◆今週の説教2000.07.30.◆

エゼキエル書講解説教 第32回――31章によって――

エジプトに対する裁きの預言がまだ続いていて、次の32章でようやく終わる。このようにエジプトの没落についての預言が長々と語られる必要があったのは、バビロンに捕らえ移された人々の中にも、エジプトによるバビロンの牽制とユダの援助と解放の期待が根強くあったからである。エジプトへの依頼心を除き去るためには、何度も繰り返し、幾つもの論点から論じなければならない。エジプトへの依頼心とはこの世の力を信頼し、神の力と神に依り頼む信仰の力を認めないこと、力と力を戦わせて均衡を取る術策である。
 31章の預言が与えられたのは第11年3月1日であった。この時、エルサレムの包囲は終わりに近付いているが、まだ陥落していない。城壁の一角が破られたのは、エレミヤ書39章2節の記録によれば、この1ヶ月後の4月9日である。包囲攻撃の初期、エジプトが軍を少し動かして、そのためにバビロン軍が包囲を解いたことが一度あった。エジプトには同盟国ユダを本気で助けようという気がなく、ジェスチュアをしただけなのだが、ユダの人またバビロンに来ている囚われ人は、エジプトが動いてくれればユダは助かるとの信念を固めた。彼らはエルサレムの滅亡寸前までエジプトの来援をあてにした。したがって、エゼキエルが31章の預言を語った時、人々はまだエジプトの助けを期待していた。彼らは空しいものをあてにした。信ずる者と常にともにいると約束される全く確かな神の助けに信頼することはなかった。
 エジプトの空しい助けをあてにしたのは無知に違いないが、これを所謂無知な人々の傾向と考えては正しくない。エジプトの助けが必ずあると主張するのは、軍事の専門家、外交の専門家たちであった。彼らは、ほかの人は実情を知らないが自分は良く知っている、と周囲の人を説得する。ほかの人たちは、この人は専門家なのだから信頼出来ると思って、自分の意見もないままに賛成した。政府高官の中で親エジプト政策に反対して野に下ったのはゲダリヤという人一人だけのようである。ゲダリヤはシッカリした信仰を持っていた。また、シッカリした自分の考えを持っていた。こういう人が政府の中にいなかったから、政府は力を持っているかのように見栄を切っていたが、甚だ脆かった。
 さて、3月1日、これは新月の祭りの日であるから、捕囚たちの間で集会が守られたのではないかと思われる。預言者エゼキエル自身がその礼拝の中で新しい啓示に接したのかも知れないし、人々が礼拝に集まるから、彼らに聞かせるように預言が示されたのであろう。ただし、これまでの記録でも知られているように、神の言葉が臨んだのはついたちだけではない。神は定例の記者会見をする大統領のように、スケジュールに従って御言葉を語りたもうのではない。
 エゼキエル書33章21節によると、エルサレムの陥落の知らせがバビロンにいる預言者に届いたのは、12年の10月5日である。したがって、32章1節にある第12年12月1日の日付の預言はエルサレムの滅亡を知ってからのものであるが、31章はその前になされた預言である。
 「人の子よ、エジプトの王パロとその民衆に言え」。「民衆」と訳されている言葉は大勢の人を表わすから、これは「軍勢」のことではないかと見る人もいる。どちらに取っても余り違いはない。
 神はバビロンにいる囚われ人の中で、エゼキエルに、人々の依り頼んでいるエジプトに関する預言を語らせたもうた。エゼキエルの周りの囚われ人は、エジプトの裁きの預言を聞いて、これがこの日に語られたことを覚えて証しする。すなわち、エジプトは非常に強そうに見え、攻められてもビクともしないかのように見られているが、この預言の成就する日が来る。預言者の語ったことは空しくなかったということが証明される。
 神はイスラエルの救いと関係ないエジプトの国のことまで預言させたもうたのか、と不思議に思う人がいるかも知れない。しかし、世界の支配者である神は、我々の理解する以上の広い範囲の物事と関わりたもうのである。世界のうちに神の関知したまわないことはない。特にこの章では三つの点を捉えておきたい。
 第一は、神が救いの歴史のみでなく、世界の歴史を動かしておられることである。当時、多くの人の目には、エジプトは古い文明と、富と、軍備とによって卓越し、信頼に価する国、エジプト王パロは歴史の主導権を執るに相応しい権威、そしてバビロン王ネブカデレザルは成り上がりの、戦争に強いだけの田舎者、というふうに見られていたようである。しかし、その時代、エレミヤも、エゼキエルも、ネブカデレザルが当面の歴史の主導権を執るのは神の御旨であって、それに逆らってはいけないと教えていた。このことを今日の世界の政治状況に当て嵌めてどう判断すべきかは、なかなか難しい問題であるが、我々は世の人の多数意見に倣わず、所謂専門家、識者の見解に信頼し過ぎず、神が我々一人一人に与えたもう判断を大切にすべきである。
 もう一つは、世界の歴史がどう動いて行こうと関わりなく、神の民は神のみに信頼と服従を捧げるべきであり、強そうに見える国があったとしても、頼りとしてはならない。
 もう一つ、今日の聖書の学びと直接には関係ないが、多くの人々の心にしみついていた偶像礼拝との戦いを預言者たちがしていたことを同時に思い起こして置きたい。偶像に頭を下げることと、エジプトの武力に頼ることは結び付いているのである。偶像礼拝は宗教のこと、軍事同盟とか集団安全保障は世俗のこと、というふうに領域を区別するのは間違っている。預言者がこのように区分線を引いて、宗教のことだけを守備範囲にしていたなら、彼らは余り迫害を受けることもなかったであろう。しかし、彼らは神の領域を分断することは出来なかった。
 さて、この章では初め、1節から9節まで、美しく聳え立つ大木の見事さを褒める歌が韻文形式で歌われ、10節から一転して散文調でこの大木に対する裁きの申し渡しとなる。
 すなわち、この大木は単に地に打ち倒されるのでなく、地の底の陰府に落ちて行くことが予告される。その裁きを神の意志に従って遂行するのは、「もろもろの国民の力ある者」と11節に言われ、「もろもろの国民の最も恐れている異邦人」と12節で言われる者、すなわち、バビロン王ネブカデレザルである。倒される側は美しいものとして描かれ、倒す側は単に恐ろしい荒々しいものとして描かれるが、人々がエジプトに何となく好意を寄せ、バビロンには嫌悪感を持つことが反映されていると見て良いだろう。
 先ず、エジプトは巨大な樹木になぞらえられる。我々の社会でも、樹齢何百年というような特別巨大な樹木があると、人々はこれを神聖視して、注連縄を張ったり、拝んだり、願を掛けたりしている。こういう樹木崇拝は昔、人類一般に見られた。旧約聖書に「高き丘、青木のもと」で行なわれる偶像礼拝に対する断罪の言葉がしばしば見られる。
 これは丈高い樹木が神の降臨の場所と信じられていたことを示している。この章に出て来る大木も、単なる大きい木ではなく、宗教的な木である。「レバノンの香柏のように」という言葉が2節にあるが、レバノンに行けば幾らでも見られる大木という意味ではない。その大きさに関してはレバノンの香柏を思わせるものがあるが、レバノンにも頂きが雲の中に突き出るような大木はない。さらに、この木は大きいだけでなく、見るからに尊厳であり、神聖視され、生命の根源として信頼を寄せられている。
 「この木の頂きは雲の中にある」と3節で述べられているが、地から生えて天に達する。
 つまり神の位置に近付いているのである。神になぞらえられる者に成ろうとしている。
 そして、10節には「丈が高くなり、その頂きを雲の中に置き、その心が高ぶり驕る」と言われているように、頂きが雲の中にあることと驕り高ぶることとは結び付くのである。28章の9節にも、エジプトが「自分は神である」と誇って言うところが描かれていたが、頂きが雲の中にある大木は、自分を神と同じ高さになったと思っている。
 しかし、神はご自身と並び立つ者があることを許したまわないから、高いものは必ず倒される。今回学ぶ預言が今日の世界の中で我々の判断をどう導くかは、難しい問題だと言ったが、この世の勢力が神に帰しまつるべき信頼を減じるようなことがあれば、それを直ちに拒否しなければならないのは言うまでもない。例えば、大国と結んで集団安全保障によって自国の平和を維持しようという考えは合理的と見られるかも知れないが、そのような考えによって神に対する信頼を全く、あるいは部分的になくすのである。少なくともキリストの民の間で、その考えが支配的になってはならない。主イエス・キリストは憎むことを禁じ、愛を教え、「己が十字架を負いて我に従え」と命じておられる。
 さて、この大木はこのように立派になったが、どうしてこうなったのか。3節に「見よ、私はあなたをレバノンの香柏のようにする」と言われた。9節には「私はその枝を多くして美しくする」と言われる。この大木が立派になったのは、自分でなったのではなく、神がこれを植えて、神が大きく育てたもうたからである。神の前にエジプトの栄光は何もない。ただし、ここで神によって大きく美しくして頂いた恵みを忘れて思い上がったことを罪として数えてはいない。神を知らないエジプトにそういう心得を求めても意味がない。エジプトがこんなに栄えたのは天の神の恵みである、と教えれば、エジプト人は分かったかも知れないが、神を正確に知っていない者に神の恵みを語っても、ただのお伽話になってしまうだけである。イスラエルの場合は神を知らされ、神と契約を結んでいるから、神の恵みを忘れることは明確な契約違反の罪であり、それを指摘することは重要である。
 しきりに語られるのはこの木の「美しさ」である。大きい物はしばしば見る人に畏怖を与え、敬遠させる。大樹の不気味な枝ぶりが人々に恐怖感を催させることは稀でない。
 そういう時には、人々はこの木からの禍いが周囲に及ばないように、馴れ馴れしく近付くことは避け、禍いの力をここにだけ封じ込め、また、この木に宿る神を宥めようと犠牲を捧げたりする。ところが、エジプトを表わすこの木は、大きいだけでなく、大きさが崇高な美しさでもある。姿は美しく、枝ぶりが美しい。だから慕われ、鳥はこの枝に巣を作り、獣もこの木の下に住み、人間もこの木の陰に住む。
 美しさが強調されることは理解出来る。美しいとはここで悪い意味で言っているのではない。たしかに、美しい物が人を堕落へと誘う場合が多い。人間の最初の罪について、創世記3章6節に「その木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」と書かれているように、罪への誘いの要素の一つは「美しさ」であった。さらに、美しい物の多くはハカナイのである。人を誘惑する美貌もハカナイし、ソロモンの栄華にまさると言われた野の花の美しさもハカナイ。美しさは目を欺くのである。だから、美しいものは信用ならない。避けなければならないと見るのが人生の知恵である。しかし、もう一つ忘れてならないのは、崇高美と呼ばれる美しさがあることである。聖なるものは美しい。永遠なるものは美しい。神の栄光は美しい。神のなしたもうことは全て美しい。救いは美しく、救いの道を歩む姿勢は美しい。「美しい」という表現では十分言い切れないものがあることを我々は知っているが、ほかに適切な言い方を知らないこともあって、恵みについてはこの言葉を用いるほかない。その美しさの見本がエデンの園であろう。人は失われたエデンの美しさに憧れる。
 「神の園の香柏もこれと競うことは出来ない」という言葉が8節にある。「神の園」とはエデンの園のことである。エジプト人がエデンの園の物語りを知っているのか、と議論することはここでは無用である。8節には「神の園にあるエデンの木はみなこれを羨んだ」とあるが、エジプトはエデンの園にある最大の木よりもっと大きく、かつ気品のある木のようだと言わんとしたことが分かる。
 エデンの最大の木とは、園の中央にある「命の木」であろう。エデンの園の中央には命の木と、善悪を知る木がある。善悪を知る木の実を人間は食べた。そして知恵はついたが、知恵がつくことは不幸でしかなかった。命の木はまだ手つかずである。
 人間が罪を犯して以来、命の木に近付けなくされ、エデンの入り口にはケルビムと回る炎の剣が置かれた、と創世記3章24節に書かれている。幸福の国を失ったというのでなく、命の木の実によって永遠に生きることが出来なくされたのである。なお、今日の主題と関係ないが、この命の木に近付く日のことをヨハネ黙示録22章の初めが語っているから心に留めて置こう。「御使いはまた、水晶のように輝いている命の川を私に見せてくれた。この川は神と小羊の御座から出て。都の大通りの中央を流れている。川の両側には命の木があって、12種の実を結び、その実は毎月実り、その木の葉は諸国民を癒す」。
 その「命の木」が大木であるとはどこにも書かれていないが、その木の意義を強調するとき、これを大きい木として描くことは、ごく自然であろう。7節に「その根を多くの水に下ろしていた」と言われるのは、創世記2章10節に「一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」とあるのと関係がある。エデンの園は全ての潤いの基である。だから木は大きくなる。世界を潤すもろもろの川はエデンに源を発するとされる。園の中央が潤いの源泉であるとこの歌では捉えられているらしい。命の木と命の水が結び付く。ただし、エジプトを象徴する木は本当の命の木ではないから没落する。
 6節に「その枝葉に空の全ての鳥が巣を作り、その枝の下に野の全ての獣は子を生み、その陰にもろもろの国民は住む」と言われるが、これは「命の木」として慕われることを象徴したものである。つまり、エジプトをエデンの中央にある木、命の木になぞらえたのである。人間だけでなく、獣も鳥もここに身を寄せ、生命の根源に与って生きようとするのである。ここでなら保護されるという安心感がある。ただし、その安心は欺きであった。
 単に巨大であるとか、強力であるとかいうだけでなく、生命の根源とも言うべきもの、それは宗教的包容力を持つもの、聖なるもの、信頼すべきものと信じられていることを暗示する。エジプトはそのようなものと見られた。神の民イスラエルでさえも、神に縋ることを忘れてエジプトとの軍事同盟によって安全を保つことを考えるほど、エジプトを頼りとしているのである。
 そのエジプトが命の根源でないことが明らかにされ、神の裁きを受けるのであるが、それはまたこれに身を寄せるものらにとって、恥じ慌てるほかない裁きである。特に、ハッキリと、預言者を通して「エジプトに頼るな」と言われているのに、それを聞かずにエジプトに期待したユダとエルサレム、またバビロンの囚われ人の受ける裁きは大きい。彼らも陰府に下る。
 ただし、これに頼ったものが全てこの大木と共に倒されるのではなく、13節に「その倒れた所に、空のもろもろの鳥は住み、その枝の上に、野のもろもろの獣はいる」と書かれ、その前に12節の終わりには「地の全ての民は、その陰を離れてこれを捨てる」と書かれるように、これを頼りとして身を寄せていた諸国民、異邦人は離れ去って行くのである。
 最後の15節以下には、エジプトの滅びに全世界が喪に服する有り様が描かれている。どうしてそんなに悲しむのか。それはエジプトへの期待が大きかっただけに失意も大きいことを表現するためである。
 木ということが出たから、本当に頼りになる木に目を向けよう。それはイエス・キリストが上げられたもうた十字架である。これは天に達し、人を欺くことがない。そこにおいて命が得られる。
 


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