ゴグとは「ゴグの多数のもの」という意味である。 
21節以下は通常の預言である。これはゴグの滅亡の次に語られる御言葉であって、世の終わりになってから聞く言葉ではなく、世の終わりまで語った後に語られるイスラエルの回復の福音である。先ず、神が行われた裁きによって神の栄光が諸国民に示され、イスラエルもヤーヴェが自分たちの神であられることを知る。神の完全な勝利を見るからである。 
次に、諸国民はイスラエルの家が捕らえ移されたのは、彼ら自身の悪の故であることを悟る。すなわち、神の民であるから授けられた掟にしたがって歩むべきであった。にも拘わらず御旨に背いたので、神は彼らに顔を隠したもうた。したがって彼らは恵みを失って敵の手に渡され、囚われ人となった。これがバビロンで虜囚の生活を忍ばなければならない理由である。 
「しかし、今、私はヤコブの幸福をもとに返す」と神は言われる。反逆の時は終わり、回復の時が来たのである。39章の最後の節で「私はわが霊をイスラエル家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さない」と主なる神は言われる。回復が御霊の注ぎと結び付くことに注意が喚起される。ところで、神は依然として見えないのではないか。そうではない。「私を見た者は父を見たのである」とイエス・キリストが言われたことを思い起こそう。 
次の40章からは、再建されたエルサレムのヴィジョンが示される。回復のヴィジョンを見るだけであるが、それはすでに回復なのである。 
最後に、重要な一句を聞いて置こう。27節に「私は彼らを諸国民の中から帰らせ、その敵の国から呼び集め、云々」と言われるが、28節に「私は彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めた。私はその一人をも国々のうちに残すことをしない」と言われる。散らされた者は一人残らず帰って来る。一人も散らされた所に置き去りにされることはない。これが約束である。良き羊飼いは一匹の羊も失わないよう捜し出す。 
34章で聞いたが、その実現を我々はイエス・キリストにおいて見るのである。 
   

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