2007.08.19

 

使徒行伝講解説教 第98

 

――15:1-5によって――

 

 

 先に、伝道地における迫害、あるいは伝道の妨害があったことを見た。そのことと15章のエルサレムにおける会議で教会が調整しなければならなかった事件とは別のことである。だが、無関係ではない。一連のものと言えよう。初期の教会が直面した戦いである。
 1346節で、パウロとバルナバは大胆に宣言した。「神の言葉は先ずあなた方に語り伝えられなければならなかった。しかし、あなた方はそれを退け、自分自身を永遠の命に相応しからぬ者にしてしまったから、さあ、私たちはこれから方向を変えて、異邦人たちの方向に行くのだ」。………これは俗な言い方をすれば、ユダヤ教に対するキリスト教会からの訣別宣言である。13章の51節で、使徒たちが足の塵を払ったのも、福音宣教を妨害するユダヤ人に対して、証しとして、足の塵を払ったことであって、この町に対してそうしたのではない。
 パウロとバルナバとが「自分たちはユダヤ人を去って異邦人の方に行く」と宣言したのは、ユダヤ人にもう伝道しない、という意味ではない。パウロが次の伝道でピリピに行った時、先ずユダヤ人が集まるであろうと予想される祈り場を捜して、安息日にそこに行って、祈りに来るユダヤ人を捉えて伝道しようとしたことを1613節で読む。
 17章ではテサロニケに行った時、ここにユダヤ人の会堂があったので、パウロはそこで安息日に説教をした。そのように、ユダヤ教から離れ、ユダヤ人を排除したわけではない。「神の言葉が先ずユダヤ人に宣べ伝えられねばならない」ことは確かである。約束を受けていた民に「神の約束は成就した」と宣言されねばならない。その宣言をまだ聞いていない者には、洩れなく聞かせなければならない。ただし、聞いたのに反発するなら、別の道に行って福音を語るほかない。
 このように、すでに事柄は明らかになった。しかし、そのことが感覚的にも・理性的にも分かっていない人がいたという現実があった。それが教会の中で紛争の種になった。その紛争は解決されなければならない。単純に言えば、約束は成就したということが確認されねばならない。そして、整理がつくまで、或る程度時間が掛かった。15章でことが全て解決したと言っては不正確であるが、基本的には解決した。そのことを十分捉えるように読んで行くようにしよう。
 解決に至るまでの経過が重要である。キリスト教がキリスト教として立つために、経なければならない経過である。しかし、これは済んだのである。まだ済んでいない段階でパウロが論駁のために書き上げた文書、その典型がガラテヤ書であるが、これはキリスト教が福音的なキリスト教として立つために、深く学ばなければならないものである。ではあるが、ここにまだ未解決の問題が残っているかのように拘り続けるのは、無意味な、むしろ有害な拘りである。
 1節、「さて、ある人たちがユダヤから下って来て、兄弟たちに『あなた方も、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない』と説いていた」。
 この事情を手抜きしないで、詳しく理解して置こう。これまでも、ユダヤからアンテオケにいろいろな人が下って来た。バルナバがその代表的な人であった。エルサレム教会はアンテオケの若い教会を支援するために、最も適切で有能な働き人を送った。バルナバが如何に優れた器であったかを我々はすでに見ている。このほか、1127節で見たように、預言者らも来て遍歴しながら御言葉を伝えた。そのように、エルサレムを中心とするユダヤの教会と、アンテオケ教会の間には交流があった。
 151節で見る「ある人々」もそのような人と同じようにやって来た。自発的にアンテオケ教会を助けようとして来たらしい。この人たちはユダヤから下って来たと書かれているが、正確に言うとエルサレムから来た。「エルサレムから」と言わないで、「ユダヤから」とぼかしたのは、エルサレムとアンテオケの不一致をことさらに取り上げる人がないためである。
 実際、こういう不一致を取り上げて、そのような実情の理解こそが本当なのであって、何も問題がなかったかのように言うのは誤魔化しだと考えさせる傾向が、今日も教会内外で盛んである。しかし、「キリストにあって一つ」というところから出発しないならば、「教会を信ず」という信仰の確立には決して達しない。
 一致と言っても、非常に不完全なものであった、と捉えるのは正しいが、この捉え方をする時、食い違いが随分あっても、皆が一つの中心点を向いていると諒解しているのである。もっと適切な比喩を用いるならば、体の肢体はさまざまであるが、体としては一つ、首は一つ、すなわちキリストである。教会は制度としては整っていなかったが、御霊による一致があった。
 この時の会議の纏めとして、エルサレムからアンテオケその他に送られた文書を見れば、疑問はなくなる。24節にはこう書かれている。「こちらから行った或る者たちが、私たちからの指示もないのに、いろいろなことを言って、あなた方を騒がせ、あなた方の心を乱したと伝え聞いた」。――これと1節とを結び付けて見れば、実情の全部が見えて来る。
 エルサレム教会の代表的な人々が指示を与えたのでないのに、エルサレムからアンテオケに行った人たちが、自分の理解を、権威あるものの如く、状況の違うアンテオケの信仰者に押し付けようとしたのである。
 エルサレムの教会は、ユダヤ人が多数を占めていた。彼らは生まれてスグ割礼を受けた人たちである。そこには異邦人の改宗者も少数いるにはいたが、彼らはすでにペンテコステ以前に改宗者となって、ユダヤ人と同じようにしていた。すなわち、割礼を受けて会堂の共同体に加わっていた。
 そういう状況しか見ていなかった人たちが、アンテオケの教会に入って見ると、以前割礼を受けてシナゴーグに加入した人がいるにはいるが、キリスト教の伝道によって信者となったのは、割礼を受けないで入信した人たちばかりである。それで、意外に思って、「あなた方も、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と言ったのである。これを聞いて、異邦人のキリスト者は衝撃を受け、パウロやバルナバに相談したという次第である。
 それなら、エルサレムから来た人は、誤解はあっても悪意はなかったと取らねばならないのか。そう解釈される面がないわけではないが、何もかも善意だと言って片付けるのも危険である。単純な善意から言っただけなら、アンテオケで紛糾が起こることはなかったはずである。エルサレムから来た人たちの語った言葉が人々を躓かせ、バルナバとパウロが、エルサレムから来た人たちをたしなめることになった。ところが、エルサレムから来た人たちは、自分たちが正しいという主張を変えない。そこで、バルナバとパウロがエルサレムに行かなければならないことになった。
 2節がその事情である。「そこで、パウロやバルナバと彼らの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバその他数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった」と記される。
 対立はパウロ、バルナバと、エルサレムからアンテオケに下った人たちの間にあった。それは、エルサレムの慣習とアンテオケの慣習の単なる違いの調節、引いてはエルサレムに権威があるかどうかに関する対立ではなかったと思われる。救いに関わる問題であったと理解しなければならない。
 どこに争点があったかは、5節の記事が明快に示している。「ところが、パリサイ派から信仰に入って来た人たちが立って、『異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである』と主張した」。
 エルサレム教会の主張であるかのように言われていたのは、実はエルサレム教会の一部の人、パリサイ派から来た人であったということがここで明らかになる。エルサレム教会では、異邦人の入信の場合、そのケースは少ないが、慣例では割礼が先になされた。しかし、それが教会の方針として決定していたのではない。
 エルサレム教会の中にパリサイ派から信仰に入った人がいた。この人たちは比較的新しく教会に加わったのではないかと思われる。彼らは割礼の実行、またモーセの律法の遵守を主張した。こういう主張が、アンテオケで紛糾を起こした人たちの後ろ盾になっていたことは容易に理解できる。
 また、アンテオケからエルサレムに上った一行の中にこの意見の人たちの代表者がいたと考えることも出来る。すなわち、アンテオケでは両意見が対立しているので、エルサレムで判定を受けるために訴えたと言っても間違いではない。そういう方法で対立を解決することはユダヤでは昔からあった。教会にとって珍しいことではないし、何ら恥ずべきことではない。
 強硬な意見を持つ人たちがパリサイ派出身者であったという事情は大いに参考になる。ただし、彼らがパリサイ派であるから直ちに信仰的に問題であったと言うべきではない。パウロその人も典型的なパリサイ派であった。パリサイ派の神学を特に熱心に学んだパウロであるが、キリスト者になった。そのパウロを相手にパリサイ的な主張を執拗に蒸し返すのは問題だということは分かる。では、どこが問題か。
 パリサイ主義者が偽善者のように扱われることがあるが、一律にそのように決めつけても意味はない。彼らは律法に従おうと懸命に努力しようとしたと一応言える。しかし、自分が真面目に努力していると思った点で誤算し、それが思い上がりになった。この点パウロが自己検討したことと比較して見れば明らかである。パウロはガラテヤ書310節で、「律法の書に書いてある一切のことを守らず、これを行なわない者はみな呪われる」と書いてある、という点に固執した。後から教会に入ったパリサイ人はこの点に良心的に固執することをしなかった。
 この点が明らかになれば、彼らは価無しの罪の赦しの恵みに目を開かれたはずであるが、それが分からなかった。キリストを受け入れる、と言ったのであるが、それは十字架を抜きにしたキリストであった。
 この度のエルサレムにおける会議は不調和を調整するため、と言っても間違いとは言えないかも知れない。しかし、教会政治の問題ではなく、福音的信仰の核心部に関する問題である。したがって、意見の不一致がどのように調整されたかを見て行くだけに終わらないようにしよう。
 さて、34節にある記事を読んで行こう。「彼らは教会の人々に見送られ、ピニケ、サマリヤを通って、道すがら異邦人の改宗の模様を詳しく説明し、全ての兄弟たちを大いに喜ばせた。エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たち、長老たちに迎えられて、神が彼らと共にいてなされたことを、悉く報告した」。
 彼らは教会の人々に見送られたと言うが、教会から送り出されたのである。教会を代表して会議に行くのである。
 ピニケ、サマリヤを通って行った。ピニケというのはフェニキヤである。1119節にあったが、エルサレムにおける迫害で散らされた人たちはピニケ、クプロ、アンテオケまで下って行った。したがって、アンテオケまで行かないでピニケに留まり、そこに教会を建てた人もいる。アンテオケ教会とは連絡があった。
 次にサマリヤを過ぎた。サマリヤについては8章で見た。ステパノの死後散らされた人たちの一部はサマリヤに行く。サマリヤ伝道に着手したのはピリポである。アンテオケ教会と特に密接な関係があったわけではないが、互いに知り合っていた。では、ガリラヤの教会を何故訪ねなかったのか。それは、ピニケ、カイザリヤ、サマリヤを経てエルサレムという経路をとったからであろう。
 行く道で町々の教会を訪ねたのは、キリスト教会として最初に行われた異邦人伝道の成果を知らせるためである。この報せを聞いた諸教会はみな喜んだのである。救いの事実の広がりが目に見えるものとなったのである。世界の主が約束されていたことが成就したという報せが世界に宣べ伝えられねばならない。そして、受け入れられなければならない。その時が来たと彼らは知ったのである。彼らは自分の救いが来たことを教えられて喜んだだけでなく、世界に救いが来たことを喜んだのである。


目次へ