2007.09.02

 

使徒行伝講解説教 第99

 

――15:6-7によって――

 

 

 エルサレムの教会でこれまで問題が起こった時、それを解決するために取られた処置は協議することであった。そのうち特に重要なのは、6章に記される。すなわち、ギリシャ語を使うユダヤ人からヘブル語を使うユダヤ人に対する苦情が出た。ギリシャ語を使うユダヤ人の側の寡婦たちの援助が手薄になり勝ちで、不平等である、というものであった。この時は使徒たちが処置を決めて、それをペテロが会衆に申し渡した。会衆は7人を選挙して、これまで使徒たちだけで担っていた務めのこの部分を受け持たせた。

 今回は使徒と長老の会議である。「長老」がどの時期に教会制度になったのかは分からない。イスラエルには遥か昔から、モーセによって立てられた70人の長老による指導体制があったから、キリスト教会がその長老制度を採り入れたことはごく当然である。その長老たちがキリストによって立てられた使徒と一つになって会議を開いて事を決めるという制度がいつからのものか。それは分からないが、使徒行伝1130節にアンテオケからの援助金が「長老」たちに渡されたと書かれている。これがエルサレム教会の長老に関する最初の記録である。

 使徒行伝6章にあった選ばれた7人が、この時援助金を渡された長老だったという説がある。そうかも知れないが、そうでないかも知れない。6章で選ばれた7人は「執事」であるという解釈の方が広く行き渡っている。

 前の章で、デルベ、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町で教会ごとに長老が立てられたことを見たが、そのような長老制度は、すでにその前からエルサレムその他の教会にはあったと考えるのが自然ではないか。

 4節に「彼らは教会と使徒たち・長老たちに迎えられた」と書かれているが、教会、使徒、長老を一応区別していることに注意して置こう。長老と呼ばれるようになった人たちは、弟子のうちから選ばれた。6章にあった選ばれた7人も按手を受けたと書かれているから、エルサレム教会で選ばれた長老たちも按手を受けたに違いない。しかし、今ここでは長老の帯びた権威については論じない。23節に「あなた方の兄弟である使徒及び長老」という言葉がある。兄弟という点が重要である。等しくキリストにあって神の子である。一段上の階級ではない。それと共に、長老は務めに任じられたということも重要である。務めは重要であるから、務めを担う人が重んじられねばならない場合が起こるであろう。使徒の務めと長老の務めの比較には今触れない。すなわち、務めは主から来ているから、その比較を論じる必要はない。それ以上のことは今は触れない。

 使徒と長老が会議を開いたが、それは話し合って、ことを纏めるというような手続きではない。この時の決定について、彼らは文書で「聖霊と我々は」と28節で言っている。彼らが同意したというよりは、聖霊の御旨を聞き取って確認したという意味である。多くの人が集まって議論したから正しいという意味はここにはない。キリストの御言葉を思い起こし、また聖霊の御旨を聞き取ることに相応しいということで選ばれて立てられた器が、御言葉を聞いて決議したのである。

 今日は6節から学ぶが、「そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった」と記されている。

 「集まった」とは集会を開いたという意味である。会議と言ってよい。ここには「エクレーシア」という言葉が使われるが、これは我々の知るように教会と訳される言葉である。実際、会議は本質的に教会なのだ。召されて集まった群れである。そこでは主の主権が現れる。ここで開かれたエクレーシアは、パウロとバルナバがエルサレムに到着した時、彼らを迎えた教会ではなく、使徒と長老のエクレーシアである。

 なお、この会議には使徒と長老という正議員のほかに傍聴者がいた。12節にあるバルナバとパウロの発言は発言を許された議員外の者の発言だということが十分読み取れる。また、この12節にある「全会衆」がいたという。全会衆がこの時まで自由に意見を述べていたということではない。傍聴者である。アンテオケから行った何人かの人も傍聴者である。その中に異邦人で無割礼のテトスもいたはずである。

 「審議する」という余り聞き慣れない言葉が使われている。集まって感想を述べ合うというような軽い意味はない。法廷を開いて裁判をするほどの重大な意味の言葉である。パウロとバルナバを裁判に掛けたのではないかと取る人もいるが、そのような険しい雰囲気は感じられない。しかし、ことは重大であり、厳粛に扱われた。

 「この問題」とは、5節にあった「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と強硬に主張する人がいて起こった問題である。問題が表面化したのは先ずアンテオケ教会においてであって、1節で読んだ通りである。それは地方的に解決されることではないので、問題はエルサレムに持ち込まれた。

 教会の中で二つの主張が対立した。パリサイ派から信仰に入った人たちは、異邦人の入信者には割礼を受けさせ、モーセ律法を守らせるべきである、と主張し、それに賛成する人もいた。もう一方には、パウロやバルナバが現に実行していて、その報告を聞いて、これを是とする人々がいた。

 後者の主張の起源はどこまで遡ることが出来るか。ハッキリした記録はないのだが、アンテオケ教会がバルナバとパウロを異邦人伝道に派遣した時、すでにその理解であったと見て良い。それ以前、この見解の実行例があったとは見られないが、こういう意見をバルナバはエルサレムにいた時から持っていた。彼がエルサレムから遣わされてアンテオケに下ったときには、これを実行しようと考えていたと思う。

 それとどう関係するかは分からないが、ペテロが主の示される幻によって、カイザリヤに行って、紛れもない異邦人伝道を始めたこと、その時彼が語ったことも同じ内容である。これは続いて7節で読まれる。

 もっと前にステパノがそうであったと想像される。彼が殺された理由はこの理解に関係がある。そして、さらに遡れば、イエス・キリストに淵源を求めなければならない。主イエスは律法を守らないことで、パリサイ派からしばしば攻撃されたもうたし、主ご自身堂々と反論しておられる。旧約の時代に通用していた律法解釈は、律法の目指していたもの、すなわちメシヤの到来によって、目的を達したから、終わりになった。律法の規定の拘束力はなくなった。

 では、キリストが来られた以上、もう廃止されたと見なければならない律法遵守に、なお拘っている人々を教会はなぜ排除しなかったのか。妥協ではないのか。――そういう疑念を持つ人は今も少なからずいるであろう。この時の決定は20節また28-29節に書かれている。この決定については、後で詳しく見ることにするが、差し当たって心に留めて置くべき幾つかの点に触れる。

 この時のエルサレム会議には二つの課題、あるいは目標があった。一つは真理を明らかにすること。つまり教理の条項を確定すること、と言って良いであろう。もう一つは教会の一致を守ることである。

 キリストは「私について来なさい」と言われた。この一言に全てが含まれる。しかし、キリストに随いて行く者は、置かれた状況の中で、なすべきこと、なすべからざることを見分けなければならないから、単純に随いて行きさえすれば良いというのではない。何が主の御旨に適っているかを判定しなければならない。それはイエス・キリストを主と信じる信仰の原理に則って判断される。その信仰の原理は、信仰の箇条、あるいは信条という形に纏められる。教会が信条を制定したのは、この次の時代である。エルサレムの使徒会議が決定したことは、まだ信条と言うべき段階のものではなかった。これは実践して行くべき具体的な規定である。

 28節に「聖霊と私たちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなた方に負わせないことに決めた」と言われる。この決定は二つの部分からなる。「どんな負担も掛けない」というのが主要部分である。ただし、次のことは必要事項であるという付帯条項がある。必要事項であるなら、それは後々も守られなければならないのではないか。しかし、世々の教会はそれを必要事項とは見ていない。では、教会はどの時点で、これは必要事項でないと決定したのか。

 話しが複雑になるから、大まかな説明だけを今して置くが、教会はこういう規定を更新し、また、しばしば新しい規定と差し替えることをしていた。それが教会法という名で呼ばれる諸規定であるが、それは16世紀の宗教改革まで続いた。宗教改革はこの膨大な教会法を破棄して、信仰の箇条と差し当たり必要な条項だけを立てることにした。

 今、宗教改革の話しを始めたならば、今週中には説教が終わらないし、今日聞くべき御言葉を聞く時を失することになろう。とにかく、大まかであっても、教会が歴史を総括することは時々必要であり、教会は御言葉によって改革されなければならない。そういう観点をもって使徒の教会を理解しなければならない。 

 7節の初め、「激しい争論があった後」という言葉に目を留めよう。今日このような争論を目にすれば、泣き出す人もいる。それは教会の静謐を貴ぶことであるが、翻って考えれば、何の議論も起こらない平穏な事態が本来の教会の姿であろうか。それはもっと悲しむべきことではないであろうか。教会の中に様々の主張があり、それらは違っていても全体としては一致できるというのでなく、別々の主張を持つ人、別々の主張を掲げる群れがあって、それぞれいがみ合っていながら、会議を開いた時には議論しない。それで、キリストの教会たらんとしているのか。

 議論がないとは、議論を起こすだけの気力、熱心さ、誠実さなく、御言葉の真理についての認識もなく、ただ和気藹々に誤魔化し合っているということではないか。

 「賛成多数」ということで議案をどんどん可決して行くことが世俗の政治においても如何に危険であるかは、心ある人にはよく見えている。まして、教会の会議ではもっと慎重に審議を進めなければならない。

 「激しい争論があって後、ペテロが立って言った」。これは議論が次第に纏まって来た経過を偲ばせる記述である。激烈な議論がいつまでも止まないので、遂にペテロが割って入った、という意味に取る人はいないであろう。もし、議論が止まないのでペテロが調停案を出したとすれば、そういうことが必要な場合もあり得るとは思うが、調停案だとすれば、それに対する異論が出たはずである。ペテロの発言に対する反論がなかったのは、彼の指導力が絶大で人々がそれに信服していたという意味が含まれる。人々の議論が出尽くして、纏まって行ったことを暗に語っている。

 さて、ペテロの言葉である。「兄弟たちよ、ご承知の通り、異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めの頃に、諸君の中から私をお選びになったのである」。

 今日はペテロの言葉の最初の部分にしか触れられないが、ペテロが「神は初めに私を選んで異邦人に私の口を通して福音を語らせたもうた」と言うのはどういう主旨であろうか。自分の方が先だという主張ではない。これは10章で読んだがカイザリヤにおけるコルネリオ一族を洗礼に導いた前例を言ったものである。あの時も112節にあるように「割礼を重んじる者たち」がペテロを咎めた。しかし、その人々は神のなされた御業の前に黙ってしまった。

 ピリポがエチオピヤの宦官に洗礼を授けた8章の記事はさらに前のことであろう。このことがエルサレム教会にどういう反響を起こさせたかについては分かっていない。とにかく、そのような前例は知られていたが、論争にはならなかった。そして、それは神が諸君の中から私を選ばれたからである、とペテロが言うことに異議申し立てする人はいなかった。

 ペテロは、自分こそ最初の実行者だと主張したのではない。ただし、「私を選ばれた」と言う時、私はこのことを確信をもって行なった、と言ったのである。異邦人の救いは昔から定められていたことであり、12人の使徒が召されたのもそのためであったではないか、と言うのである。したがって、アンテオケ教会の派遣した伝道者が行なったことは前代未聞のこと、破格のことではない。むしろ、初めから定められていたこと、着々と進行しつつあることである。


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