◆今週の説教2000.09.24.◆

エゼキエル書講解説教 第34回――33:1-20によって――

 エゼキエル書は33章の初めから新しい段階に入る。これまで聞いて来たのは、ユダの国、エルサレムの人々、またバビロンに捕え移されているユダの囚われ人らに共通した安易な神頼みに対する警告であった。彼らが頼みとしているエジプトは助けてくれない。
 難攻不落を誇っているエルサレムは陥落し、焼き滅ぼされる。そういう予告が繰り返された。
 33章から新しい段階に入ると言ったが、この章の21節にある記録がその新しい段階を性格づけている。すなわち、「私たちが捕え移された後、すなわち第12年の10月5日にエルサレムから逃れて来た者が、私のもとに来て言った、『町は打ち破られた』と」。エルサレムの町は滅びたから、その滅びについて預言する必要はなくなった。
 エゼキエル自身は、エルサレムの陥落を何度も何度も予告していたのであるから、この報せを聞いて衝撃を受けることはなかった、と見て良いだろう。しかし、命じられた使命として、神の定めておられる滅亡を予告することと、一個の人間としてのエゼキエルの気持ちとは別である。彼自身が失望落胆し、慰めを必要としていたというわけではない。しかし、彼の置かれている状況、また彼の預言を聞く人々の状況は、全く異なるものとなった。すなわち、彼らは帰り行くべき故郷を持たなくなったのである。
 勿論、彼らにはもっと早くから70年の後の帰還が約束されていた。エレミヤ書29章10節11節に言われる。「バビロンで70年が満ちるならば、私はあなた方を顧み、私の約束を果たし、あなた方をこの所に導き帰る。主は言われる、私があなた方に対して抱いている計画は私が知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである」。これはエゼキエルを含む第一陣の囚われ人がバビロンに引き行かれた時、預言者エレミヤが書き送った手紙の言葉である。
 しかし、恐るべき破滅が警告されても聞き流して夢を追っていた人には、希望の言葉もやはり聞き流され、亡国の民となったという目の前の現実が全てとなって、神の言葉が耳に入らないほど意気消沈しているのである。そういう人々に向けての預言も繰り返されなければならないが、これは、先の預言とは違った響きを帯びている。大掴みに纏めれば、ここからは預言者は神の言葉を語ることによって人々に希望を与えるのである。
 ただし、以前に示されなかった約束が示されるわけではない。今日学ぶことの前半は3章15節以下にあり、後半は18章にあるのと同じ言葉である。
 33章の初めから新しい段階に移ると言ったが、その新しい預言が与えられた日付は何時なのか。これまで、エゼキエルの預言の特色として、毎回の預言の日付があったのだが、33章の1節は「主の言葉が私に臨んだ」というだけだ。33章から39章の終わりまで、どの託宣もすべて日付がない。ただ、状況の説明として、21節に第12年10月5日という日付が入っている。これで十分だったのである。では、21節の前に述べられた1節から20節までの預言は10月5日の前なのか後なのか。それはどちらでも良いことである。分かりやすく受け取るためには、10月5日以後と考えて置いた方が良いが、こだわる必要はない。
 さて、今日33章で学ぶことの第一は、預言者自身の基本姿勢についてである。7節以下にこう言われる、「それ故、人の子よ、私はあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたは私の口から言葉を聞き、私に代わって彼らを戒めよ。私が悪人に向かって『悪人よ、あなたは必ず死ぬ』と言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかし、私はその血をあなたの手に求める。しかし、あなたが悪人にその道を離れるように戒めても、その悪人がその道を離れないなら、彼は自分の罪によって死ぬ。しかし、あなたの命は救われる」。
 ここから聞き取るべき第一の点は、預言者が語るべき警告を語らなかったために悪人が罪から抜け出すことなく滅びたなら、罪を犯した者が己れ自身の罪の故に滅びるのは当然としても、その滅びの責任が預言者に求められるということである。何故なら、神は人が生きることを望みたもうからである。
 第二に、預言者の語る言葉の内容が何かである。10節以下で明らかになるのであるが、それは「悔い改めの言葉」と言うべきものである。単なる警告ではない。単なる明るい将来の約束でも希望への励ましでもない。聞く者は聞くことによって悔い改めて新しくなる。
 第三に、今日聞く御言葉は先に殆ど一字一句そのままに一度聞いたものであることを思い起こさずにおられない。それは3章16節から21節である。それはエゼキエルが預言者としての召しを受けた当初のことである。正確に言うと、召しを受けた後7日して、その召しを確認するような意味で与えられた注意事項である。
 ということは、エゼキエルにとって、最初の召しから7年の活動の後に、新しい預言のために新しい召しが与えられた、と取ってよいであろう。召しそのものは同じである。一度解任されてもう一度新しく召されたというのではない。連続している。再確認に過ぎない。しかし、新しい事態の中で、新しい思いをもって召しを受けたのである。そこでは最も基本的なことが再確認された。
 1節から学んで行こう、「主の言葉が私に臨んだ、『人の子よ、あなたの民の人々に語って言え、私が剣を一つの国に臨ませる時、その国の民が彼らのうちから一人を選んで、これを見守る者とする。彼は国に剣が臨むのを見て、ラッパを吹き、民を戒める。しかし人がラッパの音を聞いても、自ら警戒せず、ついに剣が来て、その人を殺したなら、その血は彼のこうべに帰する。彼はラッパの音を聞いて、自ら警戒しなかったのであるから、その血は彼自身に帰する。しかしその人が、自ら警戒したなら、その命は救われる。しかし、見守る者が、剣の臨むのを見ても、ラッパを吹かず、そのため民が自ら警戒しないでいるうちに、剣が臨み、彼らの中の一人を失うならば、その人は、自分の罪のために殺されるが、私はその血の責任を、見守る者の手に求める』」。
 難しいことは何もないと思う。解説なしでも十分分かる。一つの譬えである。戦争の時、一つの国または一つの町が見張りを立てる。見張りは、夜も昼も望楼の上で見張っていて、敵が近付いて来たなら警報を出して、門を閉める。それで全く安心というわけではないが、敵が間近に来る前に人々は用意を整えて迎え撃つことが出来る。
 この譬えの見張りは、人々によって選ばれて警戒と警告の務めに立てられる。では預言者も人によって立てられるのか。そうではない。神に立てられるのだ。人によって立てられた職務であっても、職務怠慢の故に敗北したなら、責任者は裁判に掛けられて処罰されるのが通例であった。まして、神に立てられた務めが、職務怠慢によって託された群れの中から滅びる者が出た時には、一人の滅びであってもその責任が問われるのである。
 今、神がエゼキエルに語りたもうた見張りの譬えは、戦争の時の見張りであるが、聖書では、見張りは戦争の時の防衛のための機能だけでなく、平生の市民生活で時刻を報せる役割でもあったことが教えられる。昼間なら、太陽の傾き加減で時刻は誰にも分かるが、時計がなかった昔、夜には寝ずの番をする見張りに時刻を聞くのである。「夜回りよ、今は夜の何どきか」という言葉がイザヤ書12章11節にあるが、夜回りとは見張りのことである。普通、人は夜は眠りに沈むのであって、謂わば時間の外に出てしまう。朝が来て、見張りが「起きよ、夜は明けた」とラッパを鳴らすまで人々は見張りの存在を忘れている。しかし、嵐が吹き荒れる夜とか、病人を夜通し看病するというような厳しい時には、あとどれ位で朝になるのかを知らずにおられない切なる気持ちがあるのである。こういう場合に人は見張りの意義を切実に感じる。
 エゼキエルの場合もそうである。この33章以後、そちらの面の務めが重要になる。それは10節以下で明らかになることであるが、エルサレムの滅亡以後、人々は意気阻喪して、闇の中で溜息をつくようになる。「我々の咎と罪は我々の上にある。我々はその中にあって衰え果てる。どうして生きることが出来ようか」。そういう人たちに救いの到来を語って希望を与えることも見張りの重要な役割である。見張りである預言者が希望の根拠となる神の約束をハッキリ教えなければ、人々は衰え果てて死んでしまう。――この面のことは後程学ぶことにする。
 見張りの譬えはいろいろな職務に当て嵌まる。一家の家長、一国の首長、学校の教師、軍隊の指揮官、会社の社長。それらの人々の責任意識が現代では非常に緩んでいて、問題になっていることは我々の知る通りであるが、今ここで問題になっているのは、神によって立てられた見張りである預言者、今日の事態に即して言うならば教会の牧師である。警告しなければならないことを警告せず、解決を延ばし延ばしして、ためにその人が救いに与れなかったなら、その滅びの責任が神から追及されるのである。
 見張りに対する注意はさらに拡大して良いであろう、すなわち、我々はこの国の中にいて謂わば見張りなのである。警告を発しなければならないのである。それが主イエス・キリストが言われた「地の塩」の一つの意味ではないであろうか。腐りやすい食べ物は塩漬けにする。腐敗し易い社会はその中に塩の役目をするキリスト者がいてこそ保たれる。かつては、教会の中で「汝らは地の塩なり」との御言葉が盛んに語られたが、今日では「地の塩」という言葉は殆ど死語になった。「地の塩」になって人から嫌われるのを避けようとする。今日こそこのことが強調されなければならない大いなる腐敗の時代であるが、教会は預言者的使命を忘れて、黙りこくっている。「彼らのうちの一人を失なうなら、私はその血の責任を見守る者の手に求める」と言われた方の御言葉を聞き流して良いのであろうか。
 ただし、今日、先ず聞かなければならないのは、キリスト者一般でなく、御言葉を語る務めを託された預言者の責任についてである。語るべき言葉を十分に伝えなければ、つまり人々を悔い改めさせる御言葉を語らなければ、別の言葉で言えば、聞き手の喜ぶような聞きやすい話しばかりしておれば、その説教者の説教を聞いても人々は悔い改めず、悔い改めないことによって滅びる。だが、一人でも滅びるならば、その滅びの責任が牧者に問われるのである。神は「滅びてはいけない。生きよ」と言われ、悔い改めによって生かそうとして牧者を立てておられる。
 10節以下の学びに移ろう。すでに論じて来たように、預言者の前にある人々の状況は以前とは違うのである。以前は安心と自信に溢れていた。今は、打ちのめされている。「我々の咎と罪は我々の上にある。我々はその中にあって衰え果てる。どうして生きることが出来ようか」。
 このように溜息をつく人々に、預言者は語るべき言葉を語らなければならない。不可欠な言葉を省略してはならない。ただし、かつて自信に満ちていた者には厳しいことを語ったが、今度はひたすら優しく甘く語るというふうに単純に捉えては、正確でない。要するに、悔い改めの言葉を語らなければならない。
 11節の初め、「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、私は生きている」と言われる。「我々は衰え果てた。我々はどうして生きることが出来ようか」と嘆いている者に対する神の答えは「私は生きている」である。生ける神に目を向けさせねばならない。
 これが預言者の語るべき、また精魂傾けて証しすべき第一の主題である。
 「私は生きている」との御言葉は、得意の絶頂にある者にも、失意のドン底にある者にも、人間の如何なる状況に対しても有効な第一のものである。人間の状況がこれで転換する。多くの人は神の存在を考えはする。しかし、考えられた神は人が考えなくなった時にはどこかに消えてしまう。神はそのような概念としてあるものではなく、人が考えようが考えまいが、変わりなく「私はある、私は生きる」と宣言したもう実在である。
 「私は生きている」との宣言は、生きていることの原理がご自身にこそあると示す。自ら光りを発する物と、他から光りを受けてそれを反射しているに過ぎない物との違いがあるように、自らの原理によって生きるものと、他から生命を受けて生きるものとの違いがある。我々の場合、他の動植物の体を食物として摂取することによって命を維持しているのであって、自ら生きるのではない。我々の食物にされる動植物も、やはり他の動植物を食べて生きている。それらの食物を辿って行くと太陽の光に行き着くのであるが、太陽ですら自ら存在し、自ら光っているのではなく、神によって作られ、神によって光りを与えられている。ところが、神は「私は生きる」と言い得る唯一のお方である。
 「どうして生きることが出来ようか」と溜息をついている人の前で、「私は生きている」との宣言はどういう意味を持つのであろうか。神が生きたもうから、人々も神の前では生きなければならないのか。――何となくそう言えそうであるが、余りにも単純過ぎる言い方である。光りの前で全てが照らし出されるように、生ける神の前で全ての人が生きるとは言えそうであるが、そう単純ではない。命の源泉である神の前で、裁きを受けて滅びる人もあるではないか。命である神から命を受けるのは、「私は命である」と言われるお方、神から遣わされた御子を受け入れることによってであるということを、我々はヨハネ伝で教えられている。「私は生きている」と言われる神の遣わしたもう「私は命である」と言うお方を受け入れなければならない。そのためには悔い改めて信ずることが必要である。
 「あなたがたは心を翻せ。心を翻してその悪しき道を離れよ」。これが悔い改めの要求である。「心を翻す」とは、これまで向かっていた方向を全く逆転すること、回心である。これまでは悪しき道を進んでいたから、これからは義の道を行く。そこに命がある。すなわち、「義人は生きる」のである。義を受けることによって命を受け、そして生きる。
 「私は悪人の死を喜ばない。むしろ悪人がその道を離れて生きるのを喜ぶ」と言われる。悪人は当然死ぬべきではないか。悪人でありながらなお生きようとする者を神は裁いて滅ぼしたもうではないか。なるほど、そういうことはある。しかし、神はそれを喜びたまわない。命の神は、相応しくない者から命を取り上げたもうのであるが、本当はそれを喜んでおられるのではなく、全ての造られたものに命が満ちることを欲しておられるのである。まして、イスラエルの家は神との契約を結んだのであるから、命の神と契約したものが、死のなかに滅びて行くことがあってはならない。「イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか」。あなたがたは私の民として選ばれ、私と契約を立てたイスラエルではないか。滅びに身を任せてはならない。
 12節から16節までさらに具体的に説かれる。義人・悪人という名称が救うのでなく、また神が一たび語りたもうた約束がそのまま有効だというのでなく、義人が義であることが重要である。だから、義人と呼ばれた人でも躓けば滅びるし、悪人と言われた人でも悔い改めれば罪の赦しに与って救われる。悔い改めは死に至るまで繰り返されなければならない。その悔い改めは心で感じるだけのものではない。口で「悔い改めます」と言えば良いというものでもない。15節に「質物を返し、奪った物を戻し、命の定めに歩み、悪を行なわないなら」と言われる。損なわれた正義を回復しなければならない。
 「それは公平でない」と人は言う。18章にもあった言葉である。主なる神が不公平であると人が思うのは二つの理由である。一つは悪人でも生きる。義人でも滅びる。これは不公平だというのである。彼らは信仰の義を信じないから躓く。もう一つは、「必ず生きる」と言われたのに滅び、「必ず死ぬ」と言われたのに生かされる場合があることについての異議申し立てである。言葉を翻すことは不正ではないのか。しかし、悔い改めた罪人が、悔い改めたにも拘わらず滅びるならば、神は不正と見たもう。神の義は信仰に顕れるのである。


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