◆ Backnumber1999.09.26.◆

エゼキエル書講解説教 第22回

――21章によって――

この21章で語られるのは、剣による裁きである。具体的には19節に「バビロン王の剣」と言われているように、ネブカデレザルの攻撃によるエルサレムの滅亡を予告したものである。時代を推測するならバビロン王ネブカデレザルが大軍を率いてツロ、ユダ、アンモンを討とうと出発した頃、あるいはその少し前であろうか。バビロン軍はユダを討たないかも知れない。ユダと戦って勝てないままに引き上げて来るかも知れないという予測が捕囚の間で持たれていた。
 人々はエルサレムが壊滅するようなことになって欲しくないと願い、またこういうことは起こり得ないという思いになっていた。冷静に考えれば、バビロンへの反逆によってユダが滅ぼされることは十分に予想されるのであるが、極く少数の人を除いて、その判断を持つ者はなかった。多数者の考えることが真実であり、確実であるという幻想を抱くようになった。バビロンの地ではエゼキエルが、エルサレムにおいてはエレミヤがそれに逆らって正しいことを語ったが、聞く人はなかった。
 預言者の語ったことは無駄であったのか。預言者に説得されて、考えを翻す人が皆無に近かったという点では、無駄と見られるかも知れない。それでも、預言者たちは命を懸けて語り続ける。それを彼らの愛国心、憂国の至情の発露と見ることは出来なくない。人々は国の滅亡を予告する預言者を愛国心のない者と決めつけて迫害したのであるが、国を滅ぼす愚かな戦争を支持した多数者より、醒めた目をもって将来を見、迫り来る悲劇を思って悲しむ彼らの方が遥かに愛国者であった。しかし、彼らが愛国的であったかなかったかは、論じるだけの意味あることではない。彼らは何よりも主に忠実であった。主が語れと命じたもうことを語らぬわけには行かなかった。
 預言者はまた自説の正しさを証しし続けた真の意味の賢者であった。しかし、彼らは賢者としての名を後世に残すために語り続けたのではない。彼らは、主なる神が「こう語れ」と命じたもうた言葉を、主の言葉なるが故に語り続けた。自説なら撤回することもある。沈黙することもある。しかし、主の命令であるから、自分の判断で沈黙を選ぶことは出来ないのである。
 今日、我々はこの世が滔々たる流れをなして誤謬に向かって急ぐのを見る。人々は周囲を見回して、多数者の言うことが正しいと思い、あるいは、多数者に従っている方が無難であると考えるから、誤謬の方向へ、ひいては破滅へと流されて行く。それを、風にそよぐ葦のような情けない者らと憐れみ見、自分たちは正しい道を守ろう、この国を再び危機にさらしてはならない、と心に誓っている賢者・愛国者はある程度いる。我々もその中にいると言って良かろう。それはそれで良いのであるが、神から言葉を授けられて語った預言者と、正しいことを正しいと信じて言い続ける自分とが、同じであると考えてはならない。似ている点がないとは言えないが、混同してはならない。
 預言者が、この世の教師であって、人々に道を示すだけであったならば、彼らの指導は聞かれなかったのだから、生涯の働きは空しかったことになる。語っても語らなくても人々は正しくない方向に走って行くのだから、言っただけ無駄だったと見える。けれども、預言者は語ることを止めない。彼らが語ることによって、神の御旨が行なわれるからである。
 人々が神の警告に従って方向転換し、災いを免れる。これも預言者を通じて語られる神の御旨の実現の一つの場合である。もう一つの場合は、人々が神の警告に聞き従わず、したがって警告されていた通りに破滅する場合、これも神の正しさの実現であり、語られた通りになったという証し、また彼らが知らずして誤りの道に陥ったのでなく、預言によって神の御旨を告げられていたにも拘わらず聞かなかったことの証しになる。だから預言者は語ることを止めない。
 今日エゼキエル書21章で読むのは、今述べたうちの第二の部類に入ると言って良いが、言い方としては非常に積極的で、悔い改めれば救いの余地があるとは言われず、破滅の宣言、殆ど剣に命令する言葉である。「剣を二度も三度も臨ませよ」。一度でみんな倒れたのであるが、二度三度と繰り返して徹底的に滅ぼすというのである。
 この21章には難しい個所が幾つもある。原文に意味不明なところが多い。何かのことで損傷されたらしいのである。この難解な点を解明し尽くすことは無理なので、おおよその趣旨を読み取ることが出来れば良いとしておこう。なお、新共同訳と読み比べようとする人は、節の番号が全然違うことを承知しなければならない。新共同訳の21章1節はは20章45節である。
 2節に神の御言葉が記される、「人の子よ、あなたの顔をエルサレムに向け、あなたの言葉を聖所に向けて述べ、イスラエルの地に向かって預言し、イスラエルの地に言え。……」。
 「エルサレムに顔を向けて言え」。この預言者はバビロンにいるのである。これまで見て来たように、バビロンにいる囚われ人に神の言葉を語るのがエゼキエルの使命である。ところが、今回はエルサレムに向けて語れ、と言われる。エルサレムに向いて語っても、声は向こうに届かない。エルサレムに向けてとは、神が裁きをもってエルサレムに臨みたもうことの現われである。それをバビロンにいるイスラエルに示すのである。 すなわち、エゼキエルは捕囚の人々に、エルサレムを憧れの地とするな、エルサレムは尊ばれてはならない。壊滅して何も残らなくなるのだから、と分からせようとしている。
 「聖所に向かって言え」。これは聖所に対し、また神に対して反逆になるのではないか。人間の作った建物である聖所が神の代わりに讃美されるわけではないが、神を重んじることの現われとして、人は聖所を神聖なものとして扱う。イエス・キリストがサマリヤの女に「エルサレムでもこの山でもない所で神を礼拝する日が来る。そうだ来ている」と言われるまで、エルサレムは地上で最も尊ばれていたのである。
 聖所に向かって逆らう言葉を語ることは出来ない。聖所に向けてその破滅を語る者があれば、敬虔な人、また敬虔と見られたく思う人は黙っておられない。恐らく命を賭してでもそれを制止しようとするであろう。ところが、エゼキエルはエルサレムの聖所の破滅を語ったのである。
 イエス・キリストは人々の尊んでいる神殿について、これが毀たれ、一つの石も他の石の上に残らなくなる日が来る、と言っておられた。これを伝え聞いて、人々はこれを神殿冒涜として憤激し、死刑に価すると見た。そのことを思い起こすならば、今エゼキエルが聖所について語っている言葉が、如何に人々の憤りを呼び起こしたかは想像出来よう。「石で撃ち殺せ!」と言う人がいたとは書かれていないが、いたはずである。バビロン政府の規制のもとに置かれていたから殺せなかったのである。エルサレムではエレミヤは生命を脅かされたのである。
 だが、エゼキエルの思いつきではなく、聖なる神ご自身が語れと命じられる言葉であるから、これは冒涜ではない。しかし、それを知らない人々には冒涜と見られたのである。神に従うことが神を冒涜するように見られることが今後もあるのを知って置きたい。この弁えがないと、自由に神に従うことは出来ないのである。
 「イスラエルの地に向かって預言せよ」。バビロンに囚われているイスラエルの中で語ったのであるが、この預言は祝福が約束されているイスラエルの地に向かって語られた。4節に「南から北まで」という言葉があるが、イスラエルの地の端から端まで適用される裁きである。この地は神が与えたもうたのであり、その名も神に与えられた。それが滅びると予告される。
 この預言はバビロンにいる囚われ人の中で語られ、彼らと大いに関係ある事柄ではあるが、聞いている囚われ人本人がどうなるかの預言ではない。彼らの本国についての預言である。勿論、よそごととして見ていて良いというわけではない。
 3節に神はいわれる。「私は私の剣を鞘から抜き、あなたがたの内から、正しい者も悪しき者をも断ってしまう」と。
 「私の剣」と神は呼びたもう。19節に「バビロン王の剣」とある。明らかに別のもの、いや対立するものでもあるが、今の場合、神の剣は現実にはバビロン王の剣によって行使されるのである。バビロン軍が振るう剣は、バビロン軍自身にその自覚はなくても、神の裁きの遂行のための器である。それには人の振るう武器以上の意味がある。
 ところで、剣というものを考えて見るに、創世記3章24節には「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた」と記しているが、人類の歴史において剣は失った楽園に踏み込めないように防ぎ、脅すものとして登場した。それは必ずしも人を滅ぼすためのものではない。敢えて楽園に踏み込もうとする者だけが滅びる。しかし、今、神の剣は滅ぼす剣である。剣は逃げる者を追って滅ぼす。
 「あなたがたの内から正しい者も悪しき者と共に断つ」と神は言われる。これは難しい問題だ。エゼキエル書18章で聞いたではないか。義人が罪人の罪を負って滅びることはない。「義人は必ず生きる」。どうして正しい者も滅びを共にしなければならないのか。それは、滅びがイスラエルの地全体に滅びが及ぶから、その地にいる人は皆滅びるのである。
 滅びるべき地の住民の大多数が悪人である時にはその地は滅びる。地が滅びるとき、その地に住む者は義人でも悪人でも滅びる。もしそこに住む多数者が正しい判断の出来る人であったなら、その地は滅びない。大多数とは言わず、過半数とは言わず、一つの町に五十人の義人がいたなら、その五十人のためにその町は滅びない。いや、五十人に五人欠けても町は滅ぼされない。三十人でも、二十人でも、十人でも滅ぼされない。これはアブラハムが主の前に立って、ソドムのために執り成したとき、神から聞き出した恵みの真理である。創世記18章に記されている。
 実際問題として言えば、正しい人は比較的少数であっても、その少数者は当然、知恵を尽くし、力を尽くして破滅を食い止めるであろう。そして、少なすぎては破滅を食い止められず、正しい者も悪しき者と共に滅びるほかない。神がその正しい少数者に対して怒っておられるのではないが、正しい者も裁きを受けなければならない。だから、神から来た災いが一つの地方を撃つ時、義人であるからといって災いを免れることにはならない。誰にも臨むべき災いが正しい人を避けて行くと考えるのは、間違いである。義人も災いを負わなければならない。ただし、それは呪いではない。永遠の破滅にはならない。
 だが、これでは神の公平に反するではないかと問う人がいるであろう。義人と罪人が等しく扱われることは不公平である。また、この地に住むが故に他の地に住む義人と同等に扱われないならば不公平である。その通り、神の地上の裁きは、まだ神の義を究極的に明らかにはしていない。神の公平と義は、来たるべき世において全うされるということを我々は知っている。地上の生涯の中では帳尻は合わない。であるから、この世で正しい人が苦しむことがあっても驚くには及ばない。この事情を知っている我々は、苦難に遭うことがあっても喜んで耐えねばならない。
 次に9節から10節にかけて主はこう言われる、「剣がある。研ぎ、かつ磨いた剣がある。
殺すために研いであり、稲妻のようにきらめくために磨いてある」。剣がどういう大きさ、どういう形であるかも分からないが、特別に研ぎ上げ、磨かれて、キラキラしている。創世記3章24節の「回る剣」を思い起こさせるが、神の剣であることをそのきらめきによって示している。だが、これは殺すために研ぎ澄まされた剣である。
 それに続いて、「私たちは喜ぶことが出来るか。我が子よ、あなたは杖と全て木で作った物とを軽んじた」というところは非常に分かりにくい。杖のように軽々と振り回されるということかも知れない。木で作った物とは偶像を指すのかも知れない。他の聖書を見ると他の訳が書いてあるが、それでもまだ難しい。
 14節に「人の子よ、あなたは預言し、手を打ち鳴らせ」と言われるが、リズミカルに回る剣に合わせて手を打ち鳴らすことを言うのではないかと思われる。17節には「私も私の手を打ち鳴らして私の怒りを鎮める」と言われる。
 18節から次の部分に入る。バビロン王の剣が来るために、二つの道を備えよ。この二つの道は一つの国から出ている」。バビロン王はシリヤまで進軍する。シリヤのリブラに陣を張る。それから先、道が二つに別れる。一つはアンモンのラバに向かう。もう一つはエルサレムに向かう。バビロン王はその分岐点で占いをする。
 これは大昔、どの国の軍隊でも戦争を始めるに当たって占いをした様子である。バビロンがアンモンを攻撃した事情については28節以下が語っているが、良く分からないところがある。バビロン軍はユダを攻めるかアンモンを攻めるか、決めないままシリヤまで来て、そこを出て道が二股になっている個所に来て、行く先をアンモンのラバかエルサレムか占いで決めた。ではアンモンへの裁きはなかったのか。そうではなく、アンモンにも剣が臨むことが描かれている。これはエルサレムに災いが来ないと安心している者に対する警告である。
 占いは矢とテラピムと肝によってなされた。矢というのは、これを真っ直ぐに立てて倒れる方向を見る、あるいは矢を集めてその中から一本の矢を抜き取って印を読むということである。テラピムはイスラエルでも昔用いられた小さい人形の偶像であって、首を縦に振るかどうかで伺いを立てたらしい。肝というのは羊その他の生贄の獣の腹を開いて内蔵の動き具合で神の御旨を読み取ろうとしたのである。
 バビロン軍がアンモンを討つかユダを討つのか決めないで国を出て来たとは本当であろうか。良く分からないが、バビロンがツロやラバを攻めるうちに戦いに飽きてエルサレムを攻めないで帰って来るという予測もあったようである。そういう人にはバビロンがバビロンなりにその神に問うてエルサレム攻撃を決めたということは大きいショックである。
 24-25節の「それゆえ、主なる神はこう言われる。あなたがたの罪は覚えられ、その反逆は現われ、その罪は全ての業に現われる。このように、あなたがたはすでに覚えられているから、彼らの手に捕らえられる。汚れた悪人であるイスラエルの君よ、あなたの終わりの刑罰の時であるその日が来る」というのは、占いによってユダの反逆が現われたと言っている。バビロンの支配に背いたことが明らかになって、バビロンが報復しに来たと言うよりも、身に応えたようである。ここでいう罪や反逆は神に対するものでなくバビロンに対するものであるが、それが隠されていると思っている。しかし、知られている。
 最後に見なければならない重要なのは27節である。「ああ破滅、破滅、破滅、私はこれを来させる。私が与える権威を持つ者が来る時まで、その跡形さえも残らない」。 破滅という言葉が三度も重ねられるのは破滅以外に何もないからである。しかし、神から権威を与えられた者が来る。その時、廃虚からの回復が始まる。救いの日は来た。メシヤが来たのである。エゼキエルはそれを待ち望むことを教えたのである。全ての祝福は奪い取られてしまった。しかし、メシヤが来ることは残っている。その約束は残っている。


目次へ