2007.07.08

 

使徒行伝講解説教 第94

 

――14:1-7によって――

 

 

 パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを追い出された。これはアンテオケ伝道の失敗のように見られるかも知れない。しかし、そうではなかった。二人は足の塵を払い落として去って行ったが、この町を見捨てたという意味ではない。21節を見ると、彼らはまたアンテオケに行っている。またその続きの所に「教会ごとに彼らのために長老を任命し」と書いてあるから、アンテオケにも長老の立てられた教会が建設されたのである。
 二度目に来た時までは、アンテオケの教会が打ちのめされた惨めな状態にあったのかというと、そうではない。13章の終わりの節で見るように、「弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた」。まだ若いアンテオケ教会が、指導者を失って、途方に暮れ、失望落胆したのではない。
 それでは、どうであったのか。「喜びと聖霊に満たされていた」。この一言で多くのことが言い表されている。我々は多くのことをここから汲み取ることが出来る。指導者を失ったとはいえ、聖霊に満たされた教会の姿を想像することが出来る。それは空想ではない。御霊に満たされた教会の姿として、当然あるべきさまを我々は思い描くのである。その有様を細部に亙って語ることは今はしない。ただ、アンテオケ教会が二人の伝道者を喜びをもって送り出したことには触れるべきである。
 「アンテオケでは残念なことでした。今度の所では成功して下さい」という気持ちで涙ながらに別れたと考えてはならない。アンテオケで始まった戦いが、イコニオムにも拡大されることを期待して送り出したのである。
 ただし、こういうことに注意したい。伝道を戦いになぞらえることは良いのであるが、軍隊が敵の地を占領するとか、領域を拡張するとか、商売人が顧客を殖やすというようなことと同列に考えて、教会がこの世を征服するかのように理解してはならない。アンテオケでもイコニオムでも、二人の伝道者は追い出されている。ルステラでは石で打たれ、殆ど死にそうになった。伝道活動の成果としてはどこも殆ど同じである。苦難に満ちている。この地方を去る時、使徒たちは諸教会に、「私たちは神の国に入るには、多くの苦難を経なければならない」と言い残したと22節に書かれている。
 この世における征服者は、反対する者がいなくなること、貢ぎを納めない者がいなくなること、支配者を讃美しない者がいなくなることを目指すと言ってよいであろう。彼らの実行の目標は、数を増やすことである。この世の支配者は、先ず過半数の獲得を目指して数を殖やす。過半数が得られれば、あとは思い通りのことが出来ると考えている。してならないことまで平気でしてしまう。余程の知性がないと、ものが見えなくなるのである。
 福音の伝道はそれとは違う。その地域に、最早福音に逆らう者がいなくなることを目指すのとは全く違う。この点、思い違いのないようにしよう。パウロはローマ書1519節で、「私はエルサレムから始まり、巡り巡ってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たして来た」と言ったが、それは、征服者がするように業績誇っているのではない。福音を満たして来たとは、もうその地域では、福音の説教以外何も聞くことはなくなったという意味ではない。
 反対者がまだまだいる。しかし、とにかく、その地域に橋頭堡が築かれ、あるいは足場が立てられる。それで終わりという意味では決してないが、足場が築かれて、そこから永続的な戦いが始まったのである。
 使徒行伝で学ぶ伝道は、いずれのケースにおいても、そのような橋頭堡造りである。したがって、我々は伝道について、これを橋頭堡造りと考えなければならない。終わりの日が来るまでは、教会はそのような戦いの中にあるのだ。そのような物として教会が建つということを忘れて、この世をキリスト教化したように考えるから、僕になることよりも支配者になりたがる。務めのための精進を怠る。楽な道を選ぶ。全てについて物事を安易に考えるようになる。やがて衰頽して、橋頭堡からも撤退するというようなことが起こる。今日の教会はまさにそれである。
 さて、14章の初めから学んで行こう。「二人はイコニオムでも同じようにユダヤ人の会堂に入って語った結果、ユダヤ人やギリシャ人が大勢信じた」。
 イコニオムは、アンテオケを通っている東はシリヤ西はエーゲ海の港エペソを結ぶ幹線道路を、東に百何十キロか行った、ルカオニヤの首都である。古くからある豊かな町であった。ここは、ルステラ、デルベなど、ガラテヤ地方の町々とともに今後のパウロの伝道の生涯といろいろな面で関わりの多い地である。
 「いつものように」、すなわち慣例どおり、と理解するのが多くの人の読み方であるが、これはユダヤ人たちとともに、と取る人もいる。多くの人の読み方に従っておく。ここでは、使徒たちが前例にしたがって特にアンテオケのやり方にしたがって行動した、と理解して不都合はない。会堂の中で彼らのしたことも、語ったことも、アンテオケにおけると同じ方式であった。したがって、ここで行なわれた説教の内容については触れられていない。すでに前の章において聞いたことを思い浮かべて加えながら読んで行かなければ、無味乾燥な伝道記録になる。
 「ユダヤ人とギリシャ人」がイコニオムで大勢信じたことは、アンテオケと同じ事情として理解出来る。だが、アンテオケにおいては「ギリシャ人」という書き方はしていない。異邦人、あるいは信心深い人、また改宗者と言ったものがイコニオムの記事には出て来ない。この町ではユダヤ教に接近していた異邦人がいなかったのであろうか。何か異なる事情があったかも知れないが、我々には分からない。
 ピシデヤのアンテオケにおけるパウロたちの伝道について、イコニオムまで噂が流れて来ていたことはあるかも知れない。使徒たちの来るのを待っていた人がいたことも想像出来なくない。しかし、今は想像を逞しくしても余り得ることはない。
 2節には、「ところが、信じなかったユダヤ人たちは異邦人たちを唆して、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」と書かれている。大勢の人が信じたが、同時に、信仰者に対する悪意を掻き立てる宣伝があって、結局、使徒たちはまたも追い出されることになったのか。このあたりの事情に詳しく立ち入ることは無理であるから、大まかな捉え方をして置くに留める。かなりの数にはなったが、悪の力の方が強かったのである。
 「それにも拘わらず、二人は長い期間をそこで過ごして、大胆に主のことを語った。主は彼らの手によって徴しと奇跡とを行わせ、その恵みの言葉を証しされた」。これがイコニオム伝道の総括である。
 第一に、二人がかなり長期間ここに踏みとどまったことが述べられる。どの位長かったのかは、正確には言えない。我々に分かるのは、忍耐が必要であったということである。
 次に、「大胆に語った」こと。これはすでに使徒行伝の多くの箇所で見た通りである。1346節にも「大胆に語る」という言葉があった。単に分かり易く、巧みに語ったということではない。人々の人気を博するためにはそれで十分かも知れないが、人が信ずるのは聖霊の力によるのであって、その力は御言葉が単に間違いなく語られるだけでなく、御霊の力を運ぶに相応しい語り方に乗らなければならない。それが大胆に語るという言い方で示されるものである。
 第三に、主は彼らの手によって徴しと奇跡を行わせたもうたことである。この第三点はアンテオケではなかったようである。イコニオムで奇跡が行われたのは、この地の伝道が困難であったため、主が奇跡によって助けたもうたということか。そうかも知れないが。そうでないかも知れない。実例として上がっているのはイコニオムではなく、ルステラにおけるものである。それ以外に何も書かれていない。
 我々に分かることは、主が使徒たちの手によって徴しを行わせたもうたということだけである。主は使徒行伝18節で、「聖霊があなた方に降る時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、私の証人となるであろう」と言われた。このことは使徒たちが御言葉の宣教に携わることを主として言われたと思われる。
 使徒たちが奇跡を行なった事実については説明の必要もないが、それが徴しであると言われるのは、その徴しだけで主の大いなる御業であるというのでなく、大いなる御業を示す徴しであって、その御業は恵みの御言葉として伝えられ、その言葉を聞いて信じるための助けとして与えられるのである。「主が彼らの手によって徴しと奇跡を行わせ、その恵みの言葉を証しされた」とある通りである。徴しを見たから信じたということもあるにはあるが、徴しを見て信じるような信仰は一種の信仰ではあっても、信じて救われるという意味を持つ信仰ではない。
 ただし、徴しはなくても良いと言い切ることは差し控える。徴しによってやっと支えられて信じられるという場合もあることは否定出来ない。むしろ、信仰は何かで支えられなければ立ち得ないという場合が多いのである。理知的に信仰を確かめようとする人は徴しがなくても良いと言うのであるが、そういう人でも自らの信仰の歩みを振り返って見て、徴しと言うべき恵みの言葉の力の証拠となるものを思い起こすことはあるであろう。
 徴しを行なう力が使徒に委ねられているということはその通りであるが、そういう言い方は使徒自身も慎んだ。彼らは迫害を受けた時、直ちに奇跡を発動するということはしていない。パウロ自身、晩年、テモテに送った手紙の中で、「私がアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、あなたはよくも続いて来てくれた。その酷い迫害に私は耐えて来たが、主はそれら一切のことから、救い出して下さったのである」と言っている。この地方における伝道の苦難は主として第二次伝道旅行の際のことであろうが、第一回もそうであったことは確かである。救い出して下さったのは奇跡によってだと言うのではない。これは耐え忍ぶ力を与えて下さったから患難に勝利したという意味である。その忍耐が奇跡であると言うならばそれは正しいが、自分に与えられた忍耐が奇跡であると知ることが出来るのは本人だけであって、他者にも奇跡だと言って通用するものではない。
 「そこで町の人々が二派に分かれ、ある人はユダヤ人の側につき、ある人たちは使徒の側についた。その時、異邦人やユダヤ人が役人たちと一緒になって反対運動を起こし、使徒たちを辱め、石で打とうとしたので、二人はそれと気付いて、ルカオニヤの町々、ルステラ、デルベ、及びその付近の地へ逃れ、そこで引き続き福音を語った」。
 これもアンテオケで起こったことと同じ性格の出来事である。反対派のユダヤ人は町では単独では勢力を持ち得ないので、異邦人を仲間に引き込む。アンテオケではユダヤ人はシナゴーグと関係のある貴婦人を引き入れる。貴婦人というのは町の有力者の夫人という意味であろう。町の有力者を引き入れてキリスト教迫害に利用することはこの地方の伝道には共通している。
 どこでも、いつでも、そうであったとは言えない。カイザリヤにおいては異邦人の有力者が真っ先に入信したようである。クプロでも総督は使徒たちに好意的であった。ルカが使徒行伝を書き上げた後にこの巻物を献呈したテオピロというローマの高官も教会の側についた人である。そういう実例は少なくないが、この世の有力者が福音に逆らう側につくことの方が多いのではないかと思う。
 だからといって、有力者、権力者が本質的に悪に傾いていると決めつけるのは正しくない。神の国と別の次元のことであるから、別の基準で見なければならない。
 どのような圧迫であったか、良く分からない。石で打とうとしたというのは、ユダヤの刑罰を持ち込もうとすることと思われる。ローマの刑法にはない。したがって、パウロとバルナバを逮捕して、ユダヤ的な裁判を行ない、ユダヤ的刑罰を執行することを、この町で許可する、あるいは市当局としては知っていても知らぬ振りをするという諒解をしたということであろうか。これはルステラでは現に行なわれたことであって。19節で読む通りである。
 そういう手はずが出来たことが分かったので、パウロたちはとにかく一時的にイコニオムからは立ち去ることにした。しかし、イコニオムから去っても、それは撤退でなく、伝道をルカオニヤの地域に拡大するためであった。

 


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