◆2000.03.26.◆

エゼキエル書講解説教 第28回
――27章によって――

エゼキエル書27章は技巧的に高度な詩であると批評されている。その評価に我々は詩のことは良く分からぬながら、容易に同意することが出来る。すなわち、「悲しみの歌」として、形も整っており、実に多くの項目が巧みに織り込まれている。しかし、我々はこれによって詩の技巧を学ぶのでなく、神の言葉を聞くのである。「主の言葉が私に臨んだ、『人の子よ、ツロのために悲しみの歌をのべ、海の入り口に住んで、多くの海沿いの国々の民の商人であるツロに対して言え』」。ツロに向けてこう語れと命じられた。
ツロに対する預言は26章でも述べられた。それは第11年の第1日にエゼキエルの受けた御言葉であって、ネブカデレザルによるツロの滅亡を告げた。それと今日学ぶ27章の「悲しみの歌」とがどういう関係にあるかは良く分からない。さらに、次の28章までツロの裁きについての預言が続くのであるが、これとの続き具合も分からない。すなわち、形式は全く異なるけれども、内容が食い違っていないことは読めば分かる。しかし、同じ日に続いて与えられた託宣なのか、別の機会に与えられたものがエゼキエル書を編集する時に一個所に纏められたのか、それは確かめるすべもない。そこで、「主の言葉が私に臨んだ」というその日がいつであったかを詮索することは放棄するほかない。これは神がエゼキエルに託したもうた言葉であることだけ確認しておれば十分である。すなわち、「悲しみの歌」という調子を帯びた詩であることはハッキリしているが、エゼキエルが詩人として詩を作ったことは考えないで、ここから神の言葉を聞き取るようにしたい。
先の26章の預言は、ツロの滅亡の有様を、かなりリアルに描写したものであるが、27章の預言は、ありのままの滅亡の様子を歌ったのではなく、世界一の豪華船の沈没という形で、象徴的に語られる。そしてツロの富が如何なるものであったかが詳しく述べられる。
26-27節に歌われる。「あなたの漕ぎ手らは、あなたを大海の中に進め、海の中で東風があなたの船を破った。あなたの財宝、あなたの貨物、あなたの商品、あなたの船員、あなたの舵取り、あなたの漏りを繕う者、あなたの商品を商う者、あなたの中にいる全ての軍人、あなたの中にいる全ての仲間は、皆、あなたの破滅の日に海の中に沈む」。
これは「タルシシの船」と呼ばれる当時の巨大船の沈没の描写である。タルシシ、すなわちスペイン、これは古代の地中海世界の西の果てである。そこへ貿易のために通う船とは、当時の最高の造船技術を駆使した巨大な船である。1912年のタイタニック号の沈没とやや似たものがある。
古代の人々は、人間の技術の限界を今の人よりズッと良く心得ていたから、この船が沈むことはないと豪語するようなことはなかった。現在の老人の若い頃、日本には「不沈戦艦」という空しい言葉があった。それらの船は皆沈んだ。日本だけではなく、多くの大国は不沈戦艦とか不沈空母という語彙を作り出した。だが、ツロにはそれほどの愚かな言葉はなかった。彼らは堅固な船も沈むことがあると承知していたのである。だから危険な航海を避けるだけの思慮深さを持っていた。
ずっと後の時代になるが、使徒行伝27章に、パウロがローマに送られる時の記事があるのを思い起こす。小アジアのルキアのミラで、沿岸航路の小さい船からイタリア行きのアレキサンドリヤの大型船に乗り換える。これはエジプトの小麦をローマに運ぶ船だったらしい。そこからクレテの島陰を航海し、「良き港」と呼ばれるところに入港する。
パウロはそこで、これから先の航海は危険であるから、この港で冬を過ごして、春になってから航海を続けようと提案したのだが、船長と船主とがもう少し行けると判断して出航し、積み荷の全部と船とを失う。これは航海の専門家よりも素人のパウロの方が正しかったという結果になるのであるが、航海術や造船技術が劣っていたというよりも、慎重を欠いたこと、船主の判断、すなわち資本家の利益が少しでも多いことを船の安全よりも優先させた判断に引き摺られたことを示すのであって、パウロが予知能力を持っていたと強調しても余り意味はない。
兎に角、どういう時が危険かについて、船乗りたちは経験的知識を持っており、危険な航海を避けるだけの判断力を人は持っていた。特に、商品を積み込んでいるから、それをムザムザ失うようなことにならないように気をつけていた。それでも、ツロの船は沈んだのである。「あなたの漕ぎ手らはあなたを大海の中に進め、海の中で東風があなたの船を破った」。漕ぎ手らが漕ぎ出さなかったなら、港に留まっていたならば、海の中で嵐に遭うことはなく、沈むことはなかったのである。出港命令を出すことがなければ、沈まなかったのである。
人間の手で船を滅びの場所まで運んだ上で、嵐に遭って沈んだのである。勿論、神の御心によって全てのことは起こったのであるが、船の運行の責任者は、漕ぎ出すべきでない時に漕ぎ出す判断を下した。これは神の裁きであるが、神が何を裁きたもうたかを見なければならない。
26章の預言では、裁きの理由として、ツロがエルサレムの滅びを見て、「ああ、好い気味だ」と言って笑ったことが挙げられる。かつて友邦であった国の滅びの痛みが分からず、人の痛みを笑いものにする者は、滅びなければならない。
28章のツロに対する裁きの言葉では、ツロが「私は神である」と言ったことが神の怒りを引き起こした理由であるとされる。神はご自身と並び立つ者を許したまわない。己れを神とする者は最も厳しい裁きによって滅び失せるのである。この28章の挙げる理由がツロの裁きの決定的理由になることは言うまでもない。その決定的理由に向けて、一段一段と論告が高まって行くのであるが、二段目に当たる27章では、ツロの罪状として「私の美は完全である」と言ったことが挙げられている。我々が今日学ばなければならないのは特にこの点である。
ここで問題にしなければならないのは二点である。一つはツロの思い上がりである。自らの美が完璧であると思い上がった。もう一つ、ツロは美を追い求めたのである。この第二点に我々の関心が向けられる。ツロの美について我々は殆ど知らない。それは、ツロの美が滅んで、往時の美しさを偲ばせてくれる遺跡すら見ることが出来なくなったからである。それでも、ツロが美を誇った事情については、考えて見れば理解出来る。ツロは権力や武力によって立つ国ではなかった。他の国々は武力を重んじ、武力を誇り、それを用いて隣国を侵略し、次第に領土を拡大する政策を採った。ツロはかつてはシドンと覇を争って戦争を構えたことはあったが、政策の転換をして、絶対平和主義とは言わなかったけれども、武力による戦争は考えなくなったようである。ツロの支配者は貿易立国を国是と定め、地中海世界において肩を並べる者のない富を築き上げた。賢明な政策であると言われる。確かに、侵略し、殺戮と略奪を重ねて、ついには自分自身も剣に滅ばされる軍事国家より、美を求める国家の方が数等優れている。しかし、軍事侵略をしさえしなければ良い国として諸国民から愛され、神から祝福されると考えるのは単純すぎる。
ツロは他国を襲撃したり、他国民を殺戮したりすることはなかった。他国民の富を奪い取ることもしなかった。物を運んで行き、その地の産物と物々交換をして相手からも喜ばれていた。それを悪であると言うべきではない。
このようにして合法的に富を増やしたツロは、次に、得た富を文化・芸術に注ぎ込む。それも悪であると決めつけるべきでないことを我々は心得ている。むしろ、我々の中には、日本が明治以後、他国を侵略する軍事国家であったことを恥じ、平和国家の道を選んだならどんなに好かったであろうか、という思いがある。しかし、その考えに、今日、修正を加えなければならない。
もう60年間、日本は他国に軍隊を差し向けて、軍事行動を起こすことなしにやって来た。謂わば、昔ツロがやったような平和政策を採って来た。それでは、神から祝福され、諸国民から愛されたか。そうではなかった。何故か。
その理由を知るために、エゼキエル書27章から学ぶことは重要である。神は言われた、「ツロよ、あなたは言った、『私の美は完全である』と」。――ツロは美の追求ゆえに神の裁きを受けねばならなかったのである。
日本が最近の60年間、美を求め、己れを美しくしようと芸術的努力をして来たかというと、そうでないことは確かである。しかし、「美」とは呼べないとしても、本人が美のつもりで、目立つ装いをして満悦している事例は沢山ある。特に若者たちの風俗にそれが顕著である。大人たちはそれを見て笑っているが、大人たちが体面を繕うことも、国の政府が何か格好の良い国際貢献をしたつもりになっているのも、若者たちの風俗に劣らぬほど滑稽な、履き違えられた「美」の追求なのである。
「私の美は完全である」。この思い上がりとソックリ同じとは言えないが、ツロの驕りと似たようなものが、平和的・文化的国家たらんとする日本にあるのではないか。それが神の目によって厳しく見られていることに気付かないのではないか。確かに軍事国家になるよりも、美を求める国家になる方がマシである。日本を再び昔のような侵略国家に戻そうとする企てには反対しなければならない。しかし、武器を持たなければ良い、美を求めておれば良いと安易に考えてはならない。今日の日本に始まっている神の裁きは、堕落した文化主義に対する神の怒りではないだろうか。
美が全ていけない、とは言えない。むしろ、我々も美を追求すべきであろう。聖書の教えるように、「神のなしたもう業は全て時に適って美しい」ということを信仰者たちは知っている。その美を追い求めねばならない。また、神の栄光の輝きこそ、最も美しい。そういう意味で我々は美を目標に励まなければならない。特に神礼拝が美しくなければならないのであって、自らの最も美しいものを神に捧げるべきであるという思いが我々信仰者には共通にある。だから、内面も外面も最も美しく整えて神の前に立ち、最も美しい言葉を神に捧げる。そうでないと、神に仕える熱心が怪しげな信念に変わってしまう。
しかし、美を追い求めるとき、その追求は容易に目的から外れ、自己満足や自己の利益追求になる。義を追い求める時も同じになるのではないかと言われるであろうが、義の場合はキチンとした規準がある。すなわち、神の律法である。ところが、美にはキチンとした規準がない。美しいと思うものが美しいのだと人は言う。その定義はいかがわしいと感じる人は多いが、正しい定義をして見よと言われても、我々には出来ない。とにかく、規準は与えられておらず、銘々が自分の美感覚を磨き上げて行くほかない。だが、この道には至るところに落とし穴がある。美の追求が独りよがりになってしまうのである。規準がないから、これで本当に良いのか、と突き戻されて考え直すキッカケがない。
難しい問題であるから、余り深く突っ込むことは出来ないのであるが、義が律法によって規定され、律法によって己れの行ないの義を検討しなければならないこととの関連を考えつつ、美について考えるようにしたい。つまり、直接には規準を当てはめることが出来ないのであるが、直接に御言葉を差し向けられて目覚めた良心の目覚めが、間接的に美の目覚めとなるようにすれば良いのである。簡単に言うならば、美を追い求めるのでなく、神の国と神の義を追い求めなければならない。
さて、「ツロは海の入り口に住む」と言われるが、そこが入り口となって、海沿いの全ての地方との交通が開けているという意味である。「多くの海沿いの国々の民の商人であるツロ」と言われる。先に述べたように、地中海全域に亙って大口の貿易を一手に握っていたのがツロである。したがって、この商人は多くの利益を得ていた。その利益を美のため、広く言って文化のために注ぎ込んだのである。今日、力ある者が得意になって言う文化貢献、「メセナ」である。それで、ツロの島全体が美しくなった。ここでは、ツロを船になぞらえて、その美しさを述べる。
「あなたの境は海の中にあり……」。これは、ツロは小さい島であるが、そこに限られているのでなく、海の拡がる限りがツロの国境になるという意味であろう。「あなたの建設者はあなたの美を完全にした」というのは、島の上に都市を建設した者は、と取っても良いが、船の建造者を指したと見た方が続き具合が自然なように思う。造船技術の粋を尽くして美しい船を作ったのである。
先ず、船板、これは船板として最上の材料であるセニルの樅の木の板である。セニルというのはヘルモン山の一部である。帆柱にはレバノンの香柏をあてる。レバノンの香柏は余りにも有名な大木であるから説明を省略する。櫂はバシャンの樫の木で作る。バシャンの樫の木も有名である。バシャンはガリラヤ湖の東の地方である。船の甲板はクプロの松の木の板である。帆はエジプトの麻である。帆柱に掲げる旗はエリシャから来た青紫の布である。エリシャというのはクプロの町である。このように最適の材料を広い地域から集めるのである。
次に、航海の要員を広い区域から集める。先ず、「漕ぎ手」はシドンとアルワデである。どちらもツロと同族のフェニキア人である。漕ぎ手といっても漕いでばかりいるのではなく、船を前進させるのは風の力である。しかし、船の全ての動きを風に頼ることは困難であるので、港の出入りなどには人力を用いて漕ぐのである。
「舵取り」は熟練なゼメル人である。このゼメル人というのが分からない。いろいろな訳しかたがある。これはツロの本国人であろう。ゲバルの老人は漏れを繕う。ゲバルというのはツロの近くの町のようである。大型の船では板の組み合わせが緩んで水漏れが起こることがよくある。その水漏れを早い段階で、松脂とかアスファルトで処置しておく専門家がいたわけである。船員、船のスタッフは港につくごとに商品を交易する。10節11節には傭兵として雇われて来る他国人が記されている。ペルシャ人、ルデびと、プテ人、アルワデ人、ヘレクびと、ガマデ人。これらは船に乗り込んでいるのではなく、ツロの要塞を守る軍隊であると思われるが、27節に「あなたの中にいる全ての軍人はあなたの破滅の日に海の中に沈む」とあるので、船の沈む時、船の護衛に乗り込んでいた軍人も沈むということではないかとも考えられる。
軍人の出身地は多様である。ペルシャは遥か東であるが、ルデ、プテ、アルワデはアフリカの北岸である。ガマデはシリアの北方らしい。詳しくは分からないのであるが、彼らの出身地は非常に広く、その範囲に彼らの貿易活動が及んでいたと考えられる。これらの軍人たちはツロの国防のために雇われたのであるが、10節には「彼らはあなたのうちに盾と兜を掛け、あなたの輝きを添えた」と言い、11節には「彼らはあなたの周囲の城壁にその盾を掛けて、あなたの美観を全うした」と言う。すなわち、ツロにおいては軍隊と武器さえも美しさを増すために設置されていた。
12節以下はツロの交易の相手国と交易の品々の目録である。タルシシは先にも触れたようにスペインである。ヤワンというのはイオニア、イタリーの南部である。トバル、メセク、ペテ・トガルマは小アジアである。ローヅはエーゲ海である。エドム、ユダ、イスラエル、ダマスコ、デダン、アラビヤ、ケダル、シバ、ラアマ、ハラン、カンネ、エデン、アッスリヤ、キルマデ。これらの地方の一つ一つの説明は省略する。とにかく、交易の範囲は非常に広い。品目も多種多様である。この記述はよく調べた正確な記録である。
広い範囲と取り引きしたけれども、それらの国々を支配したり、暴力的にあしらったり、暴利を貪ったり、搾取したわけではない。互いに納得する割合で物々交換したのである。平和的で文化的である。しかし、そのツロの上に神の裁きが下ったのである。このツロの裁きが平和国家を宣伝文句にしている国の滅びを暗示するという解釈は、エゼキエルにとって思いも寄らなかったものであろう。しかし、我々がこの国にあってエゼキエル書27章を読む時、敢えて読み込みをしているわけではないが、日本の滅びの影を読み取らないではおられない。神は剣によって立つものを倒したもうだけでなく、平和の業をも裁きたもう。今日の裁きはそれではないか。
それ故、先にも聞いたように、「先ず、神の国と神の義を求めよ」との主イエスの御言葉に立ち返らなければならない。御言葉に帰らないで、文化に信頼していては破滅するのである。


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