渡辺牧師のプロフィール

東京告白教会の渡辺信夫牧師を訪問し、
ホームページ読者を代表して、お話を聞きました。

◆お年を召していらっしゃるようですが?
1923年生まれです。現役の牧師の中では一番古い人間になってしまいました。もう半世紀牧師として働いて来ました。

◆使命を感じて働いて来られたということでしょうか?
神によってこの使命に立たせられていることはハッキリ自覚していますが、使命感というようなものとは違うのではないかと思います。自分がしなければならない。自分でなければならない、という気負いはないのです。強いて言えば、せざるを得ない、なぜなら、これまで余りにもすべきことを果たさなかったから、という感じに追い立てられて走って来ました。牧師になった時にもこの感じがありましたが、今でもズーッと続いているのです。

◆初めの時のことを話して下さいますか?
私は戦争に行きました。1943年の12月から敗戦まで海軍にいたのです。その前からクリスチャンでした。だから、クリスチャンとして軍隊に入り、戦場に出ることについてはそれなりの理由付けがあったわけです。ところが、自分で納得していたことが間違っていたと戦争の中で気付きました。どういうふうに間違っていたかも分かりませんでした。
そして敗戦。自分自身のどこが間違いであったかを突き詰めることを始めなければなりませんでした。それから、長い間、考え考えして歩んで来ました。

◆それで伝道者の道を選んだのですか?
そうではないのです。自分で選んだのではありません。自分の意志なしで牧師になったと言うとヘンに思われるでしょうが、当時、私が属していた教会の牧師が転出し、後任者がなかなか得られず、強い勧めがあって、私が試験を受けて牧師になったのです。その頃、私はある大学に勤めていました。学問が自分の使命だと考えていたのです。自分で選んだ道はそれでしたが、その道を捨てたわけです。十分な理由付けは出来ませんでしたが、私の意志を超えたもの、神の意志をそこに感じないではおられませんでした。
その感じは間違っていなかったと思います。

◆戦争罪責ということを論じておられますが、牧師になったことと罪責意識は結びついているのでしょうか?
確かに無関係ではありません。しかし、初めのうちは、そのような意識もありませんでした。私が戦争罪責を言い出すのは25年ほどしてからです。私が戦争に関わったのはどういうことなのかが分かりませんでした。ズッと考え続けていたのです。私は何回か死にかけています。海防艦勤務で沖縄方面の輸送作戦に従事していましたから、沈まなかったのが不思議です。だから、自分が生き残らせられた意味は何なのか? 同じ状況に置かれて死んで行った人たちに対する生き残った者の責任があるではないか? そういうことは考えていました。ですから、平和を守ることについては、考えもし、行動もして来ました。しかし、平和運動家になってしまうのでなく、自分の存在の中心を置くのは牧師として召されたこの務めである、ということは終始考えています。

◆どういうふうに牧師の仕事をして来られましたか?
私は神学校を経ないで、検定試験を受けてこの務めに就いたでしょう。だから、学びながら走り出しました。今も学びつつ走っているのです。素人なのですね。未完成というよりは欠陥製品にたとえた方がピッタリではないでしょうか。ですから、私の説教を聞いている方々には相済まないという感じがありますよ。

◆しかし、欠陥を自覚しない牧師よりは、自分の欠陥を意識するほうが正しいのだという自負を持っておられるのではないですか?
仰っしゃる通りです。人から見て、この自負に嫌らしさを感じることがあるのではないでしょうか? ソクラテスが教えてくれるように、「知らない」と自覚することが「知っている」と慢心するよりも真実なのですから、欠陥があると自覚する方が優位になりますね。しかし、欠陥があるとは、そこに居直ることではなく、欠陥克服のための学びの継続になるわけで、学び続けることをしないなら、その人は自分の欠陥を本当は知っていないことになるのです。

◆牧師になってから一貫して追求して来られたことは何でしょうか?
「教会とは何か?」ということです。これは戦争中から引きずっている問題です。今、詳しい話しは省略しますが、戦争中、私は教会が崩壊して行くという感じを持ちました。実は、自分自身も崩壊して行くのに、自分のことを取り上げないで、教会のことを論じる資格はないではないかと言われると思うのですが、それはそうとして、教会の問題を論じることが出来ないと言ってはならないでしょう。恨みがましく言うのではありませんが、戦争中、教会は軍隊に取られて行く若者たちを見殺しにしましたね。韓国の教会が神社参拝を押し付けられて苦悩していた時、日本の教会はこの苦悩を理解しないどころか、苦しみを増し加えるようなことしかしませんでした。教会が教会であるとはどういうことなのか、本当に教会であるのか、というような問題を考える人は今日でも非常に少数です。

◆本をいろいろ書いておられますね? 翻訳もありますね?
翻訳は自分の納得しているものだけしかしていません。一番古いのは40年以上前の、その後改訳を一度試みて今も判を重ねているクセジュ文庫のレオナール
「プロテスタントの歴史」
それからドイツの教会闘争の指導者ヴィルヘルム・ニーゼルのもの三つ。
「教会の改革と形成」
「カルヴァンの神学」
「福音と諸教会」です。
それからカルヴァンのもの。これは沢山あります。
著作としては、第一に、教会論に関するもの。
「教会論入門」
「教会が教会であるために」
「今、教会を考える」
「カルヴァンの教会論」が主なものです。
第二に、カルヴァンと宗教改革に関するもの。先に上げた
「カルヴァンの教会論」
「神と魂と世界と」
「カルヴァンの『キリスト教綱要』について」その他があります。
欧文で発表した論文も幾つかあります
。 第三に説教集があります。
第四に、雑文と言われると思いますが、自分としては証しの文章として書いたものがあります。
「ライ園留学記」
「沖縄ライ園留学記」
「戦争責任と戦後責任」
「戦争罪責を担って」
「イリアン・ジャヤへの道」があります。
「アジア伝道史」も歴史書というよりは証しの書と言った方が良いかも知れません。

◆今後お書きになる予定のものはありませんか?
新しく書くことは余りないでしょう。能力が低下しているからです。しかし、これまでに書き上げてまだ出版されていないものがあります。それに、現在雑誌「福音と世界」に連載中の趙寿玉さんのインターヴューがやがて本になります。趙寿玉(ちょう・すおく)さんは韓国の方で、神社参拝が押し付けられた時、それに従わず、6年間投獄されていた方です。

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