◆ Backnumber1999.11.28.◆

エゼキエル書講解説教 第24回
――23章によって――

   預言者エゼキエルがこの23章で語ることは、言葉数は多いが、内容は単純である。彼はサマリヤとエルサレムが姉妹であると言い、どちらも淫行を行なって来たと断罪し、その罪のゆえに下る審判を宣告する。淫行の故に罰せられて滅びるという趣旨の警告は、エゼキエル書16章にもあったが、23章の淫行の描写は毒々しく、聖書の通常の文体とは異なって、嫌悪感なしでは聞けないほどである。エゼキエルの預言を聞いた人も辟易したに違いない。これは堕落の程度がどんなに酷いかを表わすためであろう。そして、この罪の故にサマリヤが滅びたように、次にはエルサレムも滅びる、と予告される。 姉妹の名前が姉はアホラ、妹はアホリバとなっているが、アホラもアホリバも「幕屋」という言葉「アヘル」をもとにして造った名であることは確かである。「幕屋」とは荒野の幕屋、すなわち、出エジプトの民の礼拝の場、つまり神殿である。アホラは「自らの幕屋を持つ者」という意味らしい。北王国が自分たちの神殿をゲリジム山に設けて、人々を礼拝のためにエルサレムに赴かせないようにしたことを指すと解釈される。 一方、アホリバという名は「私の幕屋は彼女のうちにある」という意味のようである。正規の神殿があちらでなく、こちら側にあるとユダが主張していると解されている。――しかし、二つの名前の意味の相違は余り考えなくて良いと思う。実体はほぼ同じである。
 アホラの姦淫の相手はアッスリヤであると5節に言われている。そのアッスリヤがアホラを滅ぼしたと9節にある。淫行そのものが身を破滅させるのだが、淫行の相手に殺されたというのである。これは、9節に「それ故、私は彼女をその恋人の手に渡し、その焦がれたアッスリヤの人々の手に渡した」と説明される。神の意志によってイスラエルはアッスリヤの手で滅ぼされたのであって、アッスリヤの思いのままになったのではない。後ほどもう一度触れるが、分裂した北王国が最初はアッスリヤに依存したが、後にはアッスリヤの侵入によって滅ぼされた事実を指している。紀元前721年のことである。
 アホリバの場合、先ずアッスリヤが淫行の相手であって、次にはカルデヤ人すなわちバビロンであり、そのバビロンによってエルサレムが滅ぼされると予告される。しかも、19節と27節では淫行の相手エジプトの名も挙がる。これはユダがエジプトと同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたことを指す。
 エルサレムの滅亡の預言を、これまでもエゼキエルから繰り返し聞いていたから、我々としては意外に思うことはない。しかし、エゼキエルから直接に預言を聞いた人にとって、恐らく、今回の預言は衝撃的であった。それは、サマリヤとエルサレムを同列に扱い、むしろサマリヤが姉、エルサレムが妹というふうに格付けされ、エルサレムの方がもっと悪性であると指摘された点であろう。彼らの慢心が砕かれたのだ。
 ユダの人々は、自分たちの国、その都エルサレム、都にあるシオンの神殿について自負を持っていた。その自負は他国民も持っている愛国心やお国自慢と同列の物ではない。むしろ「宗教心」と呼んだ方が適切であろう。自分たちは神の選民であって、特権的に神に仕える選ばれた民である、と彼らは主張していた。連綿と続く神の民の歴史を見よ。信仰の立派な伝統があるではないか。神の民である証拠に、国中で最も立派なものは神殿ではないか。諸国民の建てている神殿より遥かに壮大な建築ではないか。そこでは厳粛な礼拝が捧げられているではないか。国民は律法に教えられて、他の国民よりズッと道徳水準の高い生活をしているではないか。
 さらに、ユダは、滅び失せた北イスラエル王国に対する優越感を隠さない。同じアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエル民族に属していながら、ユダと別れて、サマリヤを中心とする国を建てた十の氏族が早く滅びたのは、先祖の宗教的伝統に従わないで、律法を守らず、祭司制度を曲げ、ゲリジム山に神殿を建て、子牛を偶像として拝んだからである、とユダの人たちは考えた。そして失われた氏族について、痛みよりも侮蔑を感じていた。滅びた姉妹イスラエルは呪われた民であると決めつけ、その回復を願うこともなかった。失われた氏族の回復を神は約束し、預言者がしばしば伝えたのであるが、人々の関心事ではなかった。主イエス・キリストの来られた時代でも、ユダの人々はサマリヤ人への偏見を持ち続けていたことを我々は知っている。――失われたイスラエルの子らの回復というテーマは、今日学ぶ個所には出て来ないから、取り上げないが、人々がサマリヤの救いについて全く無関心であった点を思い起こすことは無駄でない。失われたとはいえ、兄弟なのである。しかも、失われて行く道がソックリ同じである。そのことをキチンと捉えるなら、サマリヤの回復のことも考えなければならなかった。
 エルサレムは今、バビロンに押さえつけられ、かなりの人数の人質がバビロンに囚われており、栄光は地に落ちている。しかし、こういう浮き沈みはこの世のどこにでもあることであって、自分たちには神がついておられるのだから、必ず回復がある、とユダの人々は言っていた。そう説教する預言者が沢山いた。エルサレムの回復は宗教的確信である。エルサレムの滅びを預言したり、その預言を信じたりするのは、不届きというよりも不信仰である、と多くの人は思っていた。
 そのような時代にあって、バビロンに引かれて行った捕囚たちの中で、エゼキエルがしていたのは、人々の宗教心との戦いであった。宗教という点では諸国民のそれにヒケを取らないものかも知れない。しかし、神の目から見れば、御言葉からの離反にほかならなかった。自分たちの宗教的自尊心を満足させてくれる仕掛け、それが彼らの宗教であった。自分を満足させることに役立つ限りにおいて、彼らは神の言葉を評価し、利用する。しかし、神の言葉よりも、これを有益か否か判定する自分の判定能力の方が重要だと考えるのであるから、神が語っておられても、聞きたくない言葉ならば耳に入らない。
 同じ時代、エルサレムには預言者エレミヤがいた。エレミヤとエゼキエルの間に連絡があったとは思われないが、残された言葉から、彼らが同一の神から御言葉を受けて語っていたことが確認出来る。すなわち、エレミヤ書3章6節以下の預言はエゼキエル書23章と同じ趣旨である。また、7章においてエレミヤはエルサレム神殿の庭に立って、「これは神の宮である、神の宮である、神の宮である、という偽りの言葉を頼みとしてはならない」と叫んだ。人々の宗教に対する挑戦である。今日に当て嵌めるならば、「これはキリストの教会である、キリストの教会である、キリストの教会である、との偽りの言葉を信じてはならない」と言うのに匹敵する。
 預言者たちの戦いを遠い昔の話しと考えて良いであろうか。神の言葉を聞いていると言うが、実は、都合の良い言葉だけを聞いて、自分の意志に逆らう言葉は聞かないようにすることが、今日、キリスト教会の中で日常化しているのではないか。都合の良い言葉は確かに聞かれている。だから、神の言葉を聞いている気になっている。だが、果たして御言葉への絶対的服従をしているだろうか。
 イエス・キリストが「十字架を負って我に従え」と言われた、と聖書が伝えるのに、それはその通りに受け取らなくて良いのだ、と解釈している説教者が多い。だから、「十字架を負って我に従え」との主の御言葉は主の民には聞かれていない。この主はエルサレム神殿の中で両替や販売が行なわれているのを見て、粛正したもうた。今の教会が主の粛正を受けずに済むと言えるであろうか。
 「教会は裁かれる」と言う人がおれば、「何を言うか。教会は裁きの中から贖い取られた民らの群れではないか。キリストの贖いを無にするようなことを言うのは不信仰も甚だしい」と集中攻撃を受ける。エレミヤやエゼキエルが今日の教会に入って来て、彼らがかつて語ったと同じ言葉を語ったとすれば、石で撃ち殺されるであろう。しかし、イエス・キリストのお言葉を思い起こそう、「私のために人々があなたがたを罵り、また迫害し、あなたがたに対し、偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは幸いである。喜び、悦べ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。
 我々が軽々しく、「今の教会はアホラ、アホリバそのものだ」と言うことは慎まねばならないであろう。しかし、神社参拝をし、その罪を悔い改めていない自称キリスト教会を淫行のアホラと呼ぶことは、必ずしも的外れではないのではないか。
 キリスト教的作文術と言うか、自己温存技術と言おうか、「建徳的」という装いのもとに、道を踏み外した教会を正当化し、主の御言葉に服従しなくても良いように持って行く言い回しは、エゼキエルの時代のユダヤ教よりも遥かに巧みになった。だから、キリスト教が生命を失っていても、まだ生きていると思わせて置くことが出来るほど、説得術が発達した。アホラとアホリバのことが自分たちの問題だと考えなくて良いような雰囲気作りが進んだ。この欺瞞を見抜かなくて良いのか、ということが今日の学びである。
 さて、アホラとアホリバの「淫行」によって示されているのは何か。この淫行は単なる譬えではないと聖書を読む人なら気付いている。実際に、性道徳が紊乱していた。しかし、そこを視野の中心に置くと、それほど性道徳が退廃していない人々の間では、自分の問題ではないと考える向きが出て来るであろう。だから、今は、この淫行や姦淫は「象徴」だということを先ず読み取りたい。では、何の象徴か。一つは異教的偶像礼拝である。夫がいるのに、妻が他の男と不倫をするように、イスラエルにとって神は唯一の主であるのに、それ以外の神を持つことは姦淫になぞらえられる。これは旧約聖書の中に数多く語られている言い方である。もう一つは外国との軍事同盟の象徴である。神によらず、外国軍隊の武力によって国を支えようというのだ。
 「偶像礼拝」であると明確に言うのは37節である。「彼らは姦淫を行ない、血が彼らの手の上にある。彼らはその偶像と姦淫を行ない、また私に産んだ子らを、食物のために彼らに捧げた」。姦淫の相手が偶像であることがハッキリ指摘されている。神に属する子らを偶像神への犠牲にした。それは夫のために産んだ子を、妻が姦淫の相手のために犠牲にするような忌まわしいことである。これは16章20節で、「あなたはまた、あなたが私に産んだ息子、娘たちを取って、その像に供え、彼らに食わせた。このようなあなたの姦淫は小さい事であろうか。あなたは私の子供を殺し、火の中を通らせて彼らに捧げた」と言われたものである。
 子供を偶像に捧げたというのは、列王記下16章3節にユダ王アハズの時「主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行ないに従って、自分の子を火に焼いて捧げ物とした」と書かれている事件である。同じく、17章17節に北イスラエルのホセア王の時、「その息子、娘を火に焼いて捧げ物とし、占い、およびまじないをなし、主の目の前に悪を行なうことに身を委ねて、主を怒らせた」と書かれる。また、同じく21章6節にユダのマナセ王の時代に、「またその子を火に焼いて捧げ物とし、占いをし、魔術を行ない、口寄せと魔法使いを用い、主の目の前に多くの悪を行なって、主の怒りを引き起こした」と記録されている。記録はこれだけであるが、実際にはもっと頻繁に行なわれたのではないかと思われる。これは律法によって断固として禁止されている異教的祭儀である。
 自分の子供を生贄として捧げることが最高の熱心、最善の供え物であると言い触らす宗教があった。そのため、宗教的熱心の誉れを得ようとする親たちは子供を殺したのである。親にとっては最大の犠牲であるが、親の自己満足のための殺人にほかならない。神はそのような生贄を喜びたまわず、また、そういうものを命じたまわない。アブラハムが言ったように、「神が備えたもう」のであって、人が神のために最善の捧げ物を捧げるというのとは違うのである。そして殺人を命じるのは生ける神ではなく、人々の言いなりになる偶像である。エレミヤもこの子供を殺す罪を最も忌まわしいものとして繰り返し裁いている。
 軍事同盟が淫行になぞらえられると言ったが、聞き慣れない言い方のように思う人も多いであろう。実例を挙げれば、列王記下15章19節にイスラエル王となったメナヘムについてこう言われる、「時にアッスリヤの王プルが国に攻めて来たので、メナヘムは銀一千タラントをプルに与えた。これは彼がプルの助けを得て、国を自分の手のうちに強くするためであった」とある。すなわち、武力で王位を奪い取ったメナヘムは、自分の地位を固くするためにアッスリヤ王に金を贈った。
 このような関係があったにも拘わらず、列王記下17章3節以下には北王国についてこう書いてある。「アッスリヤの王シャルマネセルが攻め上ったので、ホセアは彼に隷属して貢ぎを納めたが、アッスリヤの王はホセアがついに自分に背いたのを知った。それはホセアが使者をエジプトの王ソに遣わし、また年々納めていた貢ぎをアッスリヤの王に納めなかったからである。そこでアッスリヤの王は彼を監禁し、獄屋に繋いだ。そして、アッスリヤ王は攻め上って国中を侵し、サマリヤに上って来て3年の間これを攻め囲んだ。ホセアの第9年になって、アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕らえて行って、ハラとゴサンの川ハボルのほとりと、メデアの町々に置いた」と書かれる。これが北王国の最後である。
 一方、南王国ユダにおいては、今引いた事より10年前であるが、列王記下16章7節以下にこう書かれる、「そこでアハズは使者をアッスリヤの王テグラテピレセルに遣わして言わせた、『私はあなたの僕、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王が私を攻め囲んでいます。どうぞ上って来て、彼らの手から私を救い出して下さい』。そしてアハズは主の宮と王の家の倉にある金と銀を取り、これを贈り物としてアッスリヤの王に贈ったので、アッスリヤの王は彼の願いを聞き入れた。すなわちアッスリヤの王はダマスコに攻め上って、これを取り、その民をキルに捕らえ移し、またレヂンを殺した」。こうしてアッスリヤに守ってもらったので、アハズはアッスリヤ王テグラテピレセルに会おうとダマスコに行くが、ダマスコにある祭壇を見たので、その図面を祭司ウリヤの送ってエルサレムに同じものを作らせる。こうして軍事同盟を通じて礼拝様式が導入された。
 エゼキエル書17章15節で読んだことだが、「彼はバビロンの王に背き、使者をエジプトに送って、馬と多くの兵とをそこから得ようとした」と書かれていた。これは、列王記下23章に記されるようにエホヤキム王がバビロンに背いてエジプトと同盟を結ぼうとしていたことを指す。エジプトは助けてくれなかった。
 イスラエルもユダも、定見なしに、その時その時、強そうな方に身を寄せて、助けて貰おうとした。それは姦淫と同じではないか。これは単に政策決定の誤りでなく、真に頼るべきものを頼みとしないという意味で霊的姦淫である。軍備を頼みとすることは生ける神を頼みとしないことである。異教国との軍事同盟がいけないというだけでなく、武力に依り頼むことが、神への背反となる。イザヤも言う、「助けを得るためにエジプトに下り、馬に頼る者は災いだ。彼らは戦車が多いのでこれに信頼し、騎兵が甚だ強いのでこれに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」。神の民は神のみによって存立する。それから外れることは霊的姦淫である。その姦淫を我々の中から取り除かなければならない。

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