2007.08.05

 

使徒行伝講解説教 第97

 

――14:24-28によって――

 

 

 使徒たちが、デルベ、ルステラ、イコニオム、アンテオケ……、と先に福音宣教を開始したところに、次は一つ一つ教会を建て上げる働きをすることを見て来た。こうして第一次伝道旅行の主要部分は終わり、ピシデヤを通過してパンフリヤに来て、アタリヤから船に乗って帰途についた。
 帰りも、来た時と同じ道をとって、ペルガから船に乗るのかと我々には予想されたが、そこからは船に乗らなかった。その理由については良く分からない。ペルガは海岸から離れたところに町があったから、町と港が接しているアタリヤから船に乗る方が都合が良いと思ったのであろうか。
 「それから、二人はピシデヤを通過してパンフリヤに来たが、ペルガで御言葉を語った後、アタリヤに下り、そこから舟でアンテオケに帰った」。――ペルガまでのことが一息に語られる。道々どういうことがあったか、何も記されていない。つまり、シリヤのアンテオケに帰って教会に報告することに、使徒たちの関心は向いていたようである。この報告については、続いてもう少し長く書かれている。それも簡単な言葉でしか述べていないが、報告が重要な仕事と考えられていたことは確かに感じられる。すなわち、務めを負わせられた者は、課せられたことについて、報告をしなければならない。だが、務めは主によって、また主の御霊によって命じられたのだから、報告は本来主と御霊に対してなされる。
 主は全てを知っておられ、いつも見ておられたのであるから、それを知らない人に語るように語ることはない。したがって、主に報告するとは、主がどのように見ておられるかを、報告者自身が良く知り、自身が検討することでなければならない。この検討は常時行なわれている。
 もう一面、主からの派遣は、教会を通してなされるのが通例であるから、報告は教会に対しても行われる。それは命令者に対して復命するという面だけでなく、務めを果たすことによって得た恵みを、教会の交わりの中で共有するという意味を持つ。報告は長々と物語っては纏まりがつかないから、全体が捉えられるように要約されねばならないが、事務的なものではない。言うならば、命を通わせる報告でなければならない。全体教会は報告を聞くことによって恵みに満たされて成長する。
 報告の主要部分は諸教会を建て上げた経過である。それは、どんなに苦労したか、とか、どんなに立派にやったか、というような話しではない。教会を建てたもうお方が誰であるかが分かっている以上、主がどのように働きをなしたもうたかを証しするものになる。
 さて、使徒たちの帰る道で何も起こらなかった訳ではない。要約した言い方をすれば、伝道しながら行った。「ピシデヤを通過して」というのは、見向きもしないで素通りしたという意味であろうか。ピシデヤとは町の名でなく地方の名である。そうでなく、ピシデヤ地方の町々に働きかけながら通って行ったということであろう。町々で伝道したことは十分考えられる。ただし、町々に教会を建て上げて行くような伝道ではなかった。彼らがデルベ、ルステラ、イコニオム、アンテオケでして来たのとは違ったやり方である。
 使徒たちはクプロからペルガに着いて、アンテオケに行くまでは一心不乱に歩いた。だから道中のことについては何も触れていない。アンテオケからは一つ一つの町に留まって、教会が立ち上がり、長老たちが選ばれるまでの導きがなされた。そこからシリヤのアンテオケに帰って行く道、やはり御言葉の説教はしていたのであるが、教会を建て上げることはしていない。
 福音を宣べ伝えるだけのことと、教会が形成されるまで働き続けることと、二種類の働きが見られることに留意して良いであろう。パウロたちが後者に重きを置いたことは確かである。イエス・キリストも「私は私の教会を岩の上に建てる」と言われた。それは人を動かすとか、人を集めるというのとは別のことがある。
 使徒たちはこの「建てる」という働きを重要視する。言うまでもないが、「建てる」とは、目に見える材料を使って教会を建築することではなく、生命共同体、体なる教会を立ち上げることの比喩である。パウロはIコリント310節以下で、自分を熟練した建築師になぞらえながら、教会を建て上げる働きを論じている。第一に大事なのは基礎、隅の首石。これがキリスト以外のものであってはならない。能弁で多くの人を集めたが、基礎が据えられなかったという場合はある。次に、この基礎の上に、試練の火で焼け失せることのない建物が建たなければならない。建物が見事に立ったが、それは焼け失せて、働き手だけが辛うじて助かるというのは、それはそれとして働きではあるが、良いことではないと言っているようである。
 次に、彼らはパンフリヤに来たというが、これも地方の名である。ピシデヤ地方の南、この地方には町が五つばかり並んでいたということである。ペルガもアタリヤもパンフリヤの町である。その全部ではないらしいが、町々を通って行ったかも知れない。伝道しつつ通って行ったかもしれない。
 伝道をした、と言ったが、推定で言ったのではない。25節にあるように「ペルガで御言葉を語った」ことは確かであるからである。先に135節で、「サラミスに着いて、ユダヤ人の会堂で神の言葉を宣べ始めた」という言葉を読んだが、ペルガでも同じことがあったと考えられる。ペルガは大きい町であったから、ここにもユダヤ人の会堂があったであろう。そこで、安息日に御言葉を語るべきであった。しかし、クプロから着いた時には、急いでピシデヤのアンテオケに行かねばならない事情があったらしい。だから、ここには留まらなかったらしい。マルコは去って行く。使徒たちは遮二無二前進しなければならなかった。今回は留まって、説教した。
 パンフリヤという地名は、初期のキリスト者の間で聞くことがあったはずである。というのは、ペンテコステの朝、大勢の人々が駆け集まった。その人々の出身地のリストが29節以下に上がるが、10節にパンフリヤの名がある。それはパンフリヤのペルガから来たということであろうか。その人がその日に教会に加わったかどうかは確かでないが、パンフリヤはキリスト教会の伝道の進展すべき地として覚えられていたはずである。ほぼ確かに言えるのは、バルナバもパウロも、パンフリヤのユダヤ人グループとは連絡を取っていなかったことである。それと比べて、ピシデヤのアンテオケとはもっと深い関係があったらしい。紹介する人がいて、ピシデヤのアンテオケとは連絡が取れていたのではないかと思う。だから、アンテオケに向けて急いだ。
 今回、ペルガで御言葉を語ったということには、いろいろな意味が含まれていると思う。先にはここで足を止めたいと思いつつ道を急がなければならなかった。今回はここでしばらく足を留めようとしたようだ。しかし、ここに教会を建てるという考えはこの時はなかったと思われる。伝道は始まったのである。抛棄されたと考える必要はない。先に触れたように、パンフリヤのユダヤ人とは関係を持つ手がかりがありえた。幾つかの町々が比較的接近しているから、伝道には好都合と考えられたと思うが、そういうことは考慮されなかった。
 ペルガでの様子は分からない。人々が熱心に神の言葉を聞いたということでもなかったらしい。しかし、反発もなく、迫害もなかったと思う。パウロたちにとってはこの地にいる最後の機会になったのだが、足の塵を払うようなことは全くあり得なかった。パウロがパンフリヤの沖を通り過ぎたのは、275節にあるように、ローマに引かれて行く時であった。
 こうして使徒たちはアンテオケに帰って来た。この地については「彼らが今なし終わった働きのために、神の祝福を受けて送り出されたのは。このアンテオケからであった」と書かれている。
 パウロにしてもバルナバにしても、アンテオケと深い関係があったわけではない。しかし、ここへ帰って来たのである。帰って来なければならない事情はあったのか。教会全体のいわば本部はエルサレム教会ではなかったか。しかし、エルサレムでなく、アンテオケに帰って来たのである。それは、アンテオケ教会が伝道の派遣母胎だからである。アンテオケ教会が伝道旅行の費用を負担したのか。それだけの資力がアンテオケ教会にあったとは思われない。主イエスはかつてルカ伝93節でも104節でも「財布も袋も靴ももって行くな」と言われた。生活の保障を人に求めるな、という意味である。ただし、2236節では、「しかし、今は、財布のある者はそれを持って行け。袋も同様に持って行け」と言われた。
 アンテオケ教会が伝道者を送り出した時、財布を持って行くなと言ったかどうか。どちらにも取れる。財布を持っていたかいのかったかはどちらでも良い。確かなのは人間が思い煩うのでなく、主が配慮したもうたことである。また、送り出したアンテオケ教会が無責任に送り出したのでなく、遣わされた人たちのために祈っていたことも確かである。
 教会の財力のことはここでは殆ど問題にならないし、また論じても意味がないが、その教会には世界伝道の志があり、それに伴う祈りがあった。教会の志と祈り、それが送り出された伝道者にとって、故郷となる実質であった。エルサレム教会にはこれがなかった。
 「彼らは到着早々、教会の人々を呼び集めて、神が彼らと共にいて、して下さった数々のこと、また信仰の門を異邦人に開いて下さったことなどを、報告した」。
 着いて、次の安息日、もしくは主の日まで待って、人々が集まって来たそのついでに報告したということではなかったらしい。着いて直ぐであった。特別に呼び集められたのである。礼拝に集まったそのついでに報告会があったというのではない。報告会が神礼拝であり、神讃美であった。
 パウロとバルナバが第二次の伝道に出発することは1536節以下に述べられている。彼らは帰って間もなくエルサレムに行かなければならなくなる。そこで重要な会議があって、その決定をパウロとバルナバが会議から帰るというのでなく、会議からアンテオケに遣わされるという主旨で持ち帰る。そして、帰って間もなく、また伝道旅行に出掛ける。
 幾らかの時が経過したのであるが、パウロたちはなるべく早く第二次旅行に出発したかった。それは、時が来たこと、すなわち「信仰の門を異邦人に開いて下さった」ということが確認されたからである。
 約束されていたキリストが来られたことは分かっていた。それと呼応して、もう一つの新しい事態、すなわち、信仰の門が約束の民ばかりでなく、異邦人に開かれるということが起こった。いや、もっとハッキリ言うならば、異邦人にこそ信仰の門が開かれたと言っても過言でないということが明らかになった。だから、そのことはアンテオケの教会には急いで報告しなければならなかったが、その事態に即応して異邦人に信仰を広める必要に迫られていたのである。


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