◆今週の説教2001.03.25.
エゼキエル書講解説教 第40回――37:1-14によって――
「主の手が私に臨み、主は私を主の霊に満たして出て行かせ、谷の中に私を置かれた。
そこには骨が満ちていた」。
エゼキエル書の中で最も印象的な文章は37章で示された幻であろう。「骨の満ちた谷」と聞くと、鬼気迫る、暗い日陰の谷間の光景を思い浮かべる人があろうが、この谷はむしろ平野と訳した方が実情にそうようである。両方から山が迫って来ている渓谷を想像するには及ばない。バビロンの地にある一つの川の流域である。しかし、圧迫感を感じる谷であろうと、解放感のある平野であろうと、大差はない。いずれにしても、そこは死の世界であった。
「そこには骨が満ちていた」。――死の世界と言ったが、戦闘が終わった直後の戦場のように、累々と死体が積み重なり、地面に赤黒い血が流れる血生臭い場面ではない。倒れた人は骨になってしまっている。しかも、枯れてしまった白骨である。殺戮の生々しさは風化してしまった。呻き声も、嘆きも聞こえない。漫然と眺めれば、白い石が散らばっているように見えただけかも知れない。
しかし、その白い塊を一つ一つよく見れば、人骨である。かつては生きていた物、しかし、今は生命の痕跡もなく、殆ど無機物のように見えてしまう。生命とは最も無縁の世界である。
この川は恐らくケバル川である。エゼキエル書1章1節以来、何度かその名を聞いて来た。すなわち、バビロンに捕らえ移されたイスラエルの民の居留地と定められたのがケバル川の傍の一画である。3章15節によると、その地の名はテルアビブである。預言者エゼキエルの活動は主にこの地で行われた。エゼキエルの預言を聞いた人は、「谷の中に私を置かれた」という言葉に接して、それが自分たちの生活空間であることにだんだん気付いて行ったであろう。
生活空間が死の空間になっている。これがこの幻の与える衝撃の一つである。人々は勿論バビロンの囚われのもとにある現状に深い悲しみを抱いている。11節に「見よ、彼らは言う、『我々の骨は枯れ、我々の望みは尽き、我々は絶え果てる』」と記されているが、彼らは殆ど望みなき状態に生きる。だから、御言葉によって励まされなければならないのであるが、彼らの絶望はまだ本物ではない。不徹底である。「我々の骨は枯れた」と口では言うが、己れについての自信を捨てきって神を求め、神に従っているわけではない。だから、先ず、現状が枯れた骨であることを分からせなければならない。
そこから思いを転じて、我々の住む今の時代に降って来ることは、乱暴な飛躍と思われるかも知れないが、決して無益な空想ではない。我々の時代にも、圧倒的に多くの人は、時代の重苦しい行き詰まりを覚えている。望みは絶え果てた、と言っている。それが心にもない言葉でないのを我々は知っている。しかし、彼らの絶望は不徹底である。自分自身に絶望するとは、神に望みを懸け、神に依りすがることでなければならないのに、神に委ねないものを残している。
自分のうちには再生の芽あるいは種子があるから、神が助けて下されば、芽が出るという位に考えているのではないか。そこでは、あくまで自分が中心であり、自分が主体なのだ。神が主ではないのだ。神は手段化されている。そういう人たちは、自分が徹底して望みなき者、枯れた骨に過ぎないことを悟らなければならない。そのような現代の状況を踏まえて37章を読むことは有意義である。
だが、エゼキエルに示された幻は、ただそれだけで終わるものではない。今見た荒涼たる風景は出発点なのだ。死んで、肉体は土に還って、骨だけが腐り切れず、溶け切れずに残っているに過ぎない。枯れた骨が甦る。それが幻の主題である。どのようにしてか。
かつて町であった所を発掘して古代の遺跡が確定しても、その遺跡を町として再生させ、再利用することは出来ないように、古い骨が残っているから、それを再利用して人間を再生することが出来るか。出来ない。神がこの幻によって示しておられるのは遥かに大いなるみ業である。
「人もしキリストにあらば、新たに造られたる者なり」と我々は繰り返し聞いている。
新しい創造が行われるのである。「古きは既に過ぎ去り、見よ、新しくなりたり」と教えられるように、古いものの部分的修復ではなく、新しい創造である。
だが、この幻では、古い骨が再利用されているのではないか。古い骨は焼き捨てて、新しい人を創造すべきではないか。――たしかに、ここに示されるのは新しい創造である。だが、新しく造られた者にも或る意味では連続性がある。もっとも、その連続性とは古い骨を利用して、その上に新しい肉を張り付けるというような処置ではない。
人間が新しく創造される時、古き人間の罪は全て赦される。再生前に犯した罪について神から責任を追及されることはない。その追及がなされるならば、新しい人間になっているとはいえ、立ち行けない。それでも、新しい人間は古き人間と無関係になったのではなく、或る意味で古き人間を引き継いでいる。
例えば、エペソ書2章の初めに「あなた方は先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者である」と説かれているが、再生する以前の状態を思い起こさせられるのである。それでは、新しくされたとはいえ、古傷を抱えている前科者のように、市民としての人権は一応認められていても、日陰者なのか。そうではない。神が罪を赦したもうたのであるから、我々は晴れ晴れと生きる。ただし、罪は消されたが、罪過と罪によって死んでいた記憶は残る。その記憶は呼び起こされるごとに感謝となり、神が大いなる業を行いたもうた証しとなる。さらに、目を世界に転じると、神はキリストによって和解して下さり、私の罪はことごとくキリストに負わせられたのであるが、我々と隣人との和解は再生された我々の務めである。我々は隣人に対して負う再生以前の罪の負い目を忘れてはならない。新しく創造されたことは確かであるが、以前の責任、以前の名は継続しているのである。
ここでもう聖書本文に還らねばならない。「主の手が私に臨み、主は私を主の霊に満たして出て行かせ、谷の中に私を置かれた」。この谷というのは、先にも述べた通り、バビロン捕囚の生活していた地である。エゼキエル自身もそこに住んでいた。
それなら、普段生活している地に主の手で運ばれて行く意味はないではないか。そうではない。主の手に運ばれ、主の霊に満たされて行く時、そこが普段の生活を営むところであっても、現実に見えていないものが見えて来るのである。
「彼は私に谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた」。
枯れた骨については先に見た通りである。エゼキエルは枯れた骨のある場所の周囲を回るように命じられた。主の霊によって連れて行かれたここがどこであるかは、一目で明らかであったが、歩いてみてさらに確認された。エルサレムの陥落の後、バビロンに連行された人々は何カ所かの収容所に分散したようであるが、テルアビブがその一つであった。今日、世界のあちこちに難民キャンプが作られているが、ややそれに似たたたずまいであったのではないかと思う。それは普段見ている土地だが、この幻では難民キャンプは消え、人影も消え、夥しい人骨が横たわっている。
エゼキエルはその地域を行きめぐり、骨が甚だ多いことと、スッカリ枯れていることを掴んだ。その骨が何の骨であるかも、エゼキエルにはおぼろげながら分かったのではないか。すなわち、歩き回った場所は普段住んでいるところである。それなら、骨は今生きている人の本当の姿ではないだろうか。
後で、9節に「この殺された者たちの上に吹け」と言われるのであるが、死んだ者ではなく、殺された者なのである。病気や老衰で死んだのではなく、暴力的に殺されたのだ。
それでは、この場所はかつて戦いが行われた所で、戦死者の死体が放置されて白骨化したのであろうか。そうではない。この一つ一つの骸骨は、一人一人の人間に対応するというよりも、骨が全体として、イスラエルの国、ユダのの国、またイスラエルの民を象徴したものであると理解した方が良いであろう。イスラエルの国が滅びたのは久しい以前である。イスラエル国を立てていた支族は散り失せた。それは久しく野ざらしにされた白骨になぞらえることが出来るであろう。さらに、ユダの国も滅びた。ユダの民もバビロンの地に捕らえられて、望みなき民となっている。それも白骨化した人間と同じく、生きる望みを全く失ってしまったのである。
この幻を通して示されるのは、個々の信仰者における死人の甦りであると見ることは勿論出来る。そう見て差し支えはない。しかし、神がここで特に示そうとしておられるのは、個々人の終わりの日の甦りではなく、国の回復であると見る方が良いであろう。11節には「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われている。勿論、一人一人の回復を素通りして、イスラエルの民の回復があるわけはない。しかし、この37章では、特に15節以下の預言でハッキリして来るように、具体的にはユダとイスラエルの国の回復が主要テーマである。15節以下の預言では、分裂していた二つの王国が一つに合体して回復すると言われる。そして、それに至るまでに、差し当たって、バビロンからの帰還が約束される。そうれは12節で見るところである。
「彼は私に言われた、『人の子よ、これらの骨は生き返ることが出来るのか』。私は答えた、『主なる神よ、あなたはご存じです』」。
「これらの骨は生き返ることができるか」。――こう問われて、エゼキエルには返事が出来ない。骨が生き返れば良いということは分かっていても、「出来ます」とハッキリ答えることには躊躇せざるを得ない実情なのである。しかし、「あり得ないことです」と言うことも出来ない。そこで、「あなたはご存じです」と答えるほかない。主なる神の判断と力に委ねるほかない。人は死に、その骨は枯れ切ってしまっている。もうどうにもならない。回復の見込みはない。
だが、ここで驚くべき大転換が起こる。4節、「彼はまた私に言われた、『これらの骨に預言して言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け』」。
枯れた骨の満ちた谷、それは死の世界である。死の世界が死の世界であるのは、こちらの言葉が届かず、人と人とのコミュニケーションが成り立たないだけでなく、命のもとである神の言葉すら通用しない世界だからである。ここで御言葉を語っても、御言葉が空しくこだますばかりではないかと思われるのである。
神の言葉の適用範囲を死という限界のこちら側に留めて置くべきではないではないか、と言うのは簡単かも知れない。神は死人を生かす神であるから、その言葉を死という障壁によって遮ることは出来ない。ではあるが、死と生の断絶している状況を教会は慎重に取り扱って来たのであって、死者に対する伝道はしない。
我々に課せられている務めは、生きている人間を相手にすることである。だが、神の言葉が死という障壁を乗り越えるものであることは確認していなければならない。神は生と死を支配する権威を持っておられ、その権威はそのままに御子キリストに移された。
だから、イエス・キリストはヨハネ伝5章25節で「よくよくあなた方に言って置く。死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでに来ている。そして、聞く人は生きるであろう。それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである」と教えられる。
主イエスはまたヨハネ伝11章25節で、「私は甦りであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて私を信じる者は、いつまでも死なない」と言われたのである。そしてこの言葉が真実であることを示すために、死んで4日たったラザロを墓から呼び起こしたもうたのである。エゼキエル書37章は先に述べた通り、イスラエルの回復を示す教えであるが、これを理解するためにはイエス・キリストに目を向けなければならない。
5節、6節、「主なる神はこれらの骨にこう言われる、『見よ、私はあなた方の内に息を入れて、あなた方を生かす。私はあなた方の上に筋を与え、肉を生じさせ、皮で覆い、あなた方のうちに息を与えて生かす。そこで、あなた方は私が主であることを悟る』」。
この預言の実現して行く過程が、7節から10節までに述べられている。第一段階は7節であるが、それまで散り散りになっていた骨が、結合すべき相手を見出して、骨と骨とが集まって相連なった。そして、集まって結びつく時、かなりの物音がした。
第二段階は8節である。骨格の上に筋、肉、皮が生じる。こうして人体の形は整う。しかし、人体の形は出来たけれども、息はない。
第三段階で、息がその人体の中に入る。それも預言によって起こるということに注意しなければならない。アレヨ、アレヨと見ているうちにスペクタクルが展開して行くのでなく、神の言葉が新しい段階を呼び起こすのである。9節、「時に彼は私に言われた、『人の子よ、息に預言せよ。息に預言して言え。主なる神はこう言われる。息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ』。そこで私が命じられたように預言すると、息はこれに入った。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった」。
創世記2章7節に「主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」と書かれているように、神の息が吹き入れられなければ、命はなかった。
ケバル川の平野に横たわる死人を生かすために、神の風が天の四方から吹いて来て、鼻に息が吹き入れられる。四方から吹いて来る風、それは使徒行伝2章2節に記された五旬節の聖霊降臨を指し示す。「突然、激しい風が吹いて来たような音が天から起こって来て、一同が座っていた家一杯に響き渡った」と書かれている。エゼキエルに示された風、そしてそれが人の中に入ってなす呼吸は、神の霊の働きを象徴するものであった。
14節に「私は我が霊をあなた方の内に置いて、あなた方を生かし、云々」と言われている通り、命をもたらす息は神の霊である。
この幻において枯れた骨の甦りによって示されるのは、すでに述べた通りイスラエルの回復であるが、さらに具体的で身近な、目標として指し示されるのは、バビロン捕囚からの帰還である。12節、「それ故、彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる。我が民よ、見よ、私はあなた方の墓を開き、あなた方を墓から取り上げて、イスラエルの地に入らせる」。
では、死人の甦りという形で、バビロン捕囚の帰還が約束されたのか。エゼキエルの預言の文章の形ではそれである。しかし、我々に示される窮極の目標はそれではなく、終わりの日の甦りである。それはイエス・キリストによって明らかになったのである。
 

  


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