◆ Backnumber1999.08.29◆

エゼキエル書講解説教 第21回

――20:32-49によって――

 21章は、バビロンに捕らえ移された第7年5月10日に、エゼキエルのもとに預言を求めて来たイスラエルの長老たちに対する答えである。神は「私はあなたがたの尋ねることに答えない」と答えたもう。神はエゼキエルに「あなたは彼らを裁こうとするのか。それなら、彼らの先祖たちのした憎むべき事を彼らに知らせよ」と4節で言われた。
 先祖の罪を明らかにするとき、なぜ答えないかの理由が明らかになる。それは彼らの先祖たちの罪の故である。彼らは先祖たちの罪を罪と認めず、よしとして、それを改めず、そのまま引き継いでいる。具体的に言えば、先祖たちの罪とは、「人がこれを行なうことによって生きる」ところの律法を与えられたにも拘わらず、それを汚したことである。偶像を捨てよ、と言われたのに、大事にしている。安息日を聖とせよ、と命じられたのに、安息日を汚している。神が与えたもうた地に入ったのち、全ての高い丘と青木のもとで、異なる神々に礼拝を捧げてその地を汚した。その罪を子孫は見習った。そこで、31節には「私は決してあなたがたに尋ねられるはずがない」と結論のように答えられている。
 答えないと言われたのに、32節以後の御言葉がなお続く。――実は、これは続いているのでない、という解釈がある。5月10日の預言は31節で終わり、32節以下はズッと後のものだと考える人がいる。後で触れるが、数年後のものと見るならば、分かりにくい点で解決のつくものも多い。しかし、31節で終わっていると断定するには、なお根拠が不十分であるように思われるし、いろいろな解釈があるので、今は続いていると読んで置く。
 今日の学びに入るが、32節に「あなたがたの心にあること、すなわち『我々は異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない」と記される。長老たちの心にあることを預言者は読み取っていた。 これは、どういうことであろうか。あなたがたに御言葉は与えられない、と宣告された。「それでは、我々は異邦人と同じなのだから、彼らと同じように木や石を拝むことにしよう」と反抗的になったのか。あるいはまた、「木や石を拝む」とはバビロンの宗教の様式を取り入れるという意味かも知れない。バビロンで暮らす以上はバビロンの風習を受け入れなければならない、という含みがあるようにも思われる。
 「その考えは決して成就しない」とは、それに対し、「あなたがたは、神に反抗しようとしても出来ないぞ」と言われたのか。あるいはまた、イスラエルの人々が偶像礼拝に走って行こうとするのを、神がとどめたもうということか。ここもいろいろに読める。
 確かに、彼らの偶像礼拝の意図は挫折すると宣告される。だが、どういう経過で挫折するのか。33節では続いてこう言われる。「主なる神は言われる、『私は生きている。私は必ず、強い手と、伸べた腕と、注がれた憤りとをもって、あなたがたを治める』」。第一に見なければならないのは、神の意志が貫徹されるところでは、人々の計画や思惑は、どんなに必然性があるように見えたとしても、決して成就しない、ということである。
 だが、どういう意味でそれが成就しないのかを読み取らなければならない。神が人々の計画を砕きたもうからであるのは明らかだが、それはどのようにして砕かれるのか。偶像礼拝を願う不遜なイスラエルが破滅して何も出来ないのか。そうではないようである。34節を見よう。「私は我が強い手と、伸べた腕と、注がれた憤りとをもって、あなたがたをもろもろの民の中から導き出し、その散らされた国々から集め……」。つまり、かつて偶像礼拝の国エジプトからその民を導き出したもうたように、今度も偶像礼拝の地バビロンから導き出すからであると神は言われる。神が回復させたもう時偶像礼拝は成り立たない。
 しかし、その前に解決すべき難問がいくつかある。第一、33節で「私は強い手と、伸べた腕と、注がれた憤りをもって、あなたがたを治める」という場合の「治める」、これは「王となる」という意味であるが、王となって治めるという言葉は、権力支配であって恵みの支配の意味ではないのではないか、と考える人がいる。 第二に、「導き出す」という言葉をイスラエルの回復と取ってはならないのではないかという意見もある。38節に「あなたがたのうちから、従わぬ者と、私に背いた者とを分かち、その寄留した地から彼らを導き出す。しかし、彼らはイスラエルの地に入ることは出来ない」。これは不信仰な者を荒野に導き出して、そこで破滅させ、故郷に帰らせないという意味ではないのか。
 第三に、「注がれた憤りをもって」という言葉もハッキリさせねばならない。この表現は20章8節後半で、「私はエジプトの地のうちで私の憤りを彼らに注ぎ、私の怒りを彼らに漏らそうと思ったが、私は私の名のために行動した。それはエジプトの地から彼らを導き出して、周囲に住んでいた異邦人たちに、私のことを知らせ、私の名が彼らの目の前に辱められないためである」という個所にあるものだが、それと同じ意味でイスラエルに対する憤り、したがって滅びを言うのではないかとも考えられる。「注がれた憤り」はイスラエルの回復に馴染まないが、回復の意味に取るとすれば、救いの遂行を妨げる者に対して神が激しく憤りたもうという意味になる。だが、そうでないとも取れる。
 大別して、ここには回復と救いが語られると取る人と、裁きと滅びが示されると取る人とに解釈者は別れる。裁きの意味に取るとすれば、導き出して荒野に入れ、「その所で顔と顔とを合わせて、あなたがたを裁く」というのは、バビロンから連れ出して、シリヤの砂漠で審判を行なうという意味になる。だが、導き出す、散らされた国から集める、というのは、40節以下の言葉が疑う余地なくエルサレムの回復を示すように、イスラエルの回復を意味していると取らなければならないのではないか。 しかし、裁きの意味が読み取られるという事情を捨て去ってはならないのではないか。回復は裁きを経ての回復である。出エジプトの時もエジプトからソックリ救われたのではなく、出エジプトをした世代は40年の試練の期間に二人の例外を除いて荒野で死に絶えたではないか。我々の救いも火の試練を経てのものである。
 かつて神がイスラエルをエジプトから導き出した時、シナイ山で契約を立て、「私はあなたがたを奴隷の国エジプトから導き出したあなたがたの神、主である。だから、あなたがたは私以外の何者をも神としてはならない」と命じたもうた。それまでイスラエルの中で、先祖の言い伝えが語られ、先祖の信じた神についても若干のことは教えられていたが、彼らの礼拝生活は多神教の国、偶像に満ちたエジプトで、全く乱れ、衰退していた。シナイの契約によって彼らは唯一のまことの神への礼拝を建て直す。そして、その礼拝の第一の要点は、第二戒にあるが、神を、刻んだ像によって表わさない、ということであった。
 紀元前597年、エルサレムが敗れ、国の主立った人々が王エホヤキンとともに人質としてバビロンに囚われて行き、ユダの国はバビロンの属国のような形で辛うじて存続を許されたが、人々は神の契約をあてにし、主はその民を見捨てたまわないから、ユダは必ず復興する、と信じ、預言者の警告に逆らって、バビロンへの反逆を準備した。しかし、預言者の言った通り、エルサレムは滅亡し、人々は国を失った。この事は人々にとって、神との契約の喪失と思われたのである。
 ここで事情がかなり明らかになったのではないか。「国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう」というのは、神への反逆には違いないが、高ぶって神に対立して、神の代わりに木や石を拝むという強気ではない。分かりやすく言えば、絶望したのだ。先祖たちの神から捨てられたと感じた。だが、人は何か頼るものを持たないでは生きて行けない。何でも良いから、それを自分たちの神であると見做して、それを拝もう、ということになる。「あなたがたの心にあること」というのはそういう意味ではないか。
 先程、32節以下は別の機会の預言ではないかと言う人がいることに触れた。エルサレムが滅びたという知らせが入って、我々の望みとしていた神に捨てられた、と失意のドン底に突き落とされた人々の状況を考えれば、分かりやすい。ただし、その状態に至ってからの後日の預言ではなく、第7年5月の預言であると見ることは出来る。人はその場になって見ないと考えられないのであるが、神は遥か以前から見ておられる。ただ、人は遥か以前から見られていたことを示されても、神の予知を抽象的に捉えるだけで終わり勝ちだから、エルサレム滅亡後の状況に身を置いて、具体的な場面を考えた方が分かりやすいであろう。
 さて、囚われ人は、これまで自らが神の民であると自負していた。真実に神の民に相応しい立ち居振る舞いをしたかどうかは別問題である。むしろ、正しい意味での神の民の生き方に反し、様々な点で神の戒めを犯しながら、神の民という名に誇りと安心感を持った。今しばらくはバビロンで捕囚の憂き目を見なければならないとしても、数年のうちにエルサレムは回復し、自分たちは勝利者として故郷に帰れる、と捕囚の民は信じていた。
 しかし、我々が知るように、エルサレムは10年後二度目の敗北を喫し、ついにユダ王国は滅亡し、ダビデの王朝は消滅し、ユダヤ人は亡国の民になる。32節以下に述べられる事態は、ユダ王国滅亡後を描いたものである。「神は我々を捨てたもうた。我々には帰り行く故郷がなくなった。我々の神を礼拝する場所もなくなった」と彼らは感じた。 それならば、諸国民と同じように、木や石を拝む民になるほかない、という絶望が32節に書かれていることなのだ。それに対して、神が「否」と言われる。私は生きているから、決してそうはさせない。
 「木や石」という言い方が事情の一端を示している。それは木や石に過ぎないということが普通の常識を持っている人には分かっているのだ。異邦人は木や石に過ぎない物をあたかも神であるかのように思って拝んでいる。そのことをイスラエル人はつい先頃まで軽蔑していた、という事情がここに読み取れるのではないだろうか。今や、人のことを笑ってはおられない。我々も木や石に過ぎないと分かっていながら、それを神であるということにして、心の安心のために礼拝せざるを得ないようになった、と諦めているのである。
 それに対して神は言われる、「私は生きている。私はいなくなったのでも、眠っているのでも、無力になったのでもない。私は強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたをもろもろの民の中から導き出す」。強い手とは神の力を指す。伸べた腕は神の力がどこまでも届くことを指す。注がれた憤りは、ここでは神の熱心を示す。
 「私は生きている」という御言葉はしばしば聞く神の宣言である。この章でも、初めのところ3節で聞いた。「あなたがたが私のもとに来たのは私に何か尋ねるためであるか。主なる神は言われる、私は生きている。私はあなたがたの尋ねに答えない」。そして31節でも聞いた、「私は生きている。私は決してあなたがたに尋ねられるはずがない」。
 「私は生きている」とは決まり文句ではない。強い主張である。神が生きていますと本当は思っていない者に対する神の強烈な反撃である。今の場合、人々は神に見捨てられた。神は死んだと同じである、と思っている。それに対する反撃として神はこう言われた。
 「私は我が強い手と、伸べた腕と、注がれた憤りとをもって、あなたがたを治める。あなたがたをもろもろの民の中から導き出し、その散らされた国々から集める」。言うならば、再度の出エジプトである。
 モーセの指導のもとに行なわれた最初の出エジプトの絶大な意義を思い起こす。その事件は旧約聖書の中で繰り返し注意を促されるイスラエルの成立の基礎、神の力と恵みの基本的体験である。我々にも、十戒を聞くたびに、また我らの過ぎ越しなるキリスト・イエスの死を記念する聖なる晩餐の行なわれる度に、思い起こさせられる。すなわち、我々も罪の奴隷であったところから贖い出されて神の民となったのであるが、我々の罪からの解放を指し示していたのが旧約の出エジプトである。
 それとともに、旧約聖書が、もう一度起こる出エジプトにしばしば言及していることも思い起こさずにおられない。例えば、エレミヤ書16章14-15節で言う、「主は言われる、『それゆえ、見よ、こののち<イスラエルの民をエジプトの地から導き出した主は生きておられる>とは言わないで、<イスラエルの民を北の国と、その全て追いやられた国々から導き出した主は生きておられる>と言う日が来る。私は彼らを、その先祖に与えた彼らの地に導き返すからである』」。再度の出エジプトとされるのは、バビロンの捕囚からの解放、故郷への帰還、エルサレム神殿の再建である。
 エレミヤ書にはこの種の預言が特に多いが、もう一個所引く。有名な31章31節以下である。「主は言われる、見よ、私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約は私が彼らの先祖を、その手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはその私の契約を破った、と主は言われる。しかし、それらの日の後に私がイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわち、私は私の律法を彼らの内に置き、その心に記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる、と主は言われる。人はもはや、各々その隣とその兄弟に教えて、『あなたがたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、私を知るようになるからである、と主は言われる。私は彼らの不義を赦し、もはやその罪を思わない」。
 エレミヤは、再度の出エジプトが、我々の主イエス・キリストの新しい契約によって、石に刻まれる律法でなく、聖霊の力で心に刻まれる福音によって実現することを語っている。今日エゼキエルから聞くのもそれである。
 36節には「エジプトの地の荒野で、あなたがたの先祖を裁いたように、私はあなたがたを裁く、と主なる神は言われる」と書かれる。裁きと言われているのは、シナイにおいて神がイスラエルと出会いたもうたことを指す。裁きとは多くの場合有罪判決の申し渡しであり、刑の執行に直結するのであるが、無罪宣告の場合もある。神の裁きは神の義を現わすのである。それは救いを指すことでもある。
 次に「私はあなたがたに鞭の下を通らせ、数えて入らせる」と言われる。羊飼いが羊の群れを一列にして鞭の下を通らせて数を確認することを指している。牧者が羊を一匹洩らさず掌握するように、神はご自身の民を一人残らず把握される。そういう日が来るのであると言われる。それはイエス・キリストがヨハネ伝10章で成就を宣言されたことである。
 また40節で言われる、「私の聖なる山、イスラエルの高い山の上で、イスラエルの全家はその地で、ことごとく私に仕える。その所で私は喜んで彼らを受け入れ、あなたがたの捧げ物と最上の供え物とを、その聖なる捧げ物とともに求める」。エルサレムの回復であり、神に受け入れられる礼拝の回復である。
 今やその回復の時になった。そこで、ローマ書12章の御言葉を聞こう、「兄弟たちよ、そういうわけで、神の憐れみによってあなたがたに勧める。あなたがたの体を神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として捧げなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。

目次へ