◆2000.02.27.◆

エゼキエル書講解説教 第27回
――26章によって――

26章から28章まではツロに対する裁きの預言である。ツロはユダの地続きではなく、イスラエルの北西の地中海岸にあるフェニキヤ人の都市国家で、王が支配していた。フェニキヤ人はセム族に属し、イスラエルとは民族的にも言語的にも近い関係にある。この都市は、狭い水道によって陸地と隔てられた小島に建設された港町であり、島全体が要塞のようになっていた。現在はこの水道は埋まって陸続きになっている。昔は陸地と離れた海上にあるために攻めにくく、かつてアッスリヤがこれを支配しようとして攻撃したけれども、ついに攻め落とすことが出来なかった。後で述べるが、バビロン王ネブカデレザルも非常に長い期間に亘って攻撃して、やっと陥落させた。それほど防備の固い都市であったが、ツロはかつて同じフェニキヤの都市であるシドンと戦争したことはあるが、武力を用いる領土拡張は殆ど行なわなくなり、平和な貿易立国を国是とし、地中海第一の貿易港として栄え、富を蓄積し、文化を発展させた。
先の25章で、アンモン、モアブ、エドム、ペリシテという四つの隣国がユダの滅亡を喜んだことに対する神の裁きが示されたのと同様、ツロにも神の裁きが下る。侵略戦争でなく、貿易を営むから良い、とは無造作には言えない。富の蓄積は堕落を生むのである。いや、もともと人間は堕落しているからである。富に対する神の裁きがある。神は世界の支配者であられるから、ご自身の選びの民ばかりでなく、その他の全ての民を、その仕業に応じて裁きたもう。預言者の主たる務めは、神の民に、民としての使命を行なわせ、その逸脱を叱責することであるが、神の民以外の民に関しても、預言することはある。
この預言は、エゼキエルがエホヤキン王その他の人々と共にバビロンに捕え移されてから数えて「第11年の第1日」に受けたものであった。この前の25章には、預言の日付はなかったが、預言が与えられたのが何年何月何日であるかを記録するのがエゼキエル書では通例であり、このことが彼の預言の特色であるのを我々は知っている。
ところで、「第11年の第1日」というと、エルサレムはまだ陥落していない。エゼキエル書24章の1節によると、第9年10月10日に「人の子よ、あなたはこの日、すなわち今日の日の名を書き記せ。バビロンの王は、この日エルサレムを包囲した」との託宣がエゼキエルに与えられた。その日から1年と2ヶ月経っているが、エルサレムはまだ陥落していない。エゼキエルがエルサレムの陥落の通知を聞いたのは、33章21節に、「私たちが捕らえ移された後、すなわち第12年の10月5日に、エルサレムから逃れて来た者が、私のもとに来て言った、『町は打ち破られた』と」。それは26章の預言のあった日から1年9ヶ月余り後の第12年の10月5日であった。
とにかく、「11年の第1日」すなわち元日には、エルサレムが包囲攻撃を受けていることは知っていたが、陥落については知っていないし、その事実はまだない。陥落までなお3ヶ月ある。
エルサレムから知らせがバビロンに齎らされるのに通常は数箇月かかると考えられる。だから、11年4月9日にエルサレムが陥落し、その知らせがバビロンに届いたのが12年の10月だとは、余りにも時間の掛かり過ぎで、どこか数字が間違っているのではないかと思われるが、よく分からない。それはそれとして、エルサレムが陥落していなかったことは確かであるから、この26章の預言は未だ滅亡していないエルサレムが、すでに滅亡したものとして、陥落の後のエルサレムに対するツロの態度への裁きを語ったものである。しかし、あるいは、エルサレムがまだ陥落していないのに、ツロがその陥落を見越して嘲笑っており、そのことへの裁きが予告されたと見ることも出来る。どちらでも良い。
2節に言われるが、「人の子よ、ツロはエルサレムについて言った、『ああ、それは良い気味である。もろもろの民の門は破れて、私に開かれた。私は豊かになり、彼は破れ果てた』」と。
我々はこれを第一に、エルサレム、またエルサレムからバビロンに捕らえ移された民が耳を傾くべき言葉であると把握しておきたい。すなわち、ツロの裁きをよそ事として聞くのでなく、エルサレムが諸国民の嘲りに曝されている点を先ず見るべきである。エルサレムは近隣の国々に対して誇り高き町であった。エゼキエルと共にバビロンに捕らえ移された人々に見られるように、彼らは囚われ人になってもまだ誇りを失わない。エルサレムが壊滅し、国はなくなり、囚われの身となり、彼らの誇りの拠り所であった壮麗な神殿がなくなっても、彼らはなお自負心を持っている。アンモン、モアブ、エドム、ペリシテは被征服者としてエルサレムの滅亡を嘲笑うかも知れないが、ユダと長年友好関係を保ち、エルサレムの意義を認めているツロなら同情して泣いてくれるであろう、と彼らは思う。ところが、そうでなく、ツロも嘲笑うのである。同情してくれる国はどこにもない。エルサレムは自らが貶められている現実に目を開かなければならない。ツロはユダと一度も対立したことはなかった。それどころか、共存する関係にあったと言うべきである。ユダがバビロンに敵対する企てをした時、ツロはそれを励まし、計画に参与したことがエレミヤ書27章で分かる。これがバビロン王によるツロ攻撃の理由である。また、ソロモン王がエルサレム神殿を建てるためには、ツロの王ヒラムの全面的協力がなければならなかった。ツロ王が建築材料も建築技師も提供していることが列王紀上5章以下に記されている。その建築様式はツロにあった神殿のそれを真似たものであったに違いない。そのような深い関係があるにも拘わらず、エルサレムの滅亡を喜ぶとはどういうことか。根が意地悪なのである。「もろもろの民の門は破れて私に開かれた」と言うが、ツロにとってエルサレムが「もろもろの民の門」であったとは、恐らく、ここを通じてもろもろの国民との交易をしたということであろう。
ユダの国の南端に紅海に面したエラテ、昔エジオン・ゲベルと呼んだ港がある。ユダ政府はソロモンの時代以来、当時海外との交易が最も進んでいたツロの指導と協力を得て、大型船による貿易を行ない、エラテ港の貿易で大きい利益を得ていた。このことは列王紀上9章の26-27節、10章22節に書かれている。エラテから先にはアラビヤ、ペルシャ、インドなどの広い世界が拡がり、そこから珍しい商品が齎される。その貿易はまた中継ぎ貿易で、エラテで陸揚げされた商品は、エルサレムを経由してツロに運ばれる。ツロから先はツロの船で地中海沿岸の全域に運ばれる。勿論、その逆方向にも商品は動く。東方と西方との貿易ルートはこれが陸路の部分の最も短いもので、最も盛んであったらしい。そういうわけで、「門」であるエルサレムが破られて喜ぶのは、これまでエルサレムが受け取っていた利益を、ツロが独占出来るようになったことを喜ぶというサモシイ意味である。また、ツロがもっと多くの商品を欲しいと思っていても、ユダが制限して、自由に入手することがなかなか出来なかった。門が壊されたなら自由に商売出来る。つまり、金銭的な利益が殖えることだけを喜びとしているのである。
ツロと交易していた海沿いの国々の王たちは、15節以下に書かれているように、ツロの滅亡を悲しみ、また自分の滅びを恐れる。それが人間として正常である。しかし、ツロは兄弟の滅びを悲しみもせず、自らの滅びが来るかも知れぬことを恐れもしないで、目先の利益を喜んでいる。
このような喜びしか持たない者に対する神の裁きは、第一に、ネブカデレザルによるツロの攻撃と滅亡である。ネブカデレザルの名は7節で示される。エルサレムが壊滅したため、エルサレムの占めていた利益が自分に回って来ると喜んでいたツロは、滅ぼされ、利益も全て奪われる。
「それ故、主なる神はこう言われる、ツロよ、私はあなたを攻め、海がその波を起こすように、私は多くの国民を、あなたに攻め来させる」。ツロの民は海の民であるから、海のことを譬えにして語られる。海の波が船に、また港町に、海岸に打ち寄せる物凄さを知っている者らに、そのように、諸国民が波の打ち寄せる如くにツロに襲いかかって来るというのである。
神は諸国民を用いてツロを滅ぼしたもう。すなわち、イスラエルを用いてではないという点に留意しなければならない。
ネブカデレザルが攻めると7節に記されているが、諸国民が攻めるというのと食い違うわけではない。バビロン王ネブカデレザルが攻めるのであるが、彼が征服した諸国民を駆り出して攻めさせるからである。ネブカデレザルは旧約のかなりの個所では、ネブカデネザルと書かれているが、同じ人物で、綴りはネブカデレザルが正しい。
「彼らはツロの城壁を壊し、その櫓を倒す。私はその土を払い去って、裸の岩にする」。ツロの市民が大津波を経験したことがあるかどうか分からないが、大津波が島を壊し、その上のあらゆる施設をなめ尽くすように、いや、彼らがこれまで経験したどんな津波よりもっと猛烈に、諸国民はツロの城壁を壊し、櫓を倒し、土を流し去るように城内の全てを掠め奪って、ツロは裸の岩になる。
「ツロは海の中にあって、網を張る場所になる」。それは海の中に捨て置かれ、かつての華麗な面影を偲ばせる何物もなく、廃虚すら残らず、太古からこうであったかと思わせるような景色に帰ってしまって、せいぜい漁夫たちが時折り魚を獲るために網を仕掛ける場所に過ぎなくなる。
「これは私が言ったのであると、主なる神は言われる」。ツロの滅亡についての預言を、亡国の民イスラエルの恨み言、復讐心の表われと取る人がいるかも知れない。その方が納得できると彼らは考える。だが、そうではないのだと主が言われる。我々もユダヤ人の民族感情をここに読み込まないように、神の言葉として素直に聞くように努めなければならない。ツロの利益追求、その驕り、その華美が裁かれる。
「ツロはもろもろの民に掠められ、その本土におる娘たちは剣で殺される」。富み栄えたツロは、諸国民から利益を吸収したのであるから、彼らに奪われる。 「本土におる娘」というのは、本土にあったツロの付属地のことであるが、それは滅ぼされる。「そして、彼らは私が主であることを知るようになる」。この言葉は、エゼキエル書において、これまで繰り返し聞いた特徴ある言葉であることを思い起こそう。殆ど全ての託宣はこの言葉によって結ばれる。ここに神の神たることが示され、神を認めなかった者への裁きが実現する。先の25章で言えば、7節、11節、14節、17節にこれと同じ言葉がある。それらは異邦人についての預言の結びであるが、24章の最後の節にあるこの言葉はイスラエルに向けられたものである。
それならば、我々はこれらの預言を学ぶ時、預言者が何を言ったか、聞く人が何を悟るべきであったかだけでなく、我々自身「神を知る」という目標に向けて整えられているかどうか、そういう姿勢で聖書を読んでいるかどうか、自ら点検すると共に真実に神を知るのがイエス・キリストにおいてであることを再確認しなければならない。
6節までで、ツロの滅亡に関する預言はほぼ完了し、7節以下14節までで、今述べたことをもっと生々しく繰り返す。「主なる神はこう言われる、見よ、私は王の王なるバビロンの王ネブカデレザルに、馬、戦車、騎兵、および多くの軍勢を率いて、北からツロに攻め来させる。彼は本土におるあなたの娘たちを剣で殺し、あなたに向かって雲梯を建て、塁を築き、盾を備え、城崩しをあなたの城壁に向け、斧であなたの櫓を打ち砕く」。
ネブカデレザルによるツロの攻撃について、詳しく述べることは今は出来ないが、エルサレム攻撃に続いて、585年から572年までの13年に亘る包囲攻撃の末、バビロンの支配下に置かれるようになったのである。ただし、エゼキエル書29章17節に、「第27年の1月1日に、主の言葉が私に臨んだ。『人の子よ、バビロンの王ネブカデレザルはその軍勢をツロに対して大いに働かせた。頭は皆禿げ、肩は皆疲れた。しかも、彼も彼の軍勢も、ツロに対してなしたその働きのために何の報いも得なかった』」と書かれている。ネブカデレザルの軍勢はツロを攻撃する材料を長年に亘って頭に載せて、あるいは肩に負って運ばされたから、頭は禿げ、肩は疲れ切ってしまった。とするならば、ツロ攻撃はついに徒労に終わったのであろうか。しかし、ツロの王が564年から556年までバビロンの囚われ人になったことは確かである。
「北から攻める」とは、ネブカデレザルが来た方向を示すだけであって、この島を北から攻撃したということではない。
「本土にいるあなたの娘たち」というのは、6節で言ったように、本土にあるツロの属領のことである。海の上に浮かぶ都市を維持するために、水や野菜や燃料の供給のため、また死者を葬る場所として陸地が必要であった。列王紀上9章11節にはツロの王がソロモンに材木や金を供給してくれたお礼に、ガリラヤの町20を贈ったことが書かれているが、そのような領地があった。そこは無防備であったから簡単に征服されたが、それから海上都市の攻撃に13年を要したのである。
「雲梯を建て、塁を築き、盾を備え、城崩しを城壁に向ける」とは陸上の城壁の攻撃の仕方である。海上の要塞都市ツロにこの攻撃方法が適用できるかどうかは分からない。おそらく、舟を沢山集めて攻めたのである。陸上戦闘にしか慣れていない軍隊は、なかなか勝てなかった。
やっと城内に突入して、殺戮と破壊と略奪が行なわれる。11節に「あなたの力強い柱は地に倒れる」とあるこの柱は神殿の正面にあった二本の柱のことである。これは非常に重要なものらしい。エルサレムの神殿でも二本の柱があり、それが何ゆえ立てられたのか分からないのであるが、ツロの神殿をモデルにしたからであると見れば一応納得出来る。とにかく、柱が倒れるとは、力の象徴である神殿が壊滅するという意味である。15節から18節までは、ツロの滅亡が海沿いの国々の深刻な打撃となることを語っている。「海沿いの国々」とは旧約聖書では、通常エーゲ海の島々を指すようであるが、ツロの影響は地中海全域に及んでおり、またツロの開いた植民地が、カルタゴを初めあちこちにあったから、それらの地の受けた経済的また心理的な深い打撃を描いたと見てよいであろう。
16節の「海の君たち」とは、ツロが交易関係を持つ国々の支配者である。彼らはツロの滅亡を聞いて「好い気味だ」と嘲笑うことはしない。それらの国々の王たちは王座からずり落ちて、地べたに座り、弔いの衣を着て、ツロのために挽歌を歌うのである。そしてツロに起こった悲劇が明日は我が身に及ぶかも知れないと恐れるのである。これはツロにはなかった知恵である。ツロにこれだけの知恵があれば、エルサレムの滅亡の時に、自分の儲けがこれで増える、と喜ぶようなことは起こらなかった。
海沿いの国々の嘆きを聞く時、我々の思いは新約聖書のヨハネの黙示録18章にある悪の都バビロンの滅亡の記事へと馳せ行く。黙示録の記事がツロの滅亡を語っているわけではないが、実によく符合する。例えば、その15節、「これらの品々を売って、彼女から富を得ていた商人は、彼女の苦しみに恐れを抱いて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、『ああ、禍いだ。麻布と紫布と緋布を纏い、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は禍いだ。これほどの富が一瞬にして無に帰してしまうとは!』」。
26章の最後の部分、19節以下はツロが深い淵に呑まれてしまい、穴に下る者と共に陰府に落ちることを予告する。すなわち、歴史の中で繰り返されて来た国々の興亡がまたここで起こったというのではなく、ここには終末の破滅の有り様が読み取れるのである。先のところで黙示録の影を見たように、これは終末の先触れである。我々は富み栄え、驕り高ぶる国を見ていないか。その国に裁きが下る影が読み取れないであろうか。それなら、神を知ることに立ち返ろう。神は御子によってご自身を示されるのである。


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