◆今週の説教2000.11.26.◆

エゼキエル書講解説教 第37回――34:11-31によって――

 34章の初めの部分、1節から10節までのところで、主なる神は、イスラエルの牧者が務めを放棄し、あまつさえ権力を利用して弱いものを圧迫し、搾取して、己れの懐を富ませて贅沢に耽るのを裁きたもうた。ここで「牧者」と言われるのは、王侯、貴族、など世俗の支配者たちのことである。彼らに対する裁きとは国家の滅亡である。この預言が語られたのは、前の33章21節に記されたエルサレムの陥落の報せの後であろう。都が滅びた理由がこのように説明されたのである。
 それに続く部分、今日学ぶ11節以下で、主は「私自らが牧者となる」、「私自ら我が羊を尋ねて、これを捜し出す」、「私は自ら我が羊を飼い、これを伏させる」と言われる。羊は「暗やみの日」に散ってしまった。それを、主自ら、一匹一匹捜し出して、連れ戻し、群れを回復し、その群れを牧者に委ねず、ご自身で支配し、養いたもう。
 ということは、牧者たちを正しい道に立ち返らせて、本来の務めに励むように回復し、国家を再建することは語られていないのか。――それは語られていない。神は人間の担う職務と制度を取り上げてしまわれた。10節にあるように、「彼らに私の群れを養うことを止めさせる」と言われる。17節でも20節でも、「私自らが裁く」と言われるように、神が立てておられた裁き人は取り除かれ、その制度は廃止され、主御自ら直接に裁きたもうのである。
 たしかに、ここには昔のイスラエルの栄光の回復は語られていない。古き良き昔に戻るのでなく、直接に、一挙に、神の国、神の直々の支配に移行するという面が見えて来るのである。ただし、それだけではない。
 ペテロの第一の手紙2章13節に「あなたがたは全て人の立てた制度に、主の故に従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行なう者を罰し、善を行なう者を賞するために王から遣わされた長官であろうと、これに従いなさい」と勧められるが、王や長官、これがエゼキエル書の言う「牧者」である。また、ローマ書13章に「おおよそ存在している権威は、全て神によって立てられた」と言われているように、神は国々のうちに権威を立て、国ごとにこれを治めさせておられる。「したがって、権威に逆らう者は、神の定めに背くのである」と続いて言われる。そこで言われている「権威」がエゼキエル書34章のいう「牧者」である。そのように、支配体制というものは神の立てたもう正当な秩序である。それを廃止してご自身が支配し裁くと言われる。
 王を牧者になぞらえる言い方は、古代オリエントの牧羊民族の間だけでなく、その他の民族にも広くあったということであるが、我々は他国の事情まで考慮することは要らないであろう。こういう言い方がイスラエルの中ではまことに相応しいからである。
 イスラエルの王国を確立したのは二代目の王ダビデであるが、彼は野で羊を飼っているところからいきなり呼び出されて、預言者サムエルに油を注がれて任職された。武人として強かったから、あるいは堂々たる風采であったから、あるいは知恵者として沢山本を読んでいたから、人望があって王に選ばれたというのではない。エッサイの末息子、羊飼いの少年に油が注がれたのである。ただし、野から呼び戻された少年が直ちに王座に即いたということではない。油注がれてから実際に王の職務を始めるまでには長い紆余曲折があったが、そのことに今触れる必要はない。ダビデ自身は自分が羊飼いであると承知していた。
 ダビデの子孫が代々王となることは、ダビデに対する約束であるが、この血統の特権という意味ではない。実際、エルサレムがバビロンによって滅亡ぼされた時、王国も滅び、ダビデ家の者が王になることはなくなったのであるが、神の約束がそれで無効になったのでなく、のちほど見る通り、神の約束は揺るがず存続する。したがって、信仰者はダビデの子が王として来ることを信じて待っていたのである。
 しかし、この民はエルサレムが攻め落とされて以後、バビロンに引かれて行っても、バビロン捕囚から解放されて帰国しても、その後も、謂わば牧者のない羊となる。民族としては続いたが、国家として独立出来ず、王もいなかった。いつもどこかの国の支配のもとに置かれ、彼らはこれを屈辱と感じていた。
 かつてイスラエルの民は、周囲の民族が王を立てているように自分たちにも王が欲しいと預言者サムエルに歎願した。その時、彼らの求めたのは王を立てることによって防衛力が強くなること、周囲からの侵略と掠奪と支配の脅威に曝されないことであった。サムエルは人々の選択を賢明なものとは思わなかったが、神はこの要求を受け入れてやれとサムエルに命じたもう。
 こうして、先ず、ベニヤミン族のキシの子サウルが王として立てられたが、神の命令に聞き従わなかったために廃位され、次にユダ族のダビデが王となり、以後はダビデの子孫が王位を継いだのである。ところが、時には優れて信仰的な王もいたことはいたけれども、大部分は凡庸な王であるのみならず、不信仰であって、王制は頽落と衰退の一途を辿った。こうして、王国は分裂して、北王国が先ず滅び、次に南王国が滅びる。
 さて、国が滅びるならば、民は散り散りになって消え失せ、辛うじて消滅を免れた者も、十分な人間としては認められなくなったのか。――国家あってこそ人間、人間のアイデンティティーを保障するのが国家であって、国家が失われれば個人も欠陥人間になる、という思い込みが多くの人のうちにある。今日もあるし、昔もあった。エルサレム陥落の報せを聞いた時のバビロンの囚われ人の絶望的なショックはその現われであった。
 その時、彼らに向けて、「地上的な王は取り去られても、主なる神ご自身がイスラエルの牧者となりたもう」という宣言が語られたのである。王がいなくても、神が牧者であられるなら、人は立って行けるのである。国を失っても、神が主であられるなら、人は人として生きる。このことは今日の我々に対しても小さくない意味を持つメッセージである。我々のうちに、国が失われたならば自分の存在も支えを失うのではないか、という迷信的な不安がないとは言えない。また、国が滅びた後の民を、人間としての価値の劣った者と見くだして、差別的に「亡国の民」と呼ぶ傾向があるのではないか。こういう偏見から自由にならなければならない。神ご自身が良き牧者となりたもうからである。
 ところで、34章の教えは、エルサレム滅亡以後のユダヤ人の在り方、生き方を規定したものであろうか。いや、それだけではない。種々の要素がこの章の教えには組み合わされている。国は失われたが神が牧者として直接に治め、また守りたもうという教えもある。預言者に共通した終わりの日の教え、主の日の預言もある。その日には主が王となりたもうことが教えられる。また、終わりの日にならなくても、今すでに主が牧者でいますという信頼の教えも含まれている。平和といわれるものも、外面的なものから内面的なものまでの幅がある。やがて来るという面と、すでに現実になっているという面とがある。
 そのように多くの要素が複雑に絡んで、どれが中心点であるかが分かりにくいと言う人がいるかも知れない。たしかにそうなのである。この個所は感動して読む人が多いのだが、全体を掴む鍵がないと、捉え難い。そこで、何よりも大事なのは、この預言を新約聖書の光りのもとに読むことである。すなわち、イエス・キリストはヨハネ伝10章で「私は良い羊飼いである」と宣言されるが、キリストご自身エゼキエル書34章を踏まえてこう言われたのは確かである。キリストの日を予告するのがエゼキエル書34章である。
 これまで旧約聖書の、特に預言書の多くの個所で見たように、預言者は民らの不信仰、背反、すなわち偶像礼拝と不道徳を責め、神の怒りによる刑罰としてエルサレムの滅亡があり、その果てに神による回復がある、と預言した。それを打ち消すわけではないが、今日学ぶこの章では、民衆の不信仰と不道徳への審判については何も語られていない。審判を受けるのは牧者である。34章で教えられることを理解するためには、この特殊性に注意しておく必要がある。
 権力者が裁かれ、彼らの権威は剥ぎ取られるが、悪いのは彼らだけで、権力のない者には罪がない、と考えるならば、正しくない。神が自ら直接に支配したもうという考えも今日の学びの一部として重要だが、この考えには神の言葉と無関係なユートピア思想が入り込みやすい。そういうところでは、人間の罪、原罪、罪責の継承という真剣な問題が考えられなくなってしまう危険がある。この34章では触れていないとしても、人間一般の罪があり、ユダの国が滅びたのは単に支配者たちの責任ではなく、民衆も免れられない責任を持つということを心に留めておこう。
 ここでは、王がいなくても神ご自身が牧者となりたもうということが教えられていると言ったが、王がなくてもやって行ける、という消極的な譲歩の意味でなく、人間である牧者の業は誤りだらけであるから、神が牧者であられることの積極的意義を捉えねばならないのは言うまでもない。
 だから、国を失っても「主が我が牧者」との確信に生きよというだけでなく、国が安泰で、王がよく支配している時も、主なる神こそが本来の牧者であるとの確信と平安が大切である。イスラエルの王国では、代々この確信が基本となっているはずであった。
 ダビデが詩篇23篇に「主は我が牧者なり」と歌った歌は神殿礼拝で繰り返され、エゼキエルも勿論知っている。知っているどころか、エゼキエル書34章の基調になっているのは詩篇23篇であると見なければならない。先にも触れたが、ダビデ王は自分が牧者の出身であるとよく弁えていた。だから牧者が群れを養うようにして国のうちを治めたのであるが、その自分自身に対して、神が牧者であり、神が養いたもうことも体験していた。「主は我を緑の野に伏させ、憩いのみぎわにともないたもう」というダビデの詩篇が、13、14、15節のもとになっていることを容易に聞き取ることが出来るではないか。
 さて、11節以下をもう少し細かに読んで行こう。「牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、私はわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った全ての所からこれを救う」。
 牧者たちにとって経験したくないことであるが、大きい禍いが襲って来て、羊の群れが散り失せることは起こり得る。その禍いの譬え通りの事が起こったのである。「雲と暗やみの日」というのは、明らかに歴史上の特定の禍いの日を指す。すなわち、「雲と暗やみ」はアモス書5章20で「主の日は暗くて光りがなく、薄暗くて輝きがない」と言うように、主の裁きの日の兆候であり、ユダの国家の崩壊の日のことが言われている。「散った全ての所から」と言われ、次の13節では「私は彼らをもろもろの民の中から導き出す」と言われる。つまり、もろもろの民の中に散って、埋もれてしまったのだ。
 国を失った人々が、祖国を慕い求めてまた集まって来るというのではない。また、誰かが祖国復興を唱えて人々を呼び集めるというのでもない。羊が散ってしまうと、自力では再結集出来ないように、神の民は散った所から自発的に、自力で帰って来ることはない。羊飼いが一匹一匹捜し出して連れ戻すように、神はご自身の民を一人一人尋ね求めて連れ帰りたもうのである。地上の王たちにはそれは出来ない。
 イエス・キリストが「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われたのは、エゼキエルの預言によって示されたことの具現である。
 王国の再建ということは語られていないと言ったが、神の民は一旦散ってしまって、再結集されるのである。それも彼ら自身の志と力によってではない。神ご自身の労苦によって愛によって集められるのである。こうして集めた彼らを私が養うと神は言われる。
 17節で「あなたがた我が群れよ」と呼び掛けられる。そして、「私は羊と羊の間、牡羊と牡山羊の間を裁く」と言われる。22節では、「羊と羊の間を裁く」と言われる。牡羊や牡山羊は時々暴れて群れを散らすことがあるし、強いもの同士の争いが起こる。そうさせないための規律が必要である。強い獣には特別に規制しなければならない。草は豊かにあるから問題はないようであるが、強い羊はサッサと良い草を食べ、食べ残しはするが、残った草を踏みにじる。弱い羊は食べられないわけではないが、足で踏まれた食べにくい草を食べなければならない。水も強い羊が飲み干してしまうのではないが、先に飲んで、飲んだ後の水を足で濁す。弱い羊は濁った水しか飲めない。
 神は「これは余りのことではないか」と弱いもののために慨嘆し、憤りたもう。強いものが先に食べ、先に飲むのは当然ではないか。食べ残しや飲み残しを、弱い羊が食い飲みするのは世の習わしではないか、と言う人があろうが、神はそれを認めたまわない。
 神は弱いものの味方になりたもう。自由にやらせておけば自ずと秩序が出来て行くのだと安易に考える人が多いが、自由にやらせておけば、強い者はいよいよ強くなり、弱い者はますます弱くなる。肥えた羊はますます肥え、痩せた羊はますます痩せる。いじめられる者はますますいじめられる。初めは平等であっても、放任して置くと、ドンドン不平等になって行く。
 自然のままにしていると、不平等、不公平がはびこり、格差はだんだん大きくなる。それがこの世の法則である。だから、神が牧者になりたもう国においては、強い羊は弱い羊を助けるという法則が守られなければならない。ローマ書15章1節に、「私たち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」と教えられている。これが神が牧者となりたもう群れの秩序である。
 23節に「私は彼らの上に一人の牧者を立てる。すなわち、我が僕ダビデである」と言われ、24節では「主なる私は彼らの神となり、我が僕ダビデは彼らのうちにあって君となる」と言われる。牧者が排除され、神自らが牧者となりたもう、と聞いたのに、またダビデが牧者になるというのか。これはダビデが王となる旧秩序が回復するという意味であろうか。そうではなく、やや分かりにくいのは確かだが、これはダビデの子孫がメシヤとして来て、秩序を回復するという意味に取らなければならない。「私は良い羊飼いである」と言われるお方はダビデの子である。
 25節に「平和の契約」という言葉がある。これはかつて結ばれた「シナイの契約」とは別の「新しい契約」、エレミヤ書31章にある「新しい契約」と同じ物であろうか。「罪の赦しによる和解」という意味が「平和の契約」という言葉から聞き取られるのではないかと期待されるが、ここではやはり無理のようだ。ここでは「契約」という言葉は厳密な意味で語られたのではなく、「平和の契約」とは「平和」のことである。
 ホセア書2章18節には「その日には私はまたあなたがたのために野の獣、空の鳥及び地の這う物と契約を結び、また弓と剣と、戦争とを地から断って、あなたを安らかに伏させる。また私は永遠にあなたと契りを結ぶ。すなわち、正義と、公平と、慈しみと、憐れみとをもって契りを結ぶ」と言われるところと内容的には良く似ているように思われる。その契約は獣や鳥、地を這う物も参加する普遍的契約である。
 エゼキエルの描き出す契約の状態は、「国のうちから野獣を追い払う」これは契約に基づいて野獣が主の羊の地域外に立ち退くという意味であろうか。だから「彼らは心を安んじて荒野に住む」。すなわち、荒野にも彼らを損なう野獣はいない。次の「森の中に眠る」とは野獣の住まいとされていた森の中にも平和が確立していることを言うのである。イザヤ書11章に「狼は小羊と共に宿り、豹は仔山羊と共に伏し、子牛、若獅子、肥えたる家畜は共にいて小さい童に導かれ、云々」と書かれてている情景と結び付く。
 イザヤ書9章にあるようにキリストは「平和の君」と称えられると約束されていた。人間の中から君として立てられる者はたとい英君といわれる王であっても儚いのだ。確かな王は永遠の王である。彼は言われる、「見よ、我は世の終わりまで汝らと共にあるなり」。


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