◆今週の説教2001.05.27.◆

エゼキエル書講解説教 第42回――38章によって――


今回エゼキエル書38章から聞くのは、耳慣れない語り口の預言である。これまでに聞いたのは、いろいろの型はあったが、必ず現実に関わる御言葉であった。時代の現実、国家の現実、特定の人間の現実、罪の現実に切り込んで来る。もっとハッキリ言うなら、読む私自身の現実に迫って来て、隠れた悪を抉り出し、悔い改めを促す、そういう預言である。ところが、38章の預言には、現実味の薄い、遠い彼方の、どこであるかも定かでない国の王の名前とその活動が出て来る。一言で言えば神話である。我々に悔い改めを迫り信仰を奮い立たせる要素があるのであろうか。 
メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグを神は引き出したもう。ゴグは大軍を率い、さらにペルシャ、エチオピヤ、プテ、ゴメル、ベテ・トガルマの軍隊もそれに加わる。神は彼らをイスラエルの山々に攻め寄せさせ、このゴグを通して神の聖なることを諸国民に示される。そして、39章に続くのであるが、39章ではゴグはイスラエルの山々に倒れる。神が倒したもうのである。ゴグの墓がイスラエルの地に設けられる。こうして神の栄光の名が諸国民のうちに顕される。………全く不思議な物語である。 
しかし、この種の言葉を預言者から聞くことは必ずしも稀ではないという事情を思い起こしたい。例えば、イザヤ書13章4節-5節に言う、「聞け、多くの民のような騒ぎ声が山々に聞こえる。聞け、もろもろの国々、寄り集える、もろもろの国民のざわめく声が聞こえる。これは万軍の主が戦いのために軍勢を集められるのだ。彼らは遠い国から、天の果てから来る。これは、主とその憤りの器で、全地を滅ぼすために来るのだ」。 
この預言は、その13章の初めに「アモツの子イザヤに示されたバビロンについての託宣」と標題を書かれているから、地の果ての国から攻めて来るという神話ではなく、バビロンについての預言である。ところが、イザヤの時代には、アッスリヤが攻めて来ることは現実であったが、バビロンが攻めて来るのは当時としては現実性がないと思われた。まして、そのバビロンがメデアびとに攻められて滅び行くことは、預言というよりも、むしろ夢物語、あるいは神話でしかなかった。バビロンが現実の脅威になるのは次の時代、エレミヤの時代である。だから、イザヤが語っても信じる人は殆どいなかった。 
次の時代のことに移る前に、もう少し、今読んだイザヤの預言の続きを見て置こう。直ぐ続いて言われる、「あなた方は泣き叫べ、主の日が近づき、滅びが全能者から来るからだ」。次の2節を省略して、9節に飛ぶが、「見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒らし、その中から罪人を断ち滅ぼすために来る。天の星とその星座とはその光りを放たず、太陽は出ても暗く、月はその光りを放たない」。――これは、この後の時代にしばしば語られる終わりの日の預言の言い表しの型になっている。例えば、主イエスがマルコ伝13章でこの言い方を用いたもうことを我々は知っている。さらに、ヨハネの黙示録にはこれに類する言い方がしばしば用いられる。 
もうひとこと付け加えるが、少し先の17節に、「見よ、私は白銀をも顧みず、黄金をも喜ばないメデアびとを起こして彼に向かわせる」と預言される。「彼に向かわせる」の「彼」とは誰か。それは直ぐ後の19節でハッキリする。「国々の誉れであり、カルデヤびとの誇りである麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる」。 
つまり、バビロンの末路まで預言されているのである。 
身近な事件を見るならば、北王国イスラエルの王ペカが、スリヤ王レジンと同盟してエルサレムを攻めているというのが現実である。預言者がこの危機の時代に「神にのみ寄り縋って固く立て」と勧めたことは言うまでもないが、預言者はその先の先まで、すなわち、バビロンが攻め寄せて来ること、そのバビロンも滅びること、世界に終わりが来ることを語っている。現実性がない、と人は言うかも知れないが、それは人間の感覚がそれを捉える力がないというだけで、現実でないと感じられたことが現実になることは続々と起こるのである。 
エレミヤ書に目を転じて見ると、例えば、5章15節に、「主は言われる、『イスラエルの家よ、見よ、私は遠い国の民をあなた方の所に攻め来させる。その国は長く続く国、古い国で、あなた方はその国の言葉を知らず、人々の語るのを悟ることも出来ない』」と言われている。遠い国とは、ここではバビロンを指していると取って良いのであるが、古い国、神秘な国として描かれている。聞く人々には現実性が感じられなかったのである。 
そのように、眼前に迫った危機ではないが、必ず成就する終わりの日の破滅の預言が預言者たちの書のそこかしこに記されている。聖書を読む人も余り気に留めずに読んでしまい、記憶の片隅に僅かに残す程度であるが、それらの記憶を連ねて見ると、かなり重要なことだと気が付く。それらは概ね北の方から来る。国の名前はよく分からない遠い国で、神秘な名である。そういう名の国があるということだけが辛うじて知られているという実情である。 
具体的なことはハッキリしないし、どの預言者も一定のパターンで語るので、預言者の間でまるで言い伝えがなされたかのように見えるほどである。そして、この預言は差し迫った将来でなく、多くの日の後のこと、すなわち、終わりの時を指している。預言者の間に終末論の伝承があったと言うことも出来るのである。 
そのことで今日思い起こして注目しないでおられないのは、ヨハネ黙示録20章7節以下に記される記事である。説明を加える時間がないので、分かり難いかも知れないが、「千年の期間が終わると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上って来て、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」と言っている。これがエゼキエル書38章39章にほぼ符合するのである。 
では、エゼキエルの言葉は黙示録で起こることを預言したものなのか。そうではない。 
黙示録も起こるべきことを預言しているのであって、成就したことの歴史ではない。我々が経験しているように、多くの場合、預言はそれの成就から掴み直せば、分かり難いところは解消する。しかし、エゼキエルのこの預言はまだ成就していない。だから、分かり難さは新約を参照してもなお残っているのである。 
それでは、成就していないのであるから、価値のない預言か。そう見ることは出来なくない。しかし、旧約の信仰者も世の終わりを信じていたし、我々も信じて待つ。これを信じて待つことがくだらないことだと言ってはならないであろう。世の終わりが救いの完成として示される場合が多いのは当然であるが、一面から言えば万物の破綻、破滅、苦悩である。 
さて、38章のエゼキエルの預言を学んで行くが、先ず「主の言葉が私に臨んだ」と記されたところに思いを向けよう。主の言葉が教えられるのであって、時代思想ではない。 
今、預言者の間に、まるで言い伝えがなされたかのようである、と言ったが、勿論、預言者のグループが言い伝えを持っていたわけではない。彼らは先の代の預言者から語るべき伝承を受け継いだのでなく、神から直接に今宣教すべき託宣を受けた。彼らが御言葉を受けたのは御霊による特別な方法によってであって、人を通して教えられたのでなく、その都度、神が直接に語るべきことを示したもうた。 
今日、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者は「伝えられたことを伝える」という枠を厳格に守らなければならない。勿論、伝えられたことを型どおり伝えて行けば間違いないという安易な意味ではない。伝えられたことも人からでなく主からである、と我々はパウロから教えられている。間接的に何代も中継されて伝えられたという面があることは確かであるが、それだけでなく、むしろ、主から直々に、またその都度新たに伝えられたという面がある。すなわち、そこに聖霊が関与しておられ、人の口から伝えられるだけではない。だから、古くから伝えられたことであっても常に新しいのであるが、言い伝えられた教えの枠を越え出ることはない。今日の説教者にとって、言い伝えられたことを学ぶのは本質的に大事な仕事である。 
それと対照的であるが、預言者には言い伝えを学ぶ必要はなかった。アモスは祭司アマジヤと対決した時、7章14節に、「私は預言者でもなく、預言者の子でもない。私は羊飼いである。私は無花果桑の木を作る者である」と言ったが、これはパンを得るために預言する職業預言者でない、とハッキリ言うとともに、預言者の伝承を受け継いでいないと言っているのである。 
これは預言者を理解する上で最も重要な点であるが、預言者は一人一人神から召しを受け、託宣を授けられるのであるから、一人一人バラバラだと見られるかも知れないが、それは正しい理解ではない。十分な説明は我々には出来ないのであるが、預言者の間に一致があり、一つの流れがある。そのうち顕著なのは終わりの日に向いているということ、またそれと結局は同じことになるのであるが、来たるべきメシヤを証ししたことである。 
「人の子よ、メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグにあなたの顔を向け、これに対して預言して言え」。 
エゼキエルは実際にゴグに向けて預言するよう命じられ、その命令を実行した。しかし、ゴグのいる所まで行って語ったのではない。バビロンのケバル川のほとりに住む囚われ人たちの中でこの預言を語ったのである。つまり、ゴグに向けて預言を語るという形で捕囚のユダヤ人に聞かせたのである。 
ゴグとは何者であろうか。それはマゴグの地の支配者である。マゴグとはどこか。分からない。いろいろな憶説があるが、決め手はない。15節に「北の果てのあなたの所」という言葉から考えて、イスラエル人に知られた北の極限にある国だということは確かなようである。ハッキリ分からないので、空想上の国とその支配者ではないかと見る人もいるが、情報が極度に少ないだけで、やはり実在であると捉える方が正しいであろう。 
これはリデアの王であったギゲスという人物のことが伝説化したものだという意見はかなり広く受け入れられている。 
次のメセクとトバルというのも分からない。だが、27章13節に「ヤワン、トバル、およびメセクはあなたと取引し、彼らの人身と青銅の器とを、あなたの商品と交換した」とあるところに名が上がっている。ツロと交易していた国である。人身売買、つまり住民を奴隷として輸出していた。また、青銅を産し、輸出していた実在の国である。架空の地でないことは確かである。小アジアの一角にあったと考えられている。 
神はゴグをその地から「顎に鈎を掛けて」強制的に引き出す。ゴグは初めこのことをしたがらなかったが、後では積極的に略奪したがる。彼の軍隊に、ペルシャ、エチオピヤ、プテ、ゴメル、ベテ・トガルマの国も軍隊を供出する。これらの国々はいずれも遠い地である。ペルシャは北東の果て、エチオピヤは南東の果て、プテは南西の果て、ゴメルというのは創世記10章2-3節に出ている名で、マゴグの隣りに書かれている。今日のトルコの黒海に面した地方、北の果てである。ベテ・トガルマは27章14節でツロと交易をしており、馬、軍馬、騾馬を輸出していた。今日のアルメニアであろうと考えられている。 
これらの大軍が結集してイスラエルの山々を征服しようとしてやって来る。その時イスラエルの民はどうしているか。8節には「その人々は国々から導き出されて、みな安らかに住んでいる」と書かれている。12節には「今、人の住むようになっている荒れ跡」と書かれているから、一旦廃墟となったエルサレム一帯が再び栄え、非武装の村々として穏やかに立っている。その回復されたエルサレムを攻め取ろうとするゴグの言葉が11節に書かれている。「私は無防備の村々の地に上り、穏やかにして安らかに住む民、全て石垣もなく、貫の木もない地に住む者どもを攻めよう」。 
ゴグはこの穏やかな地に来て、石垣もない、しかも豊かで栄えている村々を見て、略奪を思いつく。 
このことに関して神は17節に言われる、「私が昔、我が僕、イスラエルの預言者たちによって語ったのは、あなたのことではなかったか。すなわち、彼らは、その頃、年久しく預言して、私はあなたを送って彼らを攻めさせると言ったではないか」。 
これは重要な言葉である。終わりの日のゴグの侵入は昔から繰り返して予告して置いたと神が言われる。今日はじめに述べた神話がかった予告、末の日の遠い国からの侵入はこれだった。だから終わりの日のことを人々の間で考え出された思想というふうに捉えるのでなく、神が預言者を通じて知らせたもうた知恵と受け取るようにしよう。 
的確に捉えることは非常に困難であって、預言全体が霞に包まれたようにボンヤリとしている。それでも、大筋は何とか理解出来る。バビロンに囚われた民は約束されたようにやがて解放されて帰国する。それをイスラエルの再建と言ってしまうこともあるが、実際は国の再建は出来なかった。彼らは城壁のある都を立てないで、石垣すらない村々に住む。それは力がなくて都を建てることが出来なかったという意味でもあり、無防備の政策を採用するという意味でもあるのではないか。バビロン捕囚が帰還してからの歴史は必ずしもその通りではないが、やむを得ず、王も建てず、軍隊も持たない、平和な国としてしか建てない状態であった。では、平和が終わりまで続くのか。そうではない。 
終わりの時になって、ゴグの軍隊、また世界の果てからゴグのもとに集まった軍隊がイスラエルの山々を侵略すると神は言われるのである。さらに終わりの日に自然現象としてもさまざまの禍いが起こる。終わりに向けてだんだん良くなって行くというのではない。終わりの日に最悪の苦難が起こる。主イエスはマルコ伝13章19節で、「その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく、今後もないような艱難が起こる。もし、主がその期間を縮めて下さらないなら、救われる者は一人もないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めて下さったのである」と言われるが、主イエスが言っておられるその日のことをエゼキエルが言ったと読まなければならない。主は終わりの日の苦しみは女性に産みの苦しみが臨むようなものであると言われた。終わりの日を苦しみの日として捉えるのが我々、神の民の知恵である。 
16節に「ゴグよ、終わりの日に私はあなたをわが国に攻め来たらせ、あなたを通して、私の聖なることを諸国民の目の前に現わして、彼らに私を知らせる」と言われる。エゼキエルの預言の一区切りごとにこの言葉が入ることを我々は知っている。すなわち、神は予告者であるとともに実現者であることを示すことによってご自身を明らかにしたもうのである。神が聖でいますことが明らかになるのは、預言が成就するからである。17節にあるように、神は僕である預言者を繰り返し遣わし、終わりの日にゴグの禍いが来ることを長い時代に亘って予告させたもうた。それが成就する日、神の聖なることが輝き出るのだ。 
16節と基本的に同じことが23節で語られる。「そして私は私の大いなることと、私の聖なることとを多くの国民の前に示す。そして彼らは私が主であることを悟る」。ゴグが侵入して略奪するのも終わりの出来事の成就なのであるが、ゴグが滅び失せることも重要な予告である。それが成就する時、主なる神の聖なることが輝くのである。終わりの日の苦難が迫っている中で、我々は主の聖なることを仰ぎ見よう。 

   


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