2007.05.20
使徒行伝講解説教 第91回
――13:40-43によって――
39節で、「信じる者は洩れなく、イエスによって義とされるのである」と宣言された。ここで説教はクライマックスに達した。イエス・キリストを信じる信仰による義、これがパウロの神学の眼目であった。 信仰によって義とされるという原理を、この説教では、初めて聞く人たちに、これだけの説明で済ませたのか。そうではないであろう。もう少しは詳しかった筈だ。しかし、ジックリ時間を掛けて解説したところで、聴衆が理解したとも考えられないではないか。後で見るように、「人がどんなに説明して聞かせても、あなた方の到底信じないような事」というのは、この原理にも関連しているのではないかと思われる。これについては最後に触れることにする。 40節から、説教は終わりの部分に入る。結びであるから、項目を加えるのでなく、聞いたことを確認させなければならない。この確認を怠ると、聞いた時には心地よく、あるいは圧倒され、何の抵抗もなく受け入れられたとしても、そのままではドンドン冷え、また消えて行くのである。説教にとって大事なことは、心地よさではなく、チャンと聞き取ること、聞いたところに留まること、揺るがぬ確かさでなければならない。 一般的な話しになるが、通常、御言葉が語られた後には、聞いたことの確認の応答が伴わなければならない。これは、応答によって支えられなければ、神の語り掛けだけでは空しく終わるという意味ではない。――そういう考えなら、神が御言葉を語りたもうことよりも、人がそれをシッカリ受け止める方が肝心だということになってしまう。つまり、神を信じて依り頼むことよりも、自分で自分を確かめることに意味があることになる。一見、信仰者の姿勢に似ているようであるが、御言葉を全面的に受け入れることよりは、自分が御言葉を受け入れているかどうかを吟味する方に熱中している。まるで、神の真実を、聞く者の真実によって完成させようとしているかのようである。 御言葉はそのようには教えていない。イザヤ書55章11節の御言葉は明快である。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、我が口から出る言葉も、空しく私に帰らない。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送った事を果たす」。大地が雨に反応する方が、人間が御言葉に反応するよりももっと素直で、確かだと理解すべきである。 神の言葉は、宜しと見たもう人のうちに働いて、応答を引き起こす。最も簡単な応答は「アァメン」という一言である。「真実にその通り」という意味であるが、神が先ず「アァメン、この通り真実だ」と言われ、それにしたがって我々も「アァメン」と答える。つまり、神の真実が披瀝され、受け入れられ、受け入れた者の真実がこのようにして表明される。謂わば、ここから後には引き下がれません、と約束するようなものである。 角度を変えて言うなら、一旦受け入れた御言葉に背いた時には、破滅が来るということを承知したのである。聞き従えば幸いが来ると約束されるが、背けば破滅になる。このように、あちらの道か、こちらの道か、という形で問われて確認する場合が多い。それが説明としては分かり易い。 しかし、あれか・これかを選ばせられたのでなく、「あなたは聞かなかったではないか。だから、あなたは禍いである」と、後になってから、身に覚えのない請求書が突きつけられるという場合があるのではないか。いや、神は真実であられるから、恵みの御言葉を、聞きっぱなしにさせるのでなく、「確かに聞いた」とその場で確認させたもう。福音の説教はそのようにして行なわれる、と我々は知っている。 ピシデヤのアンテオケの会堂における最初の説教も、そういう手順を取っている。ただし、「御言葉を聞いたのだから、『信じます』という応答しなさい」と勧めをするという形式ではなかった。「信じる者は洩れなく、イエスによって義とされる」という宣言が、すでに「信ぜよ」という命令と勧告を当然含んでいると聞き取るのが正しい。 この場合、「信ぜよ」という命令が続いていないように思われるであろう。だが、次の言葉は、意味から言って、信ぜよと言われたのに、これを侮って信じない。それならば、刑罰があるから注意せよ、という内容になっている。 次の40節から41節にかけて、説教の結びとしてこう言われる。「だから預言者たちの書に書いてある次のようなことが、あなた方の身に起こらないように気を付けなさい。『見よ、侮る者たちよ。驚け。そして滅び去れ。私はあなた方の時代に一つの事をする、それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなた方の到底信じないような事なのである』」。 「預言者たちの書に書いてあること」と言われるが、これは基本的にはハバクク書1章5節の引用である。「預言者たち」と言うから、ハバククの他に誰々の言葉が加えられているという意味に取れるが、引用されるもとの預言者たちの言葉にまで遡って、語句を詳しく調べる必要はない。 パウロがここに引用したのは、ハバクク書1章5節であると言った。旧約の本文を読むと、そこにはこう記されている。「諸国民のうちを望み見て、驚け、そして怪しめ。私はあなた方の日に一つの事をする。人がこの事を知らせても、あなた方は到底信じまい」。………パウロが説教で引用したのは、「見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。私はあなた方の時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなた方の到底信じないような事なのである」という言葉である。 語句が一つ加えられている。「滅び去れ」というのは他から借りてきて付け加えたものである。しかし、語句の意味を詳しく調べる必要はないから、ハバクク書の聖書研究をここに挿入する必要はない。したがって、「あなた方の日に一つの事をする」と言われたその事が何かを調べるまでもない。――ただ、「どんなに説明して聞かせても、あなた方は信じまい」と言われるその事が何であるかは、ここで大事なことではないし、簡単であるから、説明して置いた方が良い。 どういうことが起こるかは、ハバクク書1章6節を読めば明らかである。そこには「見よ、私はカルデヤ人を興す」とある。これで事情が見えて来る。カルデヤ人の国、それはバビロンである。バビロンが攻めて来てユダを滅ぼすのである。その事はあなた方の日の内に、つまりこの時代の間に実現する。 ハバククの言っていた預言内容は、ここではさほど重要でない、と先に言った説明が必要であろう。ハバククは確かに大事なことを語ったのである。そして預言というものは神の言葉であって、必ず成就する。しかし、この場合、パウロはこの預言の成就が重要だから引用したのではない。この預言を一般的に警告のために用いたのである。だから、カルデヤ人についての語句は省いたのである。ハバククという名も持ち出す必要もなかった。 ただ、預言であるから、聞かなければならない。侮ってはならない。そして「あなた方の日のうちに起こる」という切迫した状況は感じ取って置くべきであろう。 さて、ピシデヤのアンテオケでパウロの説教を聞いた人たちがこのハバククの預言を知っていたのか。意味が分かっていたのか、と問題にする人はいるであろう。それは先に述べたことだが、預言内容の成就のために引用されたのではないから、暗黙の内に受け入れていたと見れば良いのである。ユダヤ人なら分かった筈である。異邦人の内でも「神を敬う者」なら分かった。預言を引用した目的は達成された。 預言がそのような目的で用いられる場合は、しばしばあった。預言者たちによって、主の民の歴史の中で、これまで繰り返し用いられたのである。だから、ユダヤ人は知っていた。異邦人である「神を敬う人」も知っていた。したがって、パウロはそのことを踏まえて、こういう語り方をしたのである。それは、どういう意味を持つか。 これまでの預言者たちは、神の民に遣わされた神の使節として、専ら神の民に向けて語ったのであるが、その言い方をパウロは引き継いでいる。つまり、聴衆の中に異邦人が相当数いることを承知しながら、イスラエルの民に向けられた語り方を踏襲したのでる。すなわち、異邦人を最早無縁な、外の人たちであるとは見ず、内の人として、旧約時代に預言者たちが主の民に語ったと同じ語り方で、主の民に呼び掛けるのである。 かつて、預言を聞く者としては、アブラハムの嫡出の子孫しかいなかった。だが、キリストが来られて、今では異邦人も呼び入れられて聞くようになった。それは、どういうことか。それは、かつてのイスラエルに向けての警告が、今やイスラエル以外にも通用するということである。 旧約の時代と新約の時代が同じでないことを我々は繰り返し教えられているが、区別を強調し過ぎてはならない。旧約時代の教え方は新約の民には役立たず、せいぜい参考にされるだけと考えない方が良いであろう。簡単に言えば、旧約の民への警告が新約の民にも警告として引き継がれるという点がここで重要なのである。 今見ていることは預言の主要な用い方ではないではないかと疑問を感じる人がいるかもしれない。その通りである。しかし、そういう謂わば小さい意味の用い方をしてはいけないわけではない。御言葉を与えられたならば、それを侮ることなく、恐れをもってシッカリ聞き取らなければならない。これはイスラエルの歴史の中でシッカリ教え込まれた。そのような聞き方が新約の民の群れの中でも築き上げられて行くのであるが、旧約の民の歴史の中で養われて来た聞き方があって、それは新約の民の中に受け継がれて行って良い。 さて、ハバククの預言はここでは重要な意義を持つものではないと言ったが、それでも何を言おうとしているのであろうか。少し触れて置きたい。この預言書の初めは、ハバククが神に訴える言葉である。「主よ、私が呼んでいるのに、いつまであなたは聞き入れて下さらないのか。私はあなたに『暴虐がある』と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。あなたは何ゆえ、私に邪を見せ、何ゆえ、私に禍いを見せられるのか。掠奪と暴虐が私の前にあり、また論争があり、闘争も起こっている。それ故、律法は弛み、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行なわれている」。 預言者は深刻な危機に立っている。預言者としては神から語れと命じられた御言葉を伝えなければならない。そして、実際、日夜、御言葉を伝えている。しかし、神の民と呼ばれている人々は聞かない。それどころか、民の状況はますます悪くなって行く。社会は崩れて行く。律法も聞かれず、守られず、掠奪と暴虐が行なわれ、義人は悪人によって取り囲まれ、物が言えなくなっている。この現状を預言者は神に向かって訴えている。しかし、神は聞きたまわない。答えもない。預言者自身の身辺も危険に瀕する。そこで預言者は、なおも訴える。やっと神は答えたもう。 これに対する主なる神の答えが、ここに引用される預言なのだ。「私はあなた方の日に一つのことをする。人がこの事を知らせても、あなた方は到底信じまい」。 人々が暴虐に突っ走り、律法を無視し、公義を踏みにじり、預言者が警告しても聞かれていないとしか思われず、預言者が人々の聞かないことを神に訴えても、神は聞きたまわないように感じられる。これでは、この時代のうちに国は滅びてしまう他ないのではないか。……しかし、やっと神は答えたもう。「私はあなたの日に一つの事をする。あなた方が到底信じないようなことである」。 「あなた方の日、あなたの時代がまだ終わらないうちに、私がこの時代の中に介入して大いなる業をするのだ」と主は言われる。それはどういうことか。それはバビロンの民の侵入によるこの国の破壊である。ただし、パウロはこの預言を引用する時、これを成就すべき預言として言うのでないことは明らかである。「このことがあなた方のうちで起こらないように気を付けよ」というからである さほど大事な預言でないと言ったが、用い方が重大なことについての預言の用い方でないとしても、預言が語られた状況は重大であって、しかも今日の我々の状況と無関係とは思われない。 もう一つ注意を促される点がある。神が預言者によって語らせたもう預言は、「人がどんなに説明して聞かせても、あなた方の到底信じないような事」なのだと言われたことについて最後に見て置きたい。ハバククの預言は具体的に言えば、バビロンの侵入とユダの滅亡であるが、それは人々が説明しても到底分からない。人々が安逸を好んで神の裁きを軽んじるから、預言者がどんなに心を尽くして説いても信じないという意味であろうか。キリストの使徒がハバククの預言を用いた時、「キリストを信じる信仰による義」のメッセージは、説明で分かって、楽々と信仰に入って行けるという道ではない。 説教の結びにこの預言が引かれたのは、人々の本性に染み着いている信仰への抵抗と関係がある。それとともに、説明では信仰に到達させることが出来ないということ、しかも、そこを乗り切らせ、そこでこそ信じさせる御霊の力を指し示したのである。
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