2007.07.22

 

使徒行伝講解説教 第96

 

――14:19-23によって――

 

 

 ルステラ伝道では、驚くべきことが次々に起こる。生まれながら足の利かない人が立ち上がる。こういう奇跡はイエス・キリストがこの世に来られて以来、しばしばとは言えないとしても、忘れることがないように繰り返される。これは主が生きて在ますことを示す徴しであった。

 次に、この地の人が使徒たちをギリシャ神話の神々になぞらえて、その神サマに牛の生け贄と花輪を捧げようとした、飛んでもない事が起こる。している本人は大真面目であるが、馬鹿騒ぎと言うほかない事件があった。この事件を細かに見て行くと、いろいろ興味深いことが読み取れる。しかし、我々の救いと何も関わりないことであるから、取り上げて考えて見ようとは思わない。

 19節からの次の事件は、始まったばかりの異邦人伝道にとって、深刻な苦痛である。「ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押し掛けて来て、群衆を仲間に引き入れた上、パウロを石で撃ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起き上がって町に入って行った。そして、翌日には、バルナバと一緒にデルベに向かって出掛けた」。

 パウロは一旦石で打ち倒されてしまう。人々はパウロを殺したと思って、その体を町の外に引きずって行った。これを大事件と見ないでおく訳には行かない。しかし、使徒行伝では一行で片付けられる。タップリの言葉を使って、聞く人の感動を盛り上げるようなことはしない。ただし、無視されたのではない。教会は代々の聖徒の苦難を記憶する。その記憶が教会の宝だと言って良い。後で22節に見るように、「私たちが神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならない」と説かれる。

 では、その宝は次第に増えて行って、迫害記念館を幾つも建てて行かねばならないのか。――そういう考えでは教会が建たないということを我々は知っている。すなわち、それは地上に宝を蓄えることである。その記念館を訪ねさせて、人々に幾らかの教育をすることは出来る。けれども、その教育を受けた人たちは、先人の労苦を知識としては捉えるとしても、主のため、また教会のために苦しむ人とはならない。初期教会の苦難は歴史的遺物として尊ばれるとしても、教会を新しくして行く命ではない。

 教会が苦難を宝として蓄積して行く方式は決まっているのである。我々は既にそれを学んだ。541節であるが、「使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出て来た」と記されていた。彼らは議会で鞭打ちという刑罰を受けたが、これを御名のために受けた恥辱・苦難と受け取った。言い換えれば、彼らは受けた苦難を、キリストの受けたもうた苦難と重ね合わせ、そこではもはや彼らの苦難は取るに足らぬものとされていることに満足する。すなわち、自分の受けた苦難が消えて行き、主の苦難がこのことを通じていよいよハッキリしてくるのを見届けて、充実感を持ったのだ。

 教会が苦難を宝物として受け取るには、こういうことが必要であった。苦難それ自体価値ある物だと受け留めるのは立派な見識である。「艱難汝を珠とす」という諺がこの世で重んじられる。苦難を避けることによって、人間がつまらない物になることに気付いている人は少なくない。しかし、使徒たちが苦難を受けて、その苦難を喜びとし、また世々の教会が苦難を受けることを喜びとして受け継いで来たのは、世間で良い評判を得る練達の修練を積むためではない。

 したがって教会は苦難を、この世における評判を高めるための功績として受けるのではない。苦難をそのようなものとして受け取っているなら、その宝は次第に重荷になって行くし、かつて苦難を受けたというだけで、現実に対し、また将来に対して、何も言うことのない存在となってしまう。使徒たちの苦難については、これからも学んで行くのであるが、苦難の受け継ぎ方については、思慮深くしなければならない。苦難に関してもう一つ見て置かねばならない。それは、主が助けたもう、という事実である。

 さて、今回の迫害の実際に少し触れて置く。これはユダヤ人による迫害である。帝国の権力の迫害ではない。騒ぎを起こした者の中にはユダヤ人でない者もいたであろう。そういう人は何時の時代にもどの社会にもいて、騒ぎがあれば何でも飛びつく。

 このユダヤ人はどういうユダヤ人か。我々にはその本質は突き止められないのだが、キリスト教を迫害するユダヤ人勢力が初期にズッとあった。一つの傾向と言えると思うが、どういう傾向か私には掴めない。彼らがキリストを殺した集団の後継者であるとは言えるが、ユダヤ教の中のどの流派かは指摘出来ない。例えば、パリサイ派は主イエスとしきりに対立していたから、パリサイ派がイエスの弟子を迫害したことは十分考えられる。しかし、証拠はない。

 パウロはパリサイ人の中のパリサイ人であったから、彼がステパノ殺害をキッカケに始まったキリスト教迫害の首謀者であったことは分かる。また、かつてのパウロの同輩が彼に対する憤激を募らせたことも納得出来る。しかしどういう要素が彼らを駆り立ててキリスト教を迫害させたのかは旨く言えない。

 しかも、彼らの迫害の仕方は異常に残忍である。ローマは法的帝国として立とうとしていたから、無法を許さなかった。ユダヤ人も律法を持つ民としての誇りを持っていた。ところが、その律法に背いたことをしている。キリスト教迫害をした集団は傍若無人の無法集団であったと言うことは出来る。

 そこからまた考えることは、神がなぜこのような無法状態を許したもうたかである。ここで我々の考えを強調し過ぎては危険である。が、神が何らなすところなくご自身の民であったユダヤ人に、新しい民であるキリスト者を迫害するにまかせたもうた、と見てはならない。古き民を、新しき民から分離させようとされたためであると見るほかない。したがって、新しき民はユダヤ教から自立して行く。これは、先に1346-47節でパウロとバルナバから聞いたことである。「神の言葉は、先ずあなた方に語り伝えられなければならなかった。しかし、あなた方はそれを退け、自分自身を永遠の生命に相応しからぬ者にしてしまったから、さあ、私たちはこれから方向を変えて、異邦人たちの方に行くのだ。主は私たちに、こう命じておられる、『私はあなたを立てて異邦人の光りとした。あなたが地の果てまでも救いを齎らすためである』」。

 この後しばらく、使徒たちによるユダヤ人伝道は続く。そして、原則的にはキリスト教のユダヤ人伝道は終わるのである。キリスト教は専ら世界宗教として世界市民に伝道して行くことになる。ユダヤ人からの福音妨害はなくなる。

 さて、ルステラでパウロに石を投げて倒したユダヤ人は、アンテオケ、イコニオムから執念深く押し掛け、ルステラでも仲間を引き入れた。パウロたちの後をついて、その業を壊そうと努めた。ちょうどキリストに対してアンチ・キリストが荒び立つように、使徒に対して反使徒が立つことになる。こういうことが後の時代まで続く。

 ところで、ユダヤ人がパウロを石で撃ったさまは、757-58節を思い起こさせる。あそこでは、彼らはステパノが語っている最中なのに、もはや聞くに耐えない冒涜の言葉として耳を塞ぎ、裁判の途中、被告の陳述が続いているのに、正規の手続きを省くことが許されると看做すかのように処刑した。ルステラでもほぼ同じ様なことであったと思われる。してはならないことをした。それならば、そういうことをしたユダヤ人は、法を犯した者として裁判で問われたか。そうではなかった。ルステラにいたローマの官憲は見て見ぬふりをした。あるいは、事実がよく捉えられないままに事が進んで何とも出来なかった。

 パウロが暴行を受けた時、ルステラのキリスト者は何もしなかったのか。そうではないが、ユダヤ人のすることが余りに素早いので、手が出せなかった。ユダヤ人たちはパウロを説教中にいきなり拉致し、石を投げ、パウロが死んだと思ったので逃げた。その後、弟子たちがパウロを介抱したということであろう。このキリスト者は危害を受けていない。バルナバも襲撃されなかった。ユダヤ人はパウロを殺すという目標に絞って、周到な用意をして一挙に殺そうとした。

 パウロが間もなく起き上がったのは、奇跡的な回復と言って良いであろう。起き上がった経過を詳しく話すことは出来ないが、大まかに言ってこういうことである。人々が神に逆らってなした行為に、神が立ち向かいたもうた。だから、神の力の現われをここに見るのは当然である。パウロがもともと強い人であったから超人的に起き上がったと見ることは出来るとしても、意味はない。

 パウロは起きて町に入る。町の中に危険があると恐れてはいない。翌日には回復してデルベの伝道に出掛けた。デルベは直ぐ近くにあるかのように読まれるのだが、ルステラから1日ではとても行けない距離だということである。

 「その町で福音を伝えて、大勢の人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、弟子たちを力づけ、信仰を持ち続けるようにと奨励し、『私たちが神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならない』と語った」。

 デルベにおける伝道の詳細については、何も分かっていない。名前があがるだけで、ここに大勢の信者が生まれたと報告書に書かれた。シリヤのアンテオケに帰った時、もっといろいろ質問されたのではないかと思われるが、デルベについては何も分からない。ただ、後の時代の記録としてデルベの司教が公会議に出席したことが分かっているので、有力な教会が建てられたことは分かる。

 アンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベと進んで、デルベで強力な教会を建て上げ、それからルステラ、イコニオム、アンテオケと帰って来たと記される。そして、帰りの道で教会を建て上げ、育て上げることに主眼点があったように読まれる。ただし、このように簡単に纏められているが、簡単に一つ一つ片付けられたと考えない方が良いであろう。というのは、教会は入念に建てられねばならぬとともに、一つ一つ片付けて行くべきものでなく、教会と教会との相互関係の中で建てられるものだからである。したがって、教会間協力の体制も作って行ったと見なければならない。そのためには、使徒自ら教会間を往復することもあったのではないか。

 「また、教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信ずる主に委ねた」。

 教会ごとに長老を立てるという構想は使徒たちのものか。そうではないであろう。次の章の2節で見るとエルサレム教会には長老と呼ばれる役職がすでにあった。ただし、長老がどういう務めを担うかについては、この段階では分からない。しかし、キリスト教の教会はユダヤ教の会堂から出発し、そこから自立したのであるから、ユダヤ教の会堂が持っていた「会堂司」の務めに準じる務めを立てたであろうと考えられる。また、「長老」という名称はモーセが荒野において民を組織化した時の70人の指導者の職務の名前の踏襲であると思われる。つまり、教会の中に、自分たちこそが真のイスラエルであるという意識が出来て来たことを示している。

 長老を立てたが、彼らは何をしたか。人数はどうか。アンテオケの会堂には会堂司が複数いたことが1315節で見たが、我々の知る限りでは通常会堂司は一人であった。アンテオケでは一人でなかった。だから、この地方の教会も複数の長老を立てたと考えて良いのではないか。

 長老の務め。それは教会としての務めの第一が御言葉の奉仕であったことが明らかであるから、この場合、長老が説教をしたに違いない。アンテオケの会堂で説教した時、パウロは1327節に、「安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した」と言ったが、キリストの教会では預言が朗読され、この預言は成就したのだと宣言されたのである。

 いきなり長老を立てて、その人に説教をさせることは無理ではないかと感じる人もいるであろう。しかし、この群れのかなりの部分はすでにシナゴーグの礼拝を経験し、中には説教経験者もかなりいたはすで、ユダヤ教の会堂における説教に劣らぬ説教がなされたのである。約束の言葉が朗読され、その約束が成就した、と宣言された。

 長老は使徒が任命してと書かれている。使徒はキリストの代理人としてそうした。エルサレム教会では7人の執事を選挙で決めたから、長老も選挙で決めたかも知れない。実際、23節には「断食して祈り」とあるがこれは選挙のことかも知れない。

 「彼らをその信じている主に委ねた」とは、彼らの判断に、彼らの責任に、キリストの教会を委ねたということではない。彼らが委ねられた。彼らはもはや自らの判断によって出入りするのではない。主の御旨のままに出処進退が決まるようになった。つまり、かれらは私人でなく、キリストの御旨のままに生き、務めをなす公人となったのである。このことは更に詳しくはパウロがエペソ教会の長老と別れるところで見る。2032節に、「今私は主とその恵みの言葉とにあなた方を委ねる。御言葉にはあなた方の徳を建て、聖別された全ての人々と共に、御国を継がせる力がある」と記されているのである。


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