◆ Backnumber1999.10.31.◆

宗教改革記念礼拝
エゼキエル書講解説教 第23回
――22章によって――

 今日学ぶエゼキエル書22章は、20章の初めから続いているエルサレムの滅亡の予告である。これをエゼキエルは遠く離れたバビロンで捕囚たちの長老に語った。「第7年5月10日」という預言の日付が、20章1節に書かれている。バビロンに囚われて第7年。これはバビロン軍が再びエルサレムを包囲する2年前である。人々の間には「捕囚は間もなく終わる。エルサレムの栄光は回復する」という期待が持たれていた。エゼキエルは神の示したもうところにしたがって、彼らの期待と意向に真っ向から反するエルサレムの破滅を預言した。
 この5月10日当日、たて続けに長い預言が語られたのかどうかは分からない。22章1節に「また主の言葉が私に臨んで言った」と書かれるのは、前の預言に続いているようにも取れるし、一端途切れて、機会を改めて語られたようにも取れる。ともかく、少なくとも同じ時期であったと考えられる。エルサレムの回復を待ち望んでも実現しない。エルサレムはその罪のゆえに裁かれ、滅びると預言者は告げる。
 2節を読もう。「人の子よ、あなたは裁くのか。血を流すこの町を裁くのか」と神はのたもう。この「血を流す」という言葉は、エゼキエル書に、これまでも7章23節の「この地は流血の咎に満ち」と言われたところ、その他に出ていたが、今日学ぶ預言の中にはしきりに繰り返され、この章の第一部を特徴づけるキーワードである。
 「この町」とはエルサレムであるが、そこでは殺人が横行していたのであろうか。たしかに、末期のエルサレムには、不正・不道徳が満ちていたということが十分考えられるが、詳しい事情は我々に分からない。一方、他の国々の首都と比べれば、ズッと道徳的な都であったと言えたかも知れない。しかし、他の町々との比較は今ここで問題にならない。神の前でどう見られているかが大切な点である。神はこれを「血を流す町」と断定される。
 「血を流す罪」という言葉が旧約聖書にしばしば出て来ることを思い起こそう。最初のケースは、カインがその兄弟アベルを殺し、地に埋めたが、その血の叫びを神は聞きたもうたという創世記4章の記事である。
  神はカインに呼びかけて言われた。「お前の弟アベルはどこにいるのか」。カインは答えて言う、「知りません。私が弟の番人でしょうか……」。最初の殺人者は、血を流す罪を実行しておりながら、隠しおおせると考えた。しかし、神の前には隠れることが出来なかった。「お前の弟の血が土の中から私を呼んでいるぞ」と神は言われる。「血を流す罪」とはそのようなものである。
 「流血の世紀」と呼ばれる20世紀を生きて来た我々は、血が流される事件に鈍感、いや無感覚になっているように思う。現に新しく流されている血についても、かつて流されて、処理されていない血についても、我々は無関心過ぎはしないか。しかし、神は知っておられる。いのちの創造者であられる神は、ご自身に属する人のいのちが損なわれることを黙視したまわない。罪なくして流された血について神ご自身が責任を問いたもう。
 主イエス・キリストはルカ伝10章49節以下で言われた、「それ故に神の知恵も言っている。『私は預言者と使徒とを彼らに遣わすが、彼らはそのうちの或る者を殺したり、迫害したりするであろう』。それで、アベルの血から、祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されて来た全ての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう」。主イエスがここで言われたのは、預言者の血が流されたことへの報復がこの時代になされるということである。神の言葉を聞くまいとする人々は、神から遣わされて語る預言者を殺した。だから、エゼキエル書のここで言う「流血」とは少し違う。しかし、血を流した責任を神が問いたもう点では違いがない。主イエスはアベルの血を預言者の場合と同列に扱いたもうたではないか。
 主イエスのこのお言葉は、血を流す町エルサレムというエゼキエルの指摘を最終的に確認するものであることを思い起こそう。
 「血を流す」という言葉が使われたもう一つの場合を思い起こす。ダビデは詩篇51篇14節で「神よ、わが救いの神よ、血を流した罪から私を助け出して下さい」と叫んでいる。ここでいう「血を流した罪」とは、この詩篇51篇の標題が示すように、ダビデがヘテ人ウリヤの妻バテセバと姦淫を犯し、彼女の夫ウリヤが戦線で死ぬように仕向け、その罪を預言者ナタンに指摘されたその罪のことである。ダビデは直接ウリヤに手を掛けて殺したわけではない。そう言い抜けることが出来ると勘定していた。しかし、預言者の言葉はこの王の隠された罪を明らかにした。
 エルサレムが悪徳の町、「血を流す町」であったかどうかを論じてはおられない。我々の足もとの問題である。我々もカインのように「知りません。私が弟の番人でしょうか」と言ってはおられない罪責を抱えているのである。我々には隠された罪がある。その罪についてダビデが祈ったように赦しを求めなければならない。
 さて、「人の子よ、あなたは裁くのか」と主はエゼキエルに言われる。預言者は自分の判断、自分の正義感、自分の知っているところにしたがって、エルサレムを裁いていたのであろう。神は言われる、「それなら、この町に、そのもろもろの憎むべき事を示して言え」。つまり、神はエゼキエルに、「お前の裁き方では足りないではないか。神の裁きを伝えるべきではないか」と言っておられるようである。
 「この町にそのもろもろの憎むべき事を示して言え、主なる神はこう言われる、自分のうちに血を流して、その刑罰の時を招き、偶像を造ってその身を汚す者よ」。これを血を流す罪、また偶像礼拝の罪であると教え、これには厳しい裁きがあると教えなければならない、と神は言われる。
 「自分のうちに血を流す」と言われるが、これは町の中に血を流すことを言う。エルサレムの町中で殺人事件が頻々とあったのであろうか。多分そうではない。カインがしたように血は埋め隠された。しかし、神は全てを見ておられる。それが合法の名のもとに行なわれることが多いが、人間は気付かなくても神は全て知っておられる。
 この3節では、「血を流す罪」と「偶像を造る罪」の結びつきが指摘される。神を神とせず、神ならぬものを神とすることと、人を人とも思わぬこととは結びついている。人と人との関係の乱れと、神と人の関係の乱れとは繋がっていて、一つのことの両面である。すなわち、神を愛することと人を愛することとは結びついているからである。
 6節に「見よ、あなたのうちのイスラエルの君たちは、おのおのその力にしたがって、血を流そうとしている」と言われる。「イスラエルの君たち」とは支配階級のことである。血を流す罪を犯しているのは主に支配階級であり、それを神が裁きたもうということが分かる。さらに、「その力にしたがって」とは、すなわち、権力の大きい者ほど大々的に血を流す罪を犯しているという意味である。
 流血の罪は全ての人の犯すものである。罪は神の前で明らかにされるのであるから、その人の地位の上下とは関係がない、と言える。しかし、「イスラエルの君たちは、その力にしたがって血を流そうとしている」と神は見ておられる。力の大きい者ほど大きい規模で血を流す罪を犯すのである。力のある者ほど、直接に血で手を汚すことがないようになっている。例えば、戦争の場合、開戦を決定した人は恐らく自分では敵を殺すことはしない。人に殺させる。直接に殺人をした者は恨まれ、その責任は追及されるが、直接手を下していない最高責任者の責任は普通は見逃される。だが、神は見逃しておられない。
 上流の人々は優雅な生活をし、心優しい振る舞いをし、道徳的に高潔であるように見られる場合すら少なくない。支配階級によってなされる血を流す罪とは、ここでは恐らく、裁判によって「正義」の装いのもとに、弱い立場の者を不利に陥れることであろう。列王記下21章16節に、「マナセはまた主の前に悪を行なって、ユダに罪を犯させたその罪のほかに、罪なき者の血を多く流して、エルサレムのこの果てからかの果てにまで満たした」とマナセ王の治世55年間の罪が記される。エルサレムの端から端まで罪なき者の血が満たされたとは、町中が血びたしになったという意味ではない。これも、人の目に見えるものとしてよりも、神の目にそう見えたということなのだ。
 同じ列王記下の24章4節には、王エホヤキムの事績とそれに対する神の裁きとして、「また彼が罪なき者の血を流し、罪なき人の血をエルサレムに満たしたためであって、主はその罪を赦そうとはされなかった」と記される。罪なき者の血を流すことはマナセだけで終わらなかった。
 人の目には、過去の流血は見えない。済んだことは忘れられる。しかし、神の目には過去の流血の罪に、今新しく血が流される罪が累積されたものが見えるのである。また、マナセやエホヤキムがエルサレムの町で殺人をしたというわけでもない。「罪なき者の血」と書かれているのは、不正な裁判で持てる者に有利な判決が出て、無実の者が刑を受けたこと、貧しい者は弱い立場にあるために、つねに不利益を蒙ったことを言う。 エゼキエルの時代のエルサレムも同じであった。7節に「寄留者はあなたのうちで虐待を受け、孤児と、寡婦とはあなたのうちで悩まされている」とある通りである。21節には、「また血を流そうとして、あなたのうちでマイナイを取る者がある。あなたは利息と高利とを取り、しえたげによって、あなたの隣り人の物をかすめ、そして私を忘れてしまった」と言われる。血を流すことと賄賂や高い利息は結びついているのである。寡婦や孤児、寄留の他国人が顧みられていないことと流血とは一連の罪なのだ。
 7節には「父母はあなたがたのうちで卑しめられる」と言われる。モーセの十戒の第五戒は「父と母を敬え」である。神の教えは、昔は先祖から子孫に伝承されたのであるから、両親がイスラエルの子たちの第一義的な教師であった。両親を侮ることによって、宗教的秩序の発端が崩れるのである。また安息日も廃れる。それと道徳の退廃が重なっている。
 22章の預言の第二部は17節から22節である。この部分の主題は先の部分とは別である。イスラエルの家は「かな滓」だと言われる。鉱石を坩堝に入れて強い火力で吹き分けると、金属が製錬され「かな滓」が残る。イスラエルは火で吹き分けられて、不純物を取り去った金属になるのか。そうではない。「あなたがたはみなかな滓となった」と言われる。
 神の裁きが金属の製錬になぞらえられることが聖書には多い。火で焼き尽くされるかのようではあるが、結果として混じり気のない純粋な金属が取り出される。そのように、全てを焼き尽くす裁きの火の中から、救われる者が取り出され、それらは汚れを潔められた純潔な人々で、神の国に相応しい。これは適切な譬えであるが、今の場合には適用出来ない。すなわち、全部「かな滓」になってしまう。
 イスラエルだから救われる、という単純な原理は破綻する。むしろ残りの者だけが救われる、と言わねばならない。この教えは分かりやすくはないとしても、納得出来る。しかし、今学んでいる所では、少数の者も残らない。神の約束が空しかったということではないが、差し出された恵みを相応しく受け入れることをせず、これに背いた者には希望は残されていないのだ。その者になお希望を持たせる処置は取られない。
 少しの残りの者もないのか。ないのだ、とここでは言われる。福音的信仰とは救いについての厚かましい願望や甘えでないことがハッキリする。出直さなければならない。 22章の第三部は23節以下である。「あなたがたは怒りの日に浄められず」と言われるが、聖書で学ぶ神の怒りの日は、通常、怒りの火による浄化、火をくぐり抜けての救いである。しかし、今エルサレムに示されている怒りの日には救いの意味がない。
 「その中にいる君たちは、獲物を裂く狼のようで、血を流し、不正な利を得るために人々を滅ぼす」。三種類の人々の罪が挙げられる。第一は権力者の犯罪である。
 一般人のは良心的に生きるのではないか。そうではない。29節に言う、「国の民は虐げを行ない、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とを掠め、不正に他国人を虐げる」。
 それでも、第三に預言者が期待出来るではないか。ところが、預言者もその務めを果たしていない。28節、「その預言者たちは水しっくいでこれを塗り、偽りの幻を見、彼らに偽りを占い、主が語らないのに『主なる神はこう言われる』と言う」。
 預言者は神の言葉を伝えるために立てられるものである。しかし、神に召されたのでない、単に自分の事業欲によって所謂宗教活動をしているに過ぎない。神の言葉でないものを語っている。彼らの仕事は水しっくいを塗るようなものである。
 「水しっくい」とは巧みな比喩である。しっくいを水で薄く溶いて塗ると見栄えが良いが、建造物を頑丈にすることに役立たず、手抜き工事のゴマカシになるだけである。今日で言うなら水を余分に加えたコンクリートである。仕上がりは綺麗である。しかし、やがてボロボロになって崩れて行く。
 偽預言者が神の恵みを説く時、本当らしく聞こえるのである。真の預言者の語る言葉がゴツゴツして耳に心地よく響かないのと逆で、偽預言者の説教は聞きやすいし、本当らしく感じられる。しかし、そういう説教を聞いていて裁きの日に耐え得るか。永遠の救いに入れるか。これは今日の問題である。
 神は最後に言われる、「私は国のために石垣を築き、私の前にあって、破れ口に立ち、私にこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。それ故、私は我が怒りを彼らの上に注ぎ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼし、彼らの行ないをそのこうべに報いた」。
 「彼らのうちに」と言われるが、上に挙げた三種類の人たちの中にという意味であろう。本来は預言者の職務であるが、預言者がその職務を行なおうとしないならば、誰でも使命を受けて緊急の処理をしなければならない。国のために石垣を築くとは、国の守りであり、国の守りは神の言葉への信頼であるから、御言葉を語って国民を立ち返らせることである。
 「私の前にあって、破れ口に立ち、私にこれを滅ぼさせないようにする」とは執り成しである。ちょうどアブラハムがソドムの滅びのために執り成したようなことをする、そういう人が彼らの中にいなければならなかった。エルサレムには当時エレミヤがいたではないか。エレミヤはまさにエルサレムの城壁の破れ口に立って祈った。しかし、アブラハムの執り成しにも拘わらず、義人がいなかったためソドムは滅亡するほかなかった。エレミヤの務めにも拘わらず、それに聞き従う者がいなかったから、エルサレムは滅びた。
 今、我々が思いを向けねばならないのは我々の国の教会である。水しっくいで塗った上塗りはボロボロになった。御言葉を教会の中に打ち建てねばならないのである。その人を神が求めておられる。これが今日学ぶべき一つの点である。
 もう一つのことがある。破れ口に立って、破滅を食い止めるために我々の執り成しをする人。そのお方に我々の信頼の全てを捧げなければならない。これが今日の我々への呼び掛けである。

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