◆今週の説教2001.02.25.
エゼキエル書講解説教 第39回――36章によって――
エゼキエル書36章では、イスラエルの山々に対する預言が、35章のセイル山すなわちエドムの地に対する預言に続けて語られる。セイル山に対しては裁きが宣言されたが、イスラエルの山々に対しては回復が預言される。「山々」と一口で言われたが、4節また6節で言われるように、山と、丘と、窪地と、谷と、滅びた荒れ跡と、人の捨てた町々をひっくるめたものである。イスラエルの山々の回復とは、読み進むうちに分かって来る
が、イスラエルの家の回復の前置きである。
「あなた方は他の国民の所有となり、また民の悪い噂となった」と3節で言われるが、イスラエルの山々には周囲の国、特に前回見たようにエドムの者が侵入し、占領し、ここを荒廃させ、かつてここに住んだ民らのゆえにこの地は諸国民の間で悪い噂を立てられ、辱めを受けた。例えば、13節にあるが「あなた方は人を食い、あなたの民に子のない嘆きをさせる」というのは、諸国民がイスラエルの地に浴びせる罵りの言葉である。
「人を食う」と言われたのは、その地に住む人がいなくなったので、周囲の国民がそれを嘲って、この地はかつてここに住んでいた人を食ってしまったのだと貶めたことである。土地はその上に住む人を養うものであるが、養うことをせず、それどころか食ってしまった。これはこの地に対する最大の侮辱であった。そこで主は言われる、「見よ、あなた方は諸国民の辱めを受けたので、私は嫉みと怒りをもって語る。それ故、主なる
神はこう言われる。私は誓って言う、あなた方の周囲の諸国民は必ず辱めを受ける」。
神は辱められた者のために報復し、辱めた者を裁きたもう。そしてイスラエルの山々の名誉を回復したもうのである。
8節、「しかし、イスラエルの山々よ、あなた方は枝を出し、我が民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。見よ、私はあなた方に臨み、あなた方を顧みる。あなた方は耕され、種を蒔かれる。私はあなた方の上に人を増やす。これは悉くイスラエルの家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される」。
人のいない地となった所が、人の増える所となる。これは土地として回復したことを言うのである。
ところで、山々の回復と言われたのであるが、22節に「イスラエルの家に言え」と言われる通り、「イスラエルの家」に回復が約束される。結局はイスラエルの回復、約束のもとにある人間の回復である。そのことは、この22節以下、また25節以下を読めば明らかである。――では、山々や土地というのは、神の恵みを受け入れる受け方の象徴であって、必ずしもその山々の繁栄が回復しなくても良いのか。たしかにそうなのである。
二つのことを考えれば良いであろう。一つは、イスラエルの山々をイスラエル人が失なって、その土地に帰って来ることがもうなくなったとしても、約束の恵みを失なったことにはならないという事実である。バビロン捕囚以後、かなり多くのイスラエル人は散らされたままであった。故郷の持つ精神的な意味を彼らは忘れなかったが、現実にはかつて先祖たちのもっていた約束の地を失なったままであった。彼らはもはや土地を受け
継ぐことは出来ず、ただ先祖の信仰を受け継ぎ、教理を受け継ぐことに置き換えていた。
もう一つ見なければならないのは、実際の歴史において、捕囚が戻って来てイスラエルの山々の所有は回復したのであるが、回復したものはその後また失なわれたのであって、確かな、永遠の回復ではなかったという事実である。だから、山々が回復することが絶対に必要なのではなく、山々が回復しなくても致命的な破滅ではない。
このような解釈を、信仰に相応しくない諦めであるとか、信仰の頽落であるとか、約束されたことをキチンと信じない欠陥信仰であると見てはならないであろう。「嗣業の地」の表現している霊的意味を発見するならば、土地を失なうことは直ちに恵みの喪失になるのではない。
今言ったことは基本的な確信の事項であるが、一つ注意して置きたい。約束の地を失なったが、約束そのもの、つまり永遠の生命と神の国であるが、これは決して失っていないということは確かであるとしても、この一見信仰的な主張にかこつけて、誤魔化し、自己欺瞞、空しい強がり、安易な言い抜け、要するに、肉的な思いが潜む余地があることを我々は警戒しなければならない。
例えば、戦争があって、こちらはドンドン負け、敵が進出して、味方は見る見る減って行く。その時、自分たちは決して負けることはない、必ず最後の勝利を獲得するのだという信念を持つことは出来る。それでも、その信念が真理であるとは限らない。負けそうに見えていた戦局が逆転して勝利する場合もある。しかし、信念としては申し分なく堅固であり、信念に相応しく純粋に生きたけれども、信念通り勝利にならなかった場合
もある。それは空しい妄想を確かな確信だと言っていただけのことである。人間の確信は往々にして不確かである。
そういうわけで、イスラエルの山々は失なわれたが、アブラハムの子孫に対する恵みの約束は失なわれない、と信ずることは出来る。ではあるが、そう信ずる根拠を持たないならば、その言い分は偽りになる。敗北に敗北を重ねながら、これで良いのだ、憂えることはないのだ、と自分に言って聞かせ、人にもそう思わせるが、結局は現実を誤魔化し、すべきことをしなかったために敗北した自己の責任を回避するに過ぎないようなこ
とがあってはならない。
ところで、イスラエルの山々の回復の預言は、今36章を学んでいる我々にとって、成就してもしなくても、キチンと信仰的に解釈し、信仰を深める議論をすれば、どちらでも良いということではない。我々がここで語られる約束を注視しなければならないのは、単に霊的約束のしるし、理解を助けるため、という意味ではない。単なるしるしがあったのではなく、神の熱心があり、神の誠実が吐露され、神の力ある御腕が現われた。「その時人々は、私が主であることを悟るようになる」。しかも、その御腕が何をしたかを見なければならない。
20節に「彼らがその行くところの国々に行った時、わが聖なる名を汚した。これは人々が彼らについて『これは主の民であるが、その国から出た者である』と言ったからである。しかし、私はイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚した我が聖なる名を惜しんだ」。
上に見たように、イスラエルの山々は周囲の国人から辱めを受けた。神はその辱めを回復させたもうた。これも主の大いなるみ業である。しかし、それと別な、もっと大いなることを見なければならない。
イスラエルがバビロンの地に囚われて行き、その地で、国を失なった哀れな民、土地を持たない惨めな民、と見られ、罵られ、蔑まれた。それだけならまだ良いのである。彼らの受ける屈辱は自業自得であった。彼らが神との契約を破って、律法に従わなかったために、恵みを失なったに過ぎないからである。17節以下にある通りである、「人の子よ、昔イスラエルの家が自分の国に住んだ時、彼らは己れの行ないと業とをもってこれを汚した。その行ないは私の前には、汚れにある女の汚れのようであった。彼らが国に血を流し、またその偶像をもって国を汚したため、私は我が怒りを彼らの上に注ぎ、彼らを諸国民の中に散らしたので、彼らは国々の中に散った。私は彼らの行ないと業とにしたがって、彼らを裁いた」。
しかし、それだけでは終わらなかったのである。すぐ続いて20節で言われる、「彼らがその行くところの国々へ行った時、わが聖なる名を汚した。これは人々が彼らについて『これは主の民であるが、その国から出た者である』と言ったからである」。人々が神の名を汚すようなことを言ったわけでもないようである。だが、主の民と言われている人々の情けない生き方を見て、結果的に主を信じることの無意味さを他の人々は感じたのであう。
これはもう過去の問題でなく、今日の問題である。囚われと言っても良いような閉塞状態の中で、我々の名誉が地に落ちるのは当然のことであるが、神の栄光が汚されているのではないか。そのことに我々は気付いていないのではないか。
主の民が国を失なった惨めな状態に置かれ、その状況の中で惨めったらしく生きることによって、主の名が汚されたのである。主はこの汚されたご自身の名を惜しみたもう。
主なる神はご自身の名誉回復をはかりたもう。すなわち、ここではイスラエルの名誉回復が第一義的な意味を持たない。
人はこの世に置かれている自分自身の悲惨さに気付く時に、救いを求めざるを得ないであろう。だから、神を求めることにまるで無頓着な人にも、己れ自身を知り、己れの惨めさを見詰めるすべをキチンと教えれば、その人は神を信じることの意義を理解し、神を求めるようになると考えられる。それはちょうど病気になっていることを認めず、したがって医者に癒されることを求めない人に、病気であることの確かな証拠を示せば、進んで治療を受けるようになるのと同じである。
「人間の回復」などという問題はどうでも良いと主張するわけではない。失なわれた人間の回復は神の御心である。神はこのためにキリストを遣わしたもうたではないか。ただ、人間の回復それだけでは、人間の極めて自分勝手で自己中心的な「自己実現」と混同される恐れがある。先ず、神の栄光の回復を考えなければならない。
もちろん、我々が大いに奮起して精進することによって、神の栄光が回復するわけではない。我々の心がけ次第で神の栄光が伸びたり縮んだりするものではない。神はご自身によってその栄光を確保したもう。
けれども、イスラエルの敗北、その原因となった政治的・道義的頽廃、その結果としての囚われによって、彼らの主の名誉が損なわれたようなことは、他にもある。現に我々の関わる範囲において、我々の無気力、低迷、我々の間のくだらぬいさかいなどによって、神の御名が汚されていることには無関心にならないようにしたい。バビロンの囚われにあった者らは、イスラエルの山々の回復が預言者を通して約束された時、「主よ、
私たちは国を失ない、本国にあった土地を失ないましたが、霊的な恵みについての悟りを開きましたから、これで結構です」と言うべきではなかった。
22節から24節に掛けて言われる、「イスラエルの家よ、私がすることはあなた方のためではない。それはあなた方が行った諸国民の中で汚した、我が聖なる名のためである。
私は諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなた方が彼らの中で汚した、我が大いなる名の聖なることを示す。私があなた方によって、彼らの目の前に、私の聖なることを示す時、諸国民は私が主であることを悟る」。「私はあなた方を諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなた方の国に行かせる」。このことを通じて神はご自身を顕したもう。
さて、この36章で重要なのは25節以下である。これは山々に対してでなく、22節以下の「イスラエルの家」に向けて語られた部分にある。
「私は清い水をあなた方に注いで、全ての汚れから清め、またあなた方を全ての偶像から清める」。
イスラエルの山々が汚れたのは、異邦人が侵入して来たからではない。18節で見た通り、それ以前に、イスラエルの人々が罪なき者の血を流し、山の高い所で偶像礼拝を行なったからである。山々の回復は原状復帰ではない。もと通りになるだけなら汚れたままである。イスラエルの家も清い家にならなければならない。清いとは再生であり、再生された者の献身である。
水で洗うとは、我々がバプテスマにおいて確認している通りであって、単なる水の潔めではないし、単なる洗いの儀式ではない。水による洗いはバプテスマのヨハネの時以来、新しい生涯の始まりであり、方向付けである。
さらに言われる、「私は新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなた方の内に授け、あなた方の肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。私はまた我が霊をあなた方の内に置いて、我が定めに歩ませ、我が掟を守ってこれを行わせる」。
ここでも再生が語られるのであるが、内なる新しき人の誕生である。新しい心を備えた新しい人である。新しい人の誕生は霊によってなされる。新しい人と古い人との違いは、石の心と肉の心の違いであると言われる。「肉の心」というのは余り聞き慣れない言い方であるが、勿論、肉的な思いということではない。石の硬さに対する肉の柔らかさを示すのであって、かつてイスラエルがつねに頑なであったのに対し、新しいイスラエ
ルは神に対して常に従順である。石の固さとはまた悔い改めを拒むことであり、肉の柔らかさとは自らの罪を認めて悔い改める素直さである。
31節に、「その時あなた方は自分の悪しき行ないと、良からぬ業とを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、自ら恨む」と言い、32節の終わりに「イスラエルの家よ、あなた方は自分の行ないを恥じて。悔やむべきである」というのは、悔い改めの実践でなくて何であろうか。水の洗いによって再生された者は、もう清くなったから洗い直す必要がないというのではない。再生した者も、繰り返し繰り返し己れを顧み、自ら
の悪を自ら摘発し、矯正して、己れのうちに残る古き人を絶やして、清きに至る道を歩み続けなければならない。
だが、罪はすでに赦されたではないか。過ぎ去った日の罪を主も忘れて下さるのであるから、我々も忘れて、嘗て犯した罪を意識して悲しむことなく、大らかに生きるるべきではないのかと言う人があろう。そうではない。我々は地上の命の尽きる日まで、不完全であって、赦されてはいるが、聖なる者には成りきっていないから、絶えず自らを検討するのである。
「我が定めに歩ませ、我がおきてを守ってこれを行なわせる」。
悔い改めて新しい人生を歩むとは、具体的に言えば、神の定めたもうた律法を守り行なうことである。律法は義の基準である。律法を行なうことによっては人は義とされない、とガラテヤ書が断言することはその通りである。しかし、新しく生まれた者が律法を守る必要がないとは聖書は教えていない。律法を行なうことによって救われるのではないが、救いの道を歩むものは律法を忠実に守るのである。
再生以前の人間は、神の喜びたもうことをなし得ず、律法を正しく行なうことが出来なかった。だが、それだけではなく、律法を正しく行なうことが出来ていないとの自覚がないので、幾らか行なうと、十分果たしたかのように思い上がって、神に対しても隣人に対しても傲慢になったのである。霊によって再生して初めて、人は律法を喜ばしく守るようになった。
33節、「主なる神はこう言われる、私はあなた方の全ての罪を清める日に、町々に人を住ませ、その荒れ跡を建て直す」。罪が清められて、町々の回復がある。罪の赦しから回復は始まる。これが約束である。

  


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