◆今週の説教2000.11.26.◆

エゼキエル書講解説教 第36回――34:1-10によって――

 エゼキエル書34章で学ぶのは、2節に書かれている通り、イスラエルの「牧者」たちに対する預言であり、警告、裁きの宣告である。11節以下には、主ご自身が牧者となるとの約束が宣言され、これが旧約の約束の頂点をなす。「牧者」という比喩は「支配者」、「上にある権威」のことである。イエス・キリストがヨハネ伝10章で「私は善き羊飼いである」と言われた言葉、また21章で復活の主がペテロに「私の羊を飼え」と繰り返して命じたもうたことが我々の心に定着しているため、普通「牧者」という語は教会の霊的指導者の意味に取られている。それはそれで良いのだが、牧者という言葉のもともとの意味、したがってまたエゼキエル書のこの個所で用いられている意味はそれと違う。
ここでは牧者には霊的指導者の意味は含まれない。したがって預言者や祭司に対する警告ではない。
今、エゼキエル書34章を今日の教会の牧師に対する警告と取るならば、それによる実害は余りないから、解釈の誤りを批判するためにムキになることは要らないのであるが、この預言によって指摘されている問題を素通りして読み落とすことになる、ということだけは承知して置こう。
ただし、教会の牧者がここで警告を感じ取る必要が全くないと割り切るのは問題である。牧者が牧者としての職務を尽くさなければ、神のものである羊の群れは育たないし、維持出来ない。良い草のある所に羊を連れて行くことを知らない牧者のもとにいる羊は禍いである。羊は養われも訓練もされない。群れ全体として衰えるし、群れの一つ一つが衰える。そういう場合に、「羊は禍いである」とは言われず、「禍いなるかな、自分自身を養う牧者」と言われるのである。「群れを養う能力も勤勉さもない牧者のもとに置かれたのは不運として諦めよ」とは言われない。主は牧者を裁き、その職務を剥奪される。この警告は今日、教会の牧者たちが真剣に聞かなければならないものである。しかし、今日学ぶ預言が本来教えていたのはそういうことではない。
エゼキエルがここで語る預言と全く同一主旨の預言をエレミヤは23章の初めに語っている。「主は言われる、『わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者は禍いである』。それ故、イスラエルの神、主はわが民を養う牧者についてこう言われる、『あなたがたは私の群れを散らし、これを追いやって顧みなかった。見よ、私はあなたがたの悪しき行ないによってあなたがたに報いると、主は言われる。私の群れの残った者を、追いやった全ての地から集め、再びこれをその檻に帰らせよう。彼らは子を産んでその数が多くなる。私はこれを養う牧者をその上に立てる。彼らは再び恐れることなく、また戦くことなく、いなくなることもない』と主は言われる。主は仰せられる、『見よ、私がダビデのために一つの正しい枝を起こす日が来る。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行なう。その日ユダは救いを得、イスラエルは安らかにおる。その名は<主は我々の正義>と唱えられる』」。
羊は非常に古い時代から人間に飼いならされた家畜であるから、人間に導かれなければ何も出来なくなっている。すなわち、自分の本能によって食物のある草原を探し出すことも、飲み水のある川や泉を見付けることも出来なくなっている。羊飼いによって、適当な草や水のある場所に導かれなければならない。
イスラエルはもと遊牧民族であったから、彼ら自身が牧者として自分の羊の群れを管理する経験を持っており、その牧者を譬えとして、彼らの上に立てられた支配者、その代表は王であるが、その意義と機能を理解した。しかし、イスラエルにとっては、牧者を譬えとして王を理解する以上に、神との関係の理解があった。
すなわち、このような牧羊者の生活経験が基調になって、イスラエルは神を謂わば「牧者」として捉え、そのもとでこそ自分の幸福があることを弁えた。創世記48章15節でヤコブはヨセフの二人の子を祝福する言葉の中で「生まれてから今日まで私を養われた神」と言っているが、この「養う」という言葉は牧者が羊を養う意味である。
またダビデは、神ヤーヴェこそが私の羊飼いであり、私は神の羊である、ということをしみじみ感じて詩篇23篇を作った。我々の知る通り、そこに歌われているのは、神に対する絶対の信頼である。信頼し、服従してこそ、恵みと祝福にあずかることが出来ると彼は知っていた。
マタイ伝9章36節にも、マルコ伝6章34節にも「飼う者のない羊のような」という描写が試みられているが、主イエスご自身、民衆の有様をそのように感じ取り、そのような言葉で表現されたのであろう。しかし、その表現は聖書的伝統を踏襲したものであって、決して新しい着想ではなかった。羊飼いから離れた羊は野生化して自活することは出来ないのである。飢えるか、野獣の餌食になって自滅するほかないのである。
「ダビデの歌」と題されている詩篇23篇が、ダビデの生涯のどの時代に作られた詩であるかは分からない。羊を飼っていた少年時代か、サウル王に召し出されてその側近となって、王を慰めるために琴を奏でて歌を歌った時か、王から迫害されて逃亡生活をしていた艱難の中で信頼と希望を捨てずに神を讃美した時か、イスラエルの王となってからか、どの時代にも当て嵌めることが出来るために、時期の確定が困難である。だから、ダビデがどういう境遇にあった時にこの詩篇を歌ったかを推定することは今は断念する。
ダビデに関して一つ取り上げなければならないのは、王となっているダビデに、主なる神が預言者ナタンを遣わして、重大な警告と叱責を与えたもうた出来事である。サムエル記下12章に記されている有名な事件である。ナタンは一つの寓話を語る。富める羊飼いと貧しき羊飼いがいた。富める羊飼いは貧しき羊飼いからその大事にしていた一匹の雌の小羊を取り上げて食べてしまった。王はこの話しを聞いて非常に怒り、「主は生きておられる。このことをしたその人は死ぬべきである。またその小羊を四倍にして償わなければならない」と言う。
そこで預言者ナタンは王に言う。「あなたがその人なのだ」。これはダビデが家来のウリヤの戦争に出ている間に、その妻と姦淫を犯したことを指摘したものである。ダビデに己れの罪を悟らせるためには、羊飼いが他の羊飼いの羊を奪い取ることを譬えとして取り上げるのが適切であった。ダビデは罪人であったが、悔い改めることを知る罪人であるから、ただちに悔い改め、悔い改めの詩篇を新しく作った。詩篇51篇の標題に書かれている通りである。
王というものは、自分の欲望や支配欲を遂げるために権力を獲得するのだと通常理解されているが、それはむしろ裏の事情であって、そうである場合も多いのであるが、表の意味は人々の間に秩序と安寧を維持するために権力を委ねられた人である。王は委ねられた職務を果たすことを神と民衆に誓うのである。だから人々は彼に進んで従順に協力するとともに、またもしその務めを全うしないなら他の者に職務を奪い取られる。
イスラエルにおいては初めのうち王はいなかった。アブラハムは一家の父として指導した。次の段階では霊的指導者であるモーセが人々の訴えを聞いた。つまり、裁判をした。裁判官はいたが、行政官はいなかった。人々が神の律法を守って、自らの判断によって出処進退を決める時、それで世の中は治まっていた。モーセ一人で裁判をすることは実際に無理であったので、70人の長老が立てられてモーセを補佐するようになった。
この長老たちが集まって会議を開いてことを決める。この議会がイスラエルの政府に当たるものであった。このように議会制はあったが王制はなかった。イスラエルにとっては神が本来の牧者であり、王であられるから、人間を王に立てることは要らないと長い間考えられていたのである。
王制は周囲の異邦人の制度を模倣して導入されたものである。「周囲の諸民族に対抗して行くためには我々にも王が必要である」と民衆を代表する長老たちは預言者サムエルに訴えた。Iサムエル8章に書かれている。その頃、イスラエルはカナンの地に定住したが、良い土地は全て先住民族に占められていて、イスラエルは山の上の、条件の悪い所しか取ることが出来なかった。そして、この地を支配していたのはぺリシテの王であって、毎年貢ぎを納めなければならなくなっていた。寄留者でなく独立した民族になるためには権力を統一する王が必要であると考えられたのである。
サムエルは初めは民衆の欲求を突っぱねる。強い権力を保持する者が現われることは危険なのだ。第一に、王の持つ権力が神の主権を見えにくくする。それどころか、王は屡々自己を神格化するし、その権力におもねる者が出て来て必要以上に王を崇める恐れがある。第二に、王の権力は民衆の人権を抑圧する。サムエルが見たのは正しい。しかし、神はサムエルに、民衆の要求を受け入れてやれと指示される。ただし、王の習わしがどのようなものであるかを教えよと命じたもうた。すなわち、王の制度は一面では有用であるが、その危険に十分注意しなければならない。
実際、サムエルが警告した通りの危険が頻発した。しかし、だからといって王制を廃止しなければならないとは言いにくい。王制にはそれだけの有用性があるからである。ローマ書13章にも「上にある権威に従え」と教えられている。ただし、上にある権威とは王の権威に限られるものではない。共和国も権威を帯びている。人類の動向が王制から共和制に徐々に移って行くことは我々の知る通りである。そして、神によって立てられない権力はない、ということは世の終わりまでは変わらない。
権力が神によって立てられたとは、権力にはどんなことでも従わなければならない、という意味では決してない。考えねばならないことが二つある。第一に、「人に従うよりは神に従うべきである」という大原則である。使徒行伝4章に記されている。この原則を神の教会は教え続けなければならない。地上の王たちは神の民に対しても絶対的な服従を要求し勝ちである。
もう一つ、預言者たるものは王たちに対してつねに警告を発していなければならないという原則がある。先に触れた預言者ナタンによるダビデへの叱責は、預言者の正義感から来たものではなく、神がナタンをダビデの所に遣わして警告させたもうたから起こったことである。ダビデは王の中でもずば抜けて立派であったと言われるが、自分の犯している罪を自分では悟れなかった。これは人間に一般的にある傾向であって、全ての人は御言葉を聞き続けて悔い改めを繰り返さなければならない。しかし、預言者は一般人に御言葉を聞かせるだけでなく、権力に対して常に警告を発していなければならない。
権力は神から託されたものであるが、多くの場合、権力の座にいる者は神への恐れを持っていない。だから、神を恐れよと繰り返し警告する必要がある。
この警告が、警告する預言者の生命を危険に曝すことになる場合が多いのである。例えば、ユダの王ヨアシはアシラ像と偶像を導入し、これを戒めた祭司ゼカリヤを殺したことが歴代志下24章に記されている。すなわち、権力を持つ者は人間であるから、自己中心的な感情を持つ場合が多く、自分が批判されると怒って激しく反発する。善意で忠告してくれる者を殺すという実例は少なくない。だから、預言者はそれだけの覚悟を持っていなければならない。「体を殺しても魂を殺し得ぬ者を恐れるな」との主イエスの言葉を忘れてはならない。
さて、今日エゼキエル書34章で学ぶのは、そのように権力をもって支配し、権力を自分自身のためにしか使わない者に対する審判である。彼らは委ねられた権力を自分のために行使して、自分は美味しいものを食べ、ぬくぬくと生活し、その権力によって守らなければならない民衆を放置して滅びるに任せている。民衆は悲惨な状態にいる。これは権力を委ねられている全ての者の聞くべき警告であるが、ここでは特に「我が羊」と神が言われることろに注意すべきであろう。神がご自身の民を全うさせるために牧者を立てておられるのである。
この点で、34章の預言は、神の民のために立てられた今日の牧者への警告として転用することが出来るのである。
「禍いなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか」。……彼らは職務の内容を忘れ、責任を忘れているのである。それでいて特権だけは決して手放さない。このような不心得者が今日多いということを我々は覚えている。
そういう人に警告することも必要であろう。しかし、特に大事なことを見失わないようにしたい。主イエスは「私に与えられている者を一人も失わずに終わりの日に甦らせる」と言われた。彼はこのように職務を全うしたもうのである。職務をこのように全うしたもうお方がおられ、その方の職務の対象となって、我々自身が終わりの日まで失われずに主の民として全うされるということを先ず確認しなければ、いたずらに目をあちこちに転じても、益はない。
「あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者を癒さず、傷ついた者を包まず、迷い出た者を引き返らせず、失せた者を尋ねず、彼らを手荒く、厳しく治めている」。これは、牧者の職務を具体的にどのように果たして行くべきかの心得である。ここでは入念に配慮すべき5種類の羊が取り上げられているが、それが羊の全てでないことは容易に分かる。すなわち、健やかなもののことは特に触れられていない。
健やかな普通の羊もいるのである。羊飼いは、弱いものに事故があったときには、健やかな99匹の羊を差し置いて、1匹を求めて探しに行くのであるとイエス・キリストは教えたもうた。これはこの通りであって、だからこそ一人も失わずに全うするという務めがある。ここに単に牧者の優しさを読み取るだけでは、余り意味がない。彼の果たしたもう務めの確かさを見なければならないのである。
そのように、まことの羊飼いは群れのうちの1匹も失わないのであるが、99匹が終始放置されているわけではない。99匹はシッカリ養われているのである。神の民は一人残らず御言葉によって養われなければならない。怪我をした羊は優しく治療するけれども、全ての羊が放置されていつもひもじい思いをしているようなことでは、到底「良き羊飼い」とは言えないのではないか。
ところで、これはエゼキエルの生涯のどの時期に語られた預言であろうか。前の章で見たように、エルサレムが陥落し、王国が失われた後であろうか。そのように受け取るのが最も自然であろう。とすると、その時期にはイスラエルには支配する者はもはやいなかったから、現実の牧者に面と向かって警告することはなかったかも知れない。
先に触れたように、この預言と同じ主旨のエレミヤ書23章の預言はエルサレムの滅亡前に語られた。エレミヤは当時ユダを治めていた権力者に警告したのだ。エゼキエルのこの預言も同じ状況において語られたと見ることは全く出来ないわけではないが、無理があろう。それでも、エレミヤの精神が共通にあることを見たい。過去の王国の実情を振り返り、牧者が真の牧者としての使命を遂行しなかったから、国が滅びた、すなわち、10節に「見よ、私は牧者らの敵となり、私の羊を彼らの手に求め、彼らに私の群れを養わせない」ということになったと説明するのであろうか。
「見よ、私は牧者らの敵となる」。神はご自身の羊を守るために牧者の敵となりたもうという意味である。務めを果たさない者に対する神の怒りを知らなければならない。それは逆に言えば、神がそのようにしてご自身の民を全うしたもうことである。主イエスが言われたようにキリストの民は一人も失われないという約束があるのだ。


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