◆今週の説教2000.04.30.◆

エゼキエル書講解説教 第29回――28章によって――

エゼキエル書28章はツロとシドンについての預言である。シドンはツロと同じフェニキア民族で、同じ文化を持つ別の都市国家であるが、この時代にはツロの支配のもとに服していた。ここでは、ツロもシドンも一括めに扱って良いであろう。
ツロに対する裁きの言葉、その滅亡の預言が26章の初めから続いている。近隣の国々に対する預言が次々に語られる中で、ツロに対する預言は特別長い。ということは、ユダ、イスラエルとの関係が取り分け深かったことの反映である。3節のダニエルとか、13節のエデンとか、14、16節のケルブとか、旧約聖書に出てくる名がツロについても語られるが、ツロの人にも分かる事項であったことを意味している。ツロとイスラエルの間には宗教的にも交流があったのである。そこで、ツロに対する裁きの言葉は、謂わば鏡のように、ユダの民の反省を促す。我々もよそ事と思わずに学ばなければならない。
ユダの民と言ったが、エゼキエルが今、11年の1月1日に語り始めたのは、エルサレムからバビロンに連れて来られた囚われの民に向かってであった。この民がエルサレムの栄光の回復を安易に夢見ているので、神は預言者を通じて警告したもう。エルサレムは決して名誉回復をしない。今度は徹底的に破壊される。すなわち、それだけ神の怒りは大きいのである。しかし、エルサレムに対する神の裁きは、エルサレムの罪に対する報いというだけで終わらない。その裁きは近隣諸国をも巻き込む。近隣諸国も神に背いているからである。この結末は歴史の示す通りであって、エルサレムを滅ぼしたバビロンのネブカデレザルはその近隣の国々をも滅ぼし、ツロもシドンも滅びた。
しかも、そのことだけが予告されたのではない。すでに繰り返し聞いたように「そして彼らは私が主であることを知る」という御言葉をこの章の終わりでも聞かなければならない。裁きを通じて、神はご自身を認めない者にご自身を示したもうのである。だから我々もこのことをなしたもうのが神であるとハッキリ認めなければならない。さらに、主イエスが来られた時、ツロの地方にも行かれたことを思い起こさねばならない。
さて、今日28章から学ぶ中心的な事柄は、最初の所ですでに明確に打ち出される。「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『私は神である、神々の座に座って、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない」。神のみが神であって、人は神ではない。人が神であろうとする時、神は反撃され、人は没落する。
「ツロの君に言え」と言われるが、ツロの君主が己れを神として人民に拝ませたということではない。ツロは君主制を取ったが、絶対君主制ではなかった。ツロは貿易で栄えた文化国家であって、そういう国に絶対君主制は馴染まない。君主はいたけれども、市民の力の代表、市民の統合の象徴というような性格のものであった。君主も賢いのである。
だから、「ツロの君に言え」というのは、君主に対する警告だけではなく、ツロの市民全てに対する裁きである。市民も自分のことを神のように賢いと思っているのである。その驕り高ぶりに対する警告を、代表者である王に差し向けたのである。彼らの驕り高ぶりの拠り所は、他民族に抜きん出た知恵である。「私は神である」と言うが、天地万物を支配すると放言したのではない。嵐が吹けば逆らえないことを彼らは知っている。4節5節に言われるように、「あなたは知恵と悟りとによって富を得、金銀を倉に蓄えた。あなたは大いなる貿易の知恵によってあなたの富を増し、その富によってあなたの心は高ぶった」。
確かに、ツロの政策は古代の国々の中でずば抜けて賢かった。すなわち、殆ど全ての国は武力を増強し、多くの武器を作り、軍馬を増やし、その武力を最も効率的に運用するにはどうすべきかだけを考え、征服の版図を拡げて行った。彼らの富は略奪物であり、彼らの栄光は血にまみれていた。武力で圧倒されるから、諸国民は従わざるを得なかったが、決して心服していたわけではない。諸国民の恨みが積もって行く。やがて、その王朝は覆り、他の権力者が同じように力の支配を行なう。ツロはそれを愚かなことと見たのである。
「私は神である。神々の座に座って海の中にいる」。――古代の広い地域で語られていたのは、神々の集う北の山の神話である。多くの支配者はその神話に則って自分の王座のイメージ作りをした。ツロは違う。ツロの王座は山の上でなく海の上だ。他の国の人々の思いつかないような発想でツロは世界貿易によって栄えた。
「あなたは大いなる貿易の知恵によってあなたの富を増した」と言うが、ツロは知恵を使って技術を磨き、遠洋航海が出来、多くの荷物を運ぶことの出来る貿易船を建造した。これは当時ツロにしか造れない大型船であった。この船で乗り出して、行った先々で交易をすると、富はずんずん膨らむのである。血を流すこともないし、諸国民の恨みを買うこともない。それでいて富は増えに増える。武力で押さえ付けなくても、広い地域から収益をあげることが出来る。この知恵に自ら満足するのはもっともである。「見よ、あなたはダニエルよりも賢く……」というが、彼ら自身がダニエルよりも賢いつもりでいることへの皮肉である。ツロがどうしてダニエルを知っているのか。ダニエルという人は聖書のダニエル書の初めに言うところでは、エホヤキム王と共にバビロンに連れて来られた少年で、エゼキエルよりも若い。それが賢さでツロまで名が知られているのはおかしいと言われるであろうが、ツロにも古くからダニエル伝説があったらしい。14章にもノア、ダニエル、ヨブという名が挙がっていた。
ところが、5節に、「その富によってあなたの心は高ぶった」と書かれるように、富による高ぶりがある。武力による高ぶりとは如何にも違うように思われるが、高ぶりという点では同じである。そして、高ぶりとは、詰まるところ、己れを神とすることである。すなわち、高ぶりは初めは人よりも上に出ようとすること、あるいは、せめて人の下に立つまいとすることであったが、人と競い立つことは、容易に神と並び立つことになってしまう。
それでは、神に対しても人に対しても、ひたすらへりくだるべきか。それでは奴隷根性ではないかと言われる。自らを奴隷化させることによって神に仕えることが出来なくなる場合はないのか。ある。だが、この問題の解決は簡単である。人との関係から始めたのでは、ややもすると人を支配することになり、控え目に屈従だけはすまいとしても、直ぐに己れを高くし、ついに神と並び立ってしまう。順序が初めに狂ったのだ。神との関係から始めよう。そうすれば、常に神の僕でありつつ人に対しては自由人であることが出来る。
武力で人を殺し、人を押さえ付けて、物資を略奪するのは明らかに悪であり、愚かであるが、そのような戦争政策を放棄しさえすれば正義に適う、と思っては単純過ぎる。ツロのように平和政策をとる平和国家でも、己れを神として神に楯突く悪の道を進んでいたのである。我々の今日住む国は、バビロンやアッスリヤのような、またかつての日本帝国のような戦争国家ではないし、皇帝を神として拝む国ではないが、だからといって健全になっていると安心してはならない。
今では、この国は他国を侵略してその国の財物を略奪したり、他の国の人々を拉致して奴隷労働をさせたりはしない。しかし、昔と比べてマシになったと言えるとしても、良くなったとは言えないし、他国の人々から愛されてもいない。何故か。驕っているからである。金があることで諸外国に対して驕っている。このことの問題性を指摘する人はいる。しかし、もっと大事なのは神に対する驕りである。これは余り指摘されていない。何故か・自らの至らなさを悟るには知恵が必要であるが、人間の知恵は容易に驕りに変質するからである。驕りに変質しないような本当の知恵、それは自分の中から搾り出すことが出来ない。神の言葉からのみこの知恵を受けることが出来、祈りによってのみこの知恵を養うのである。神に対して驕る人は人に対しても当然驕るのである。
さて、ツロの人々は「自分は神である」と言ったが、今の我々の周囲の人々は、自分を神だと言っていないではないか。かつてはこの国の君主は自分を神だと言わせたが、少なくとも今の段階では、それほど酷いところまで行ってはいないではないか。そう考える人が多いであろう。しかし、今、我々の周囲の人々は、ある意味で自分を神のようだと思っているのである。すなわち、神なしで生きられると思っている。アモス書5章4節で主は「私を求めよ、そして生きよ」と教えたもうたが、神を求めなければ生きられない。ところが、人々は生きているつもりであるから、神を求めようとしないのである。それは神がないからではなく、自分が神だと思っているからでなくて何であろうか。
聖書本文に帰るが、6節から9節に言う、「それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、見よ、私はもろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻め来させる。彼らは剣を抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しい物に向かい、あなたの輝きを消し、あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。それでもなお、あなたは『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことが出来るか。あなたは自分を傷つける者の手に掛かっては、人であって、神ではないではないか」。これはツロが諸国民の最も恐れる者で、知恵を誇る者らの軽蔑する単なる武人、ネブカデレザルによって滅ぼされることの予告である。26章7節で語られたことである。知恵ある者は知恵が足りず武力だけ強い者を軽蔑することが出来る。しかし、武力しかない乱暴者が知恵ある者を征服してその財宝を奪う時、その粗暴なやり方を批判し、「自分は神である」と言ったところで、何にもならない。知恵ある者が知恵をもって集めた財宝を、知恵なき侵略者が略奪し去って行く。
それは文化を破壊する蛮行ではないか、と言われるならば、その通りであるが、剣の前には文化は弱い。何の主張も通せない。知恵を誇って「自分は神のように知恵ある者である」と言っても通じない。彼自身が人であって神でないことを証しする結末になるほかない。己れの賢さを誇る者が愚かな乱暴者によって滅ぼされてしまうことが往々にしてある。近い将来にまた起こる気配が濃厚である。
「あなたは異邦人の手によって、割礼を受けない者の死を遂げる」。ツロにはイスラエルと同じく割礼の宗教儀式を行う風習があった。しかし、体に刻み込まれた割礼が何の意味もなくなるような惨めな死に方をするというのである。すなわち、割礼は肉体に刻まれた祝福の印である。割礼なき者にない何かの力があると信じられていた。しかし、単なる暴力を振るうだけの征服者に直面するとき割礼は何の助けにもならなかった。
それでも、割礼を受けた者は、この地上の生涯で受けられなかった祝福を、来たるべき世において受けることが出来るという約束があるのではないか。確かに、信仰の民にはそのような意味の約束があり、その約束の印が割礼である。しかし、己れの知恵を誇って、自分こそ神だと思う者には、そのような約束はない。その死は「割礼なき者の死」にほかならない。神がそのように言われる。割礼があっても割礼の約束を成就したもう神がおられないなら、約束はないのであって、神がこういうことを言われるからには、それは割礼なき者の死にほかならない。
次に、11節から19節まで、ツロの王のための悲しみの歌が歌われる。2節の「ツロの君」と12節の「ツロの王」とは言葉は別であるが、同じものと見て良い。そして、ツロの君がそうであったように、ここでは王に対する裁きが語られるのではなく、ツロの人々への裁きが「悲しみの歌」に託して語られる。
「あなたは知恵に満ち、美の極みである完全な印である。あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたを覆っていた。すなわち、赤瑪瑙、黄玉、青玉、貴橄欖石、緑柱石、縞瑪瑙、サファイヤ、石榴石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。私はあなたを油注がれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見出された日までは、その行ないが完全であった」。ツロが完成された美を持ち、完成していることの証印を押されていた。その状態からの没落が語られる。
ここにも難しい言葉がある。ツロが初め「エデンの園」にいて、そこから落ちたというのであろうか。多分、ツロにはイスラエルのエデンの園の物語りに似た伝説があったのであろう。ツロのフェニキヤ人はイスラエルと言語も似ており、非常に古い時代に血族の繋がりがあって、伝説を共有していたと想像される。その後も交流があった。13節に宝石の名前が挙がるが、出エジプト記28章17節には12の祭司が胸に宝石を付ける規定がある。それは12であるが、ツロの9つの石は共通している。
「ケルブ」は複数で「ケルビム」と言われることも多いが、御使いの一種である。創世記3章24節にも、「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた」と語られている。だからアダムがエデンから追い出される前はケルブと一緒にいたことになる。
「神の聖なる山」というのは「神の園」と同じものを指すと考えられる。先に少し触れたが、古代の民族の間に広範囲に広がっていた神話に、神々の集う北の山の物語りがある。旧約聖書ではこの物語りは断片としてしか出て来ない。
「火の石」というのもよく分からない。16節にもう一度「火の石の間から追い出した」という言葉がある。エデンの園の中の何かを指すのであるが、エデンの栄光を表わすのかも知れないし、御使いかも知れない。どうしてこういう言い方になったかは分からない。
要するに理想の状態から追い出されたわけで、ツロの神話にあった楽園追放の通りのことが現実になると言う。
初めのうちはツロの行ないは正しかったが、16節「あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した」。本当に初めは正しかったのかと議論する必要はない。堕落の前と後を対照させているからである。エデンからの堕落のキッカケは商売が盛んになったことであると言う。「商売」そのものは平和的な営みである。しかし規模が大きくなると「暴虐」に変じる。その暴虐のツロにおける具体的な様子は分からないが、今日の世界の至るところで商売が暴虐になる実例を見ることが出来る。大昔、人は働いて収穫を得ると、その収穫を市に持って行き、物々交換するようになった。初めのうちは必要とする人に必要な物を供給する、生産者から消費者への直接の物品の受け渡しが行なわれるだけであった。だが、仲買人が買って小売り人に売り、小売り人が消費者に売るという仕組みになって行く。商売が拡大し、利益が拡大した。
これと平行して高ぶりが始まる。17節、「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚した」。ツロの美しさについては27章で学んだ。「主なる神はこう言われる、ツロよ、あなたは言った、『私の美は完全である』」。武力を重んじる者は美のことに心を向けないが、武力より知恵を重んじる人は、美しくあることを追求する。それは結構なことではあるが、美もまた容易に高慢のもとになる。彼らは船を美しくし、港を美しくし、家々を美しくし、調度品を美しくし、身だしなみを美しくし、美しさのために金を惜しみなく注ぎ込んだ。そしてその美を誇ったのである。
18節に「あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚した」と言うが、不正な利益で得た物を捧げ物として捧げ宗教生活を維持したということである。交易は不正なのか。必ずしもそうではない。初めのうちはツロは商品を運ぶだけであった。単純に運ぶだけで価値が増えた。ところが、知恵がついてより多く儲けようと考えるようになると、取り引きの手加減で莫大な利益を得、しかも相手方に損をしたという印象を与えなかった。賢さと美と儲けによってツロは没落して行く。それが神の園からの没落である点に留意しよう。我々も神の園から落ちるかも知れないのである。我々の周囲は賢さと美と儲けの追求の欲望が満ちている。我々の目を曇らせてはならない。コロサイ書3章1節に言う、「このように、あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にある物を求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にある物を思うべきであって、地上の物に心を引かれてはならない」。


目次へ