◆ Backnumber1999.07.25.◆

エゼキエル書講解説教 第20回

――20:1-31によって――

「第7年の5月10日に、主の言葉が私に臨んだ」。それはイスラエルの長老たちのある人々が、主に尋ねるために預言者エゼキエルのもとに来てエゼキエルの前に座した時であった。
 何が起こっていたのか。先ず、「第7年5月10日」という時期であるが、8章1節に、第6年6月5日という日付があってから11ヶ月後のことである。そして、1章の2節にエゼキエルが預言者として召された日を「エホヤキン王の捕らえ移された第5年」とするのと同じ数え方によると思われる。さて、5月10日に長老たちのある者らが主に問うために預言者のもとに来た。主に問うとは、主の御心を問うて、それに従うためのものであるが、これを信仰的なことと見るのは必ずしも的確な理解ではない。
 預言者を通じて主に問うて後、実行するというのは、古代の人々の通常の行動方式であって、信仰者も不信仰者も行なっていた。信仰的な場合もあるが、今日の迷信的な人たちが占い師に運勢を見てもらってから決定するのと違わない場合もある。昔の軍隊は祭司を連れて行って、攻撃を始める時間を神に問うてから決めて、実行した。
 ダビデ王が神の宮を建てようとして、先ず預言者ナタンに尋ねたということがサムエル記下の7章に記されている。これは神のために宮を建てるという、問うまでもなく信仰的と思われる業も、自分の常識で判断して実行に移すのでなく、先ず神に問うて決定した、信仰の模範例であると見られる。この場合、そう見るのはそれで良いが、預言者に問うこと自体を過大評価してはならない。
 エレミヤ書37章16節以下に記録されている一つの事件を思い起こす。「エレミヤが地下の獄屋に入って、そこに多くの日を送って後、ゼデキヤ王は人を遣わし、彼を連れて来させた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った、『主から何かお言葉があったか』。エレミヤは『あった』と答えた。そして言った、『あなたはバビロン王の手に引き渡されます』」。――時に、エルサレムはバビロン軍の囲いのもとにあった。エレミヤはバビロンに降伏して生き延びよと説教する。政府はバビロンと戦うと決めた方針を撤回することが出来ず、エレミヤを挙国一致を乱す危険人物として監禁する。しかし、ゼデキヤ王はひそかにエレミヤを連れて来させ、意見を聞いている。不安があるからである。
 エレミヤ書の38章にはこれとは別のもう一つの同様な事件が記されている。14節、ゼデキヤ王は人を遣わして預言者エレミヤを主の宮の第三の門に連れて来さて言う、「あなたに尋ねたいことがある。何事も私に隠してはならない」。
 王としては不安で堪らないのである。溺れる者は藁をも掴むという諺の通り何か確かなものを掴みたい。では、エレミヤを通じて示される主の御旨に従ったのか。そうではない。エレミヤの言う通り降伏すれば、エルサレム市民の命と兵士の命を救うことになるが、自分の地位を失うであろうと恐れて、決断を先送りする。戦争を始めはしたが、終わらせる決断がつかない間に、人々はどんどん殺されて行く。これとソックリ同じような優柔不断で無責任かつ自己保全的な王を我々はこの日本でも見ることが出来た。
 以上のように、預言者に問うこと自体は別に信仰的ではない。「長老たちの或るものら」が来たと言うが、8章1節の場合は「長老たちが私の前に座していた」とあった。これはエゼキエルが長老たちを召集したのであろうと思われる。今度の場合は長老の有志が自発的に来たのである。預言者に聞こうとして来たのであるが、信仰をもって聞こうとしたわけではない。
 彼らは何を考えて、預言者に尋ねるために来たのか。勿論、何の前提もなく、ただ不安であるから主の教えを受けようとして来た、と見ても良い。だが、次回に学ぶ予定の32節に記されることを考えていたのではないか。「あなたがたの心にあること、すなわち『我々は異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない」。この思いが心にあって、それについて伺いを立てるために、預言者エゼキエルのもとに来たと見ても良いのではないか。
 バビロンに囚われてもう7年目である。神から見捨てられたという感じが募って、神の戒めに従うことが苦痛になっている。本国にいた時でさえ、主の戒めを守る宗教生活を窮屈なものと感じていた。異邦人の地バビロンに来て、周囲の人々に融けこんだ生活を営むのが本当ではないかという考えが出て来た。ユダヤ本国にいるならいざ知らず、エルサレムの宮から遠く離れて、礼拝に行くことが不可能な状況の中で、この地の人がみんなしているように、木や石で神の形を作って、それを用いて礼拝生活をして行くべきではないか。彼らはそう思った。
 彼らがイスラエルの神、主から離れ、主を捨てようとしていたのかどうかはハッキリしない。預言者エゼキエルのところに来て問うのであるから、神を捨てるつもりではないと取るのが自然である。ただ、異邦人の間に混じって生活し、彼らと協調して生きなければならない状況にあって、彼らから孤立してはいけないのではないか。だから、彼らの生活の流儀を柔軟に採り入れて良いのではないか。そう考えてエゼキエルのところに来たのではないだろうか。
 バビロンは偶像で満ちた都であったと言われる。長老たちはイスラエルの神を捨てて、バビロンの神に乗り換えると言っているのではないらしい。むしろ、バビロンの神々に負けない立派な神像を我々も作ろうではないか、それで目を楽しませようではないか、と考えたのであろう。
 「木や石を拝む」というのは、上述の通り、神を捨てることでは必ずしもない。少なくとも、当人自身はそう思っていない場合がある。典型的なのは、出エジプト記32章に記されたアロンの行動である。モーセが山に登ったまま降りて来るのが余りに遅いので、人々は不安になってアロンのもとに集まり、「私たちのために先立ち行く神を見せてくれ」と要求する。アロンは彼らに、女たちから装身具の金を供出させるよう命じ、集まった材料で金の子牛を作って、「イスラエルよ、これはあなたがたをエジプトから導き上ったあなたがたの神である」と言う。彼はこの子牛の前に祭壇を設けて、大々的な礼拝を捧げた。そこへモーセが降りて来て、烈火の如く怒る。
 神以外を拝んではならないのであるが、どのように示された神を拝むかが重要である。「これがあなたがたの神である」と示された像を受け入れて、自分の神として真剣に拝めば良いというものではない。霊なる神は、ご自身の姿が物体に刻まれ、見える形に象徴されて示されることを禁じたもう。見えざる神は、ただ御言葉によってご自身の尊厳を現わしたもう。神礼拝は霊とまことによってなされる。この定めにもとる者は三・四代に亘って神の呪いを受けなければならない、と十戒の第二戒で警告されている。
 さて、長老の中の或る者らが来た時、エゼキエルは彼らを叱責するのであるが、その叱責の具体的な点は、偶像礼拝と安息日の冒涜に関するものである。この叱責は神の指示にしたがって行なわれ、エゼキエル自身の判断ではない。神は言われる、3節に言う、「人の子よ、イスラエルの長老たちに告げて言え、主なる神はこう言われる、あなたがたが私のもとに来たのは、私に何か尋ねるためであるか。主なる神は言われる、私は生きている、私はあなたがたの尋ねに答えない」。31節でも結論的に言われる、「イスラエルの家よ、私はなおあなたがたに尋ねられるべきであろうか。私は生きている。私は決してあなたがたに尋ねられるはずがない」。
 それでは何も答えられなかったのか。そうではない。実際は多くの事が答えられている。単に裁きの言葉があるだけでなく、恵みの言葉も聞かせられる。
 4節で「あなたは彼らを裁こうとするのか。人の子よ、あなたは彼らを裁こうとするのか。それなら、彼らの先祖たちのした憎むべき事を彼らに知らせよ。云々」と主はエゼキエルに強く指示を与えたもうた。ここで先祖というのは、信仰の父アブラハムではなく、エジプトの奴隷であった先祖である。
 5節に「私がイスラエルを選び、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で私自身を彼らに知らせ、彼らに誓って、私はあなたがたの神、主であると言った日、その日に私は彼らに誓って、エジプトの地から彼らを導き出し、私が彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最も素晴らしい所へ行かせると言った」。神は奴隷になっていた民族を選んでご自身の民とされた。だから、彼らはエジプトのもろもろの汚れを捨てて出て来なければならなかった。しかし、彼らはエジプトの汚れを持ったまま出て来た。荒野で掟が与えられても、彼らはそれを守らなかった。
 今の人が現に犯している罪について裁く前に、彼らの先祖がした憎むべきことを彼らに告知しなければならない、と主は言われる。自分の罪を指摘されても、それを罪であると認めることは容易ではない。だが、他者の罪は割合よく見える。ということは、悪いのは先祖たちであって、今来ている長老たちではないということか。そうではない。罪を教える順序としては、先ず先祖の罪を教える。しかし、それで終わるわけではない。
 神は続けて言われる。18節、「私はまた荒野で彼らの子どもたちに言った、あなたがたの先祖の定めに歩んではならない。その掟を守ってはならない。その偶像をもって、あなたがたの身を汚してはならない」。大人より子どもの方が純粋な出発が出来たはずである。
 ところが、その子たちは24節にあるように「その目に先祖の偶像を慕った」。子たちというのは出エジプトをした親たちの連れて来た子たちである。先祖たちの罪を語るのに続いて、子らが先祖の罪を引き継いで罪を重ねて来たことをも語る。今日の人の罪を裁くのは、このような手順を踏んで行なうべきであると主は教えたもう。
 バビロンに囚われて来て7年、捕囚の生活の厳しさの中で、新しく考えたことを預言者に問うてみようと、長老たちは来た。こういう現実だから、前のままの考えでは通用しないのではないか、と長老たちは考えている。しかし、その考えは間違っている。先祖が神の戒めに背き、その子がその罪を受け継ぎ、代々罪が繰り返され、今も同じである。単に先祖の罪の負債、債務が受け継がれたというのではない。先祖たちと別の考えに立っているかのように思っているが、同じことをしている。それを裁かなければならない。預言者の務めはこれである、と主はエゼキエルに示したもう。
 これは我々にとっての今日的問題ではないか。日本の罪責と日本の教会の罪責を論じる手順が示されているのだ。先祖の罪から始めるのが良い。日本の先祖が琉球王国を征服し、台湾を征服し、朝鮮王国を征服し、中国を侵略し、数々の征服と侵略を重ねて来た罪はまことにひどいものであった。その征服をしたものの子たちは、先祖の悪どさを見て自らは身を慎んだか。決してそうでなく、先祖の罪を見習って、もっと悪いことを重ねた。そして今もしているのである。見張りたるもの、これを黙って見ていて良いのか。
 教会の問題に絞った方が良かろう。日本の教会は、日本に置かれた主の教会として、日本に属さず、キリストに属し、地上に属さず、天に属する。地上においては地の塩である。それは少量であっても全体を味付け、腐敗を食い止めるはずである。ところが、名前だけ地の塩であっても、実質的に塩でなくなっているならば、それが置かれていても周囲の腐敗を食い止めることが出来ない。そういう罪が世代を追って膨張して来ている。こうして、教会の芯まで腐って来たのではないだろうか。この事柄を明らかにするためには、先祖たちの罪から検討を始めなければならない。ただし、先祖の罪の追及だけは熱心にやるけれども、今の世代の罪には思い至らない、というような不徹底ではいけない。
 ここで、具体的に、主の戒めを聞き、それに照らして己れの行ないを検討しなければならない。先ず、偶像礼拝の禁止である。日本の教会は押し付けられ脅かされて天皇礼拝と神社参拝をした。心の中では頭は下げていなかった、と言い訳しても始まらない。 次に安息日の厳守である。安息日については主イエスが新しい自由な守り方を教え、「安息日のために人があるのでなく、人のために安息日がある」と教えたもうた。だから守らなくて良くなった、と言う人がいるが、自分の自由にしたがっているようであっても、実際は魂の解放から遠のく方向に行っている。
 主イエスは新しい主の日を守る道を示したもうたが、安息日を守ることの意味は変わっていない。では、どういう意味があるか。12節、また20節がそれを教えている。「わが安息日を聖別せよ。これは私とあなたがたの間のしるしとなって、主なる私があなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである」。
 今日、日曜日の礼拝を守ることは我々が主の民であることの「識し」である。勿論、しるしであるから、これが実質であると思っては間違いである。しかし、主の民であることを真剣に願い求めている者が、主の民である自己自身を確認するためには、この手段を用いれば良いのである。
 「我、聖なれば、汝らも聖なるべし」と神は言われる。その通りであると我々は思う。だが、神が聖でありたもうように我々も聖なる者になろうとすると、我々は目標に達しないのに疲れ果てて、殆ど絶望せざるを得ない。自らが余りにも汚れているからである。「己れを愛する如く汝の隣りを愛すべし」と命じられているが、自分を愛する何万分の一かしか隣り人を愛していない。
 これでは神の民である識しにはならないのである。実際、神を信じていない人の中に、献身的な愛において我々よりも優れた人が幾らもいるのである。だから、愛の行ないの実践ということが識しとして問われるならば、我々は退けられるほかない。どんなに立派に業を行なっても、自分が神の民であることは確認出来ない。そういう者のために、特定の日を聖なる日として聖別するこの「識し」が有効なのである。
 今日の聖句で学ぶところは非常に苛烈な叱責であるが、もっと大事なことを見て置かねばならない。この章で我々が繰り返し聞く言葉がある。8節後半から9節に掛けて、「それで、私はエジプトの地のうちで私の憤りを彼らに注ぎ、私の怒りを彼らに漏らそうと思った、しかし私は私の名のために行動した」。13節後半から14節に掛けて言う、「そこで私は荒野で、私の憤りを彼らの上に注ぎ、これを滅ぼそうと思ったが、私は私の名のために行動した」。同じ言葉が21節後半から22節に掛けて言われている。救いがどこから来るかが示される。
 主はご自身の名の故にイスラエルを滅ぼすことを避けたもうた。すなわち、イスラエルの故にこれを惜しみたもうたのではない。彼らに価値や意味があって救いが実現するのではない。主の御名のほまれの故に救が来るのである。

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