2007.06.03

 

使徒行伝講解説教 第92

 

――13:42-44によって――

 

 

 二人が会堂を出る時、人々は次の安息日にも同じ話しをしてくれるように願った。その後で、集会が終わってから、人々が二人に随いて来た、と書かれている。来週の説教を頼んだ人と、随いて行った人とは同一人物であったかも知れないし、別の人であったかも知れない。この日、説教者を指名したのは会堂司であったが、この人たちが早々と来週の説教を依頼したということは、ほぼ確かである。そして、それ以外の人々の多くが同じ気持ちであったと考えて良い。彼らは同じ話しを聞きたいと願った。
 キリストの福音を初めて聞いて多くの人は喜んだのであるが、それと別の考えの人がいたことは、次週になればありありと見えて来る。45節に書かれている。そのことはそこで触れれば良い。この日、初めて聞くキリスト教の説教に、皆は夢中になっていたように思われる。
 同じ話しをまた聞きたいと思った。ということは、パウロの説教に陶酔したということか。そう言って良いかも知れないが、もっとまともな捉え方をしたい。彼らは今日の続きを聞きたいと願ったのではないようである。今日のこの宣言を次の安息日にも聞きたいと願った。
 「次の安息日」と普通訳されている言葉は、「安息日の中間」という意味にも取れるという主張が古くからある。こういう読み方は出来るのである。週の半ばにも会堂で集会をする慣習になっていたことは本当らしい。そして、この週も、週の半ばに、人々が集まって説教を聞いたということは十分あり得る。イエス・キリストが町々村々で安息日に会堂で礼拝を守りたもうたことは、我々の知る通りであるが、他の日にも随時集会を開いて説教をしておられた。特に受難週には、連日、エルサレムの宮で説教された。キリスト教会にはこの二つのタイプの集会がある。

 だから、アンテオケの会衆が週の半ばの集会を願ったと見て良いであろう。週の半ばだけでなく、連日、説教が行われたと考えて少しも不自然ではない。――例えば、日本でプロテスタント教会が初めて設立された時、キリスト教禁制のもとであったが、1872年の旧正月から初週祈祷会が連日開かれ、次の週になっても続き、ますます盛んになって、ついに新暦310日に至った。まだ伝道が公認されていず、洗礼を受けた人は2人しかいなかったが、その日洗礼を受け、誓いを立てて教会設立に踏み切った。そのように、熱心さは、立て続けに行われる集会と結びつく場合が多い。そういうことを無視しては実情が掴めない。ピシデヤのアンテオケでも、そのような熱っぽい努力が重ねられたのではないか。そうかも知れない。

 しかし、聖書はここで、熱心を鼓舞しようとしているのではない。息を継ぐ間もなく集会を繰り返して、熱が高まることとは、別のことを学ばなければならない。

彼ら、ユダヤ人だけでなく、神を敬う異邦人も、安息日に説教を聞くことを宜しとしていた。今朝、何が起こるかは予想していなかった。通常の安息日の出来事があることを期待し、それだけで十分満足する筈であった。

ところが、その日会堂において起こったことは、形式としては在来の集会と同じものであるが、27節で、「安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した」と言われたそのことに彼らは出会ったのである。

この朝聞いた御言葉の味わいをもう一度受けたい、と彼らが感じたことは、そのまま受け入れて良いかも知れないが、単に感激していたと取るだけではいけない。彼らは、要するに、その「成就」を味わって感動していたのである。その成就を来週の安息日にも確認したいと願ったのである。――付け加えて言うならば、これと同じことをキリストの民らは今日に至るまで経験し、期待し、持続しているのである。

ただし、キリスト教会では旧約の安息日をそのまま引き続き守っているのではない。使徒行伝2章で見たように、キリスト教としての大々的な最初の集会は五旬節であった。その日は安息日ではなかった。安息日の翌日、週の第一日であった。第一日はキリストの復活を記念する日としてキリスト者の間では特別に重んじられたが、ユダヤ人であるキリスト者は律法の定めによる安息日の礼拝をも守っていた。

使徒行伝でこの後も見るように、各地の会堂における福音の説教は、安息日に行なわれるのが普通である。しかし、207節に、トロアスにある群れにおいて見られる例であるが、週の初めの日にパンを割くための集会をしていた。こういう二本立ては、やがて週の第一日、主の日に一本化して行く。この変化は紛争もなく進められたが、すでにイエス・キリストが、安息日厳守に拘っている律法主義を克服せよと教えておられたからである。

しかし、使徒たちは安息日の仕来たりを重要視し、今回はピシデヤのアンテオケにおいて、安息日にキリストの福音の最初の宣教が行なわれ、安息日に福音の受け入れが行われたことを教えられている。その日に福音が受け入れられたということは、福音のコトバが受け入れられたということではなく、福音の力が、福音の出来事が、つまり約束だけでなく、約束の成就が確認されたということなのだ。それは、27節で聞いた通り、「安息日ごとに読む預言者の言葉が成就した」と言われていることである。だから、先に見たことを繰り返すが、人々は同じ説教が行われることをしきりに願った。

同じ話しをしてくれるようにと願った人は、会堂司たちではないかと考えられると言ったが、同じ気持ちを会衆は持っていた。45節で読む通りである。「そして、集会が終わってからも、大勢のユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、二人は彼らが引き続き神の恵みに留まっているようにと説き勧めた」。

その人たちはユダヤ人と神を敬う異邦人から成る。ユダヤ人のシナゴーグはこれまで原則的にはユダヤ人のものであったが、今や民族の枠は取り払われた。これはイエス・キリストの教えが初めから民俗宗教の枠を超えて、世界宗教の資質を持っていたからであると言われてもいるが、この説明だけでは世俗的な理解に留まる恐れがある。

主の民は古い時代からこういう讃美をして来た。そのタイプを示すのが我々の良く知っている詩篇118節である。「主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶えることがない。イスラエルは言え、『その慈しみは、とこしえに絶えることがない』と。アロンの家は言え、『その慈しみは、とこしえに絶えることがない』と。主を恐れる者は言え、『その慈しみは、とこしえに絶えることがない』と。

三つのグループがこもごも讃美の声を上げる。「イスラエルの家」というのはヤコブの子孫全体である。「アロンの家」とは、礼拝について特に務めを帯びる祭司職の者全体の集団を言う。そして、「主を恐れる者」とは、その他の全ての民族からの礼拝者である。

旧約のもとにある人々は、はじめ、イスラエル以外に主を恐れる民が備えられていることを知らなかった。しかし、神讃美の詩篇が作られる時、神の導きによって、全て主を恐れる者が用いるように、イスラエル以外の者も讃美の集団に加わる歌が整えられた。時代を降って、異邦人の中で主を礼拝する会堂に加わる人々が出始めた時、それこそ詩篇の中で歌っていた「主を恐れる者」であると信仰者は気付いた。「信心深い人」という言葉はこうして広められたのである。

旧約の詩篇が、礼拝の本来あるべき姿、国を越えた全集団の姿を教えていたことに彼らはいち早く気付いたのである。――もっとも、ユダヤ人の中に、そういうことに気付いた人と、気付かなかった人の二つの群れがある。この二つの群れの間に亀裂や摩擦が生じ、対立することに気付いて、主を恐れる者を礼拝に受け入れ、そも居場所を設けるのは、ギリシャ語を用いるユダヤ人の群れであった。しかし、ユダヤの言葉を用いる礼拝しかしないユダヤ人は偏狭であったと言えるか。必ずしもそうではない。だから、ギリシャ語を使うか使わないかで線を引いてはならない。キリストを受け入れるかどうかで違いがあるのである。

キリスト教の中で世界伝道の方策を打ち出したのは、シリヤのアンテオケの教会であったことを我々は学んでいる。しかし、実際にかなり多数の異邦人キリスト者を受け入れて教会を建て上げることを始めたのは、ピシデヤのアンテオケであった。その実情が43節で見られる。

先ほど、集会に付随したこととして、礼拝のいわば世話人、あるいは取り仕切り役である会堂司のしたことを見た。これはキチンと制度化されていたとは言えないが、公的な礼拝秩序の一部であった。それとは区別されて、集会が終わってからのことは何の約束事もない。自由である。集会が終わってからも学び続けなければならないとか、使徒を取り巻いて学び続けるのが本当なのだ、ということはない。

それでも、使徒たちを離れないで随いて来る人々がいた。彼らを熱心な人と見て良いが、そういう人こそ模範であり、そこに残らなかったのは不熱心な人であったと考える必要はない。また、次の安息日までの間にいろいろなことが出来たではないかと考えられる。実際、パウロとバルナバいろいろな働きをしたに違いないのである。それはこれから後の使徒行伝の記事から分かる。

例えば、2031節で、「私は3年の間、夜も昼も涙をもってあなた方一人一人を絶えず教え諭した」と言われたのは誇張ではない。使徒は休みなしに働いた。ただ、今日学ぶ所には、それについて書かれていない。だから、書かれていることだけを学べば良いのではないか。

「二人は、彼らが引き続き神の恵みに留まっているようにと、説き勧めた」。

「倦まず弛まず前進せよ」と言っても良かったであろう。「人一倍精進せよ」と言っても良かった。もっと具体的に、次の安息日には会堂が一杯になるように人々に勧誘せよ、と励ましても良かったのではないか。しかし、そういうような激励があったとは思われない。神の恵みに留まることだけが勧められた。

神の恵みに留まることは、何ぴとに対しても語られねばならない勧めである。しかし、平凡なことだから大事である、というような、如何にもものが分かった教師のような顔で教えを垂れたり、その教えに敬服していてはならない。

ここで思い起こすのは、バルナバがかつてエルサレムからアンテオケに遣わされて来た時のことである。1123節にはこう書かれていたのを思い起こす。「彼は、そこに着いて、神の恵みを見て喜び、主に対する信仰を揺るがない心で持ち続けるようにと、みんなの者を励ました」。それに続いて、「彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである」と書かれていることは重要である。御霊に満ちた人であるから、バルナバはこういうような勧めを語ることが出来たのである。

さて44節、「次の安息日には、殆ど全市を上げて、神の言葉を聞きに集まって来た」。驚くべきことである。殆ど全市から人が集まる。さらに驚くべきことに、聖書について教えられたこともない人たちが神の言葉を聞きに来た。不思議なことであるが、書かれているままを受け入れる他ないと思う。ピシデヤのアンテオケにはユダヤ人が多くいたとしても、居住者の大部分は異邦人である。全市を上げて会堂に集まったとは、大変なことである。実際、この町のユダヤ人が恐怖を感じるほどに異邦人が会堂に集まった。こうなったのは、神の言葉が語られるとの情報が全市に伝わったからである。

余程熱心に各人がその隣人を説得しなければ、こんなに人が集まることはないであろうと考える人がいると思う。しかし、熱心に宣伝すれば人が集まるわけでもない。如何に人々の持つ活動力、影響力を引き出して、人を集めるかを考える人は多いが、人間の計画の上手さによって人が集まるものではない。ピシデヤのアンテオケの会堂に多くの人が集まったのは、神のなしたもうた業として理解すべきである。


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