◆今週の説教2001.04.29.

エゼキエル書講解説教 第41回――37:15-27によって――


 
前回、37章の初めの部分で学んだのは、谷の中に散らされた枯れた骨が甦る幻であった。その幻は、奇怪というほかない光景であった。神はエゼキエルに、説明を加えたもう。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である」。この解説が加えられて初めてその幻の意味が分かった。それは喜びの報せであった。
 この「イスラエルの全家」は地上から存在を消してすでに久しい。すなわち、これはもと十二支族からなる一つの民族として纏まっており、最初のうちは支族連合として、それぞれに長老によって治められる支族が盟約を結んで連合体を作り、サウル以後一つの王国になっていたが、王国は先ず南北に分裂し、北王国が先に滅び、南王国もその後百年ばかり続いた末に滅びた。南王国の民らは捕囚となってバビロンの川のほとりに連れて来られた。彼らの中にエゼキエルのような預言者がいたが、彼らは祖国を失なった後も依然として神に不従順であり、不信仰であったから、希望もない。その希望なき実情は、殺されて、白骨になり、その白骨も枯れきってしまった有様に譬えるほかないような惨めなものである。すなわち、命の希望はもう全然ない。しかし、ついに神はこれを御言葉と御霊の力によって甦らせたもう。
 今日聞く15節以下の預言もそれに続くものである。同じ主旨である。ただし、同じ時に続いて語られたかどうかは分からない。イスラエルの回復、再一致を目指す。それは民族の回復というよりは神の民、教会の回復として捉えなければならない。
 ここでエゼキエルに命じられていることは、旧約研究者の間で「預言者の象徴的行為」という名で特徴付けられているもので、殆ど全ての預言者に共通して見られる行動である。神から命じられるままに預言者は一連の行為を行なう。行為そのものは単純で、見る通りである。それを行なう人自身は殆ど機械的に服従する。初めは意味も分かっていない。後になって神は必ずその意味を解き明かしたもうのである。
 預言者が理解不可能な、謎のような行動をとったということではない。理解できないから、それだけ一層神秘的で有り難く思われるような振る舞いをする預言者がよそにはあるかも知れない。しかし、旧約では、神が命じたもうこの行為は有り難くもなく、不可解な振る舞いでもない。神はキチンと解説を付けておられる。
 神がエゼキエルに言われた言葉を聞こう、「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。あなたはこれらを合わせて、一本の木となせ。これらはあなたの手で一つとなる」。
 この言葉を普通に読めば、我々も預言者エゼキエルに命じられたことがどういう振る舞いであったかを常識の範囲で捉えることが出来るであろう。自分でその通りにやって見ても良いかも知れない。ただし、どういう行為であったかは分かるが、何を意味するかは神の解説を聞くのでなければ分からない。また、その通りやってみても、肉体を使った行為を通して何かが分かるということはない。
 少し本論から逸れるのであるが、我々が、例えば、重い十字架を負って道を歩いて見るとする。それによってどれだけ信仰の進歩があるかは実の所ハッキリしない。しかし、十字架を負いたもうたお方の内なる思いに一歩近付いたという気にはなるし、何かが見えて来たという気分になって、教育的効果はある。演劇の教育効果と言われるものである。やや似たものとして、話しで説明するよりもVTRを見せると、よく分かったという感じにならせることが出来る場合を上げることが出来る。分かったような気になることと、本当に分かることとは別なのであるが、とにかく一種の教育的効果はある。しかし、我々は一本の木を取ってそれに字を書き、またもう一本の木を取って、それに字を書いて、その二本を一つに合わせたとしても、何も悟りは開けない。すなわち、預言者でない者が、命じられてもいないのに軽々しく預言者の振る舞いを真似ても意味はない。
 さて「一本の木」と言われるが、一枚の木の板、あるいは札と取ることも出来、一本の木の棒、あるいは木の杖とも取れる。イザヤ書8章1節に「一枚の大きな札を取って、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシ・バズ』と書きなさい」とあったが、これと同じような事情であったかも知れない。書かれた文字が人々に良く読めることが大切であるから、小さい木切れではなかったであろう。
 あるいは、民数記17章2節に「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、各々父祖の家にしたがって、杖一本ずつを取りなさい。云々」と言われたところに倣って、杖に字を書いたのかも知れない。支族を表すなら、札よりも杖の方が適切かも知れない。
 書かれる文字は、多分、一方には「ユダ」と大きく、「及びその友であるイスラエルのために」がやや小さく書かれた。もう一方には、「ヨセフ」が大きく書かれた。ユダは南王国の主要支族であり、ヨセフというのは、ヤコブの12人の子のうちのヨセフであるが、彼から二つの支族、エフライムとマナセが出て、ともに北王国に属し、エフライムは北王国の中心を占める支族である。エフライムの手にあるヨセフというような言い方がなされたが、ヨセフの子孫のうちエフライムが代表的であるという意味である。
 とにかく、良く見えるように、文字を大きく書いて、その板、あるいは杖、の二つを預言者の手のうちで一つに合わせたのである。二つを合わせて一つにするのがこの場合の象徴的行為であった。そういう仕草、あるいはそれに類することを我々が真似しても何の意味もないであろう。
 これは我々が預言者の語った言葉の真似をする場合と違う。預言者の言葉をなぞって、分かりもしないのに語っていると、そのうちに少しずつ分かって来るのである。預言者を真似て時代の罪を攻撃したとする。それが軽率な真似に過ぎず、さんざん叩かれて挫折することもあるが、語るうちに本物になって行く場合もあろう。語る言葉そのものが我々の生半可な姿勢を整え、修正するのである。それは「言葉」だからである。言葉を通じて大事なことが伝わるのである。が、行為を通じては必ずしも伝わらない。いや、全然伝わらない種類の行為がある。例えば、4章で見たのであるが、エゼキエルはエルサレムに迫っている苦難と屈辱を示すために、40日間、人の糞でパンを焼いて食べることを命じられた。それは余りに酷いので、神は牛の糞を用いて良いと緩和したもうた。
 こういうことを我々が今真似しても無益である。神から直接「そのようにせよ」と指示されたのでない限り、それをしても無意味である。
 殆ど全ての預言者においては、この象徴的行為はその務めの重要な一部であった。だから、神は語るべき言葉を授けるだけでなく、それに付随して為すべき振る舞いを指示したもうたのである。神の言葉は預言者の口を通じて宣べ伝えられたのであるが、多くの場合、言葉は音声として鳴り響くだけでなく、語る者の行為が、それに伴っていた。その行為は道徳的に立派とか、人々の感動を呼ぶ誠実さというものとは全然関わりのないものである。勿論、神の言葉を語る者は誠実に真剣に生きなければならない。しかし、今見ているのはそれと全く違う次元の全く単純な振る舞いである。
 神は預言者を立てて御言葉を語らせたもう時、御言葉を民に分からせようとする熱心によって、語る者の特別な振る舞いをそれに結びつけたもうた。これは確かに分からせるための処置である。だが、分かり易くというのは、人々の考えるのとは違う。神の言葉はわけの分からないものではないから、耳で聞いて、頭で一通り理解出来るのが通例である。しかし、分かったと感じることと、本当に確かに分かることとは、似ていても全然別のことである。信仰とは「分かったように」感じることでなく、確かに分かることでなければならない。そこで、確かにするために、説教には徴しが添えられる。謂わば、証文を書いた人が、書いた後で印判を押すようなものである。判によって約束の条項が増えるわけでは決してないが、約束した人の確かさが付け加わる。
 神が預言者に命じて、象徴的行為を行わせておられる目的は、そのように御言葉を確かなものとして心に刻みつけることにある。単に分かったという気にならせるだけでなく、神の言葉の確かさを感銘させ、心に封印させ、その確信から応答を引き出させるようにしなければならない。神の言葉は言葉として聞かなければならないが、聞いて、分かって、それで終わりというものではない。神の言葉は出来事を引き起こすのだ。
 さて、今日も我々の間に、預言者の象徴的行為に相当するものはあるのか。ある、と言うべきであろう。「このように行え」と言われるものが二つある。教会用語で言うと洗礼と聖晩餐である。水で洗うことと、パンを割くこと、と言う方がより正しいのではないかと思う。これは儀式と受け取られやすく、またそのように理解して良い面があるが、儀式として、それだけで意味を持っているというよりは、行為自体に意味はなく、御言葉に伴う徴しと受け取らなければならないし、またそう取った方が分かり易いのではないか。
 この二つの徴しが預言者の歴史を今日の教会の中で引き継いでいるのである。ということは、今日、教会の中でこの儀式を執行する者は、預言者の務めを引き継ぐ者としてこれを執行するのでなければ、単に形式をなぞるに終わって、到底、預言者の存在と機能の重みを引き継ぐことが出来ないということでもある。
 さて、今日の聖書本文に立ち返るが、神はこの行為の意味を解き明かしたもう。「あなたの民の人々があなたに向かって、『これは何のことであるか、我々に示してくれないか』と言う時は、これに言え、主なる神はこう言われる。見よ、私はエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらは私の手で一つとなる。あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にある時、あなたは彼らに言え。主なる神はこう言われる、見よ、私はイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地に導き、その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、一人の王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分かれない」。
 預言者は二本の木を取り上げる。一本には「ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために」と書く。もう一本の木には「ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために」と書く。一つはユダ、すなわち南王国を表わす木、一つはエフライム、すなわち北王国の木である。その二つの木を預言者は手の中で一つにする。これは分かれた王国の回復との再統一である。そして、この統一はもはや分裂することはない。
 国が分裂し、やがて滅亡したのは、二つの国の中で行われた背信の結果である。しかし、初めのうちは分裂した双方に神は預言者を遣わしておられ、分裂したから神の民でなくなったとは直ちには言えない。しかし、北王国は滅び、民は散らされてしまい、預言もなくなった。神の目には見えていたのであるが、人の目には北王国に行った十支族は見えなくなった。それは失なわれた支族と呼ばれるのである。
 ユダの国とヨセフの国がダビデ王国を引き継いだ。南王国はダビデ、ソロモンの時代と比べれば落ち目になったのであるが、それでも、周囲の国々の中では政治的・経済的・文化的に傑出していた。ただし、宗教的にはドンドン悪くなる。すなわち、偶像礼拝の導入がますます盛んになり、ついに滅びる。
 このような衰退の中で、神を信じ抜こうとする者に与えられた恵みの一つとして「残りの者」の信仰がある。イザヤは10章22節で、「あなたの民イスラエルは海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る」と預言した。この預言の成就を見るには長く待つに及ばなかった。ダビデ王国は分裂し、瓦解し、神の約束を信じる者は少数になってしまった。
 その時、彼らは少数者にこそ真実があり、少数者においてこそ悔い改めがあり、この少数者こそが祝福に与るという確認を与えられる。「残りの者」は適者生存の原理による勝ち残り組というのとは全く違う。神が選んで残したもうた民である。選び分けられて、多数の者がふるい落とされて恵みを失なう時、少数者だけが最後まで残って幸福を味わうというふうに理解してはならない。残りの少数者には担うべき課題が授けられる。
 彼らが持ち続けなければならない確信は、神が全イスラエルに対する約束を必ず果たしたもうという信仰であり、希望であり、その信仰を掲げ続ける使命である。イスラエルが全く失われたと見えても、それでも神の約束は失なわれていないという旗を立て続けることが使命なのである。こういう信仰を多数者は試みの中で持ちこたえることが出来ずに脱落して行くが、その脱落した者もついには帰って来るという信仰を持ち続ける小さい群れが残る。そのことが神の計画の中にあると信ずる者が耐え忍んで信仰を全うするのである。
 イスラエルの復興は神のなしたもう業であって、少数の目覚めた人間の努力ではないのだが、神はこの少数者を謂わば「核」として、希望の灯火を燃やし続けさせ、その「核」にご自身の民を集めたもう。
 このイスラエルの回復は「ダビデが彼らの王となる」という約束において頂点に達する。ダビデの名をエゼキエル書において聞くのは二度目である。最初に出たのは34章23-24節である。「私は彼らの上に一人の牧者を立てる。すなわち、我がしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主なる私は彼らの神となり、我がしもべダビデは彼らのうちにあって君となる」。
 来たるべきまことの王を「ダビデ」、または「ダビデの子」と呼ぶのは、預言者においては珍しいことではない。イザヤ書11章がエッサイの株から新しい枝が出る、と言ったのがこの預言の嚆矢であろうか。エゼキエルがここでダビデと言うのはダビデの再来であり、ダビデの末裔である。我々がイエス・キリストにおいて見るところのものである。
 この王のもとにおいて神の民らは、神の掟に歩み、神の定めを守って行なう。イスラエルの回復は神の戒めを正しく守らせるための支配である。単なる繁栄とか幸福とか理想の実現というものではない。
 23節で「彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろの咎とをもって身を汚すことはない」と言われるが、かつて彼らの滅亡の原因となった背反はもう行われない。背反の代表的なものが偶像礼拝である。偶像礼拝の導入によって人の道も乱れ、姦淫が横行し、偽りの証しが立てられ、隣り人の中の貧しい人々が先ず見えなくなり、大きい人も見えなくなる。バビロンの軍事力によって国が滅びたのではあるが、内側でも腐敗していたから崩れ失せたのである。回復されたイスラエルは再生されたイスラエルである。
 預言者がここで「ダビデ」と言っているのはキリストの預言である。したがって我々は新約聖書で示されているイエス・キリストのお姿をここに被せて読めば、預言者の言ったことは、その言葉の表現以上に正確に分かる。すなわち、25節で預言者が言ったように、メシヤが来られて、永遠の王国が直ちに始まるということではなかった。
 しかし、28節に「私は彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる」と言われたことはすでに実現している。すなわち、神と人との和解は十字架において一たび永遠に確立したのである。
   

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