2007.05.13

 

使徒行伝講解説教 第90

 

――13:34-39によって――

 

 

 ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教では、キリストの死と復活が中心点であった。すでに使徒行伝の初めから見た通り、主の死と復活は、衝撃的・かつ圧倒的な事件として主の弟子たちの眼前にあった。だから、弟子たちが主の御名を宣教し始めた時、死と復活が中心になっていた。
 それは教えを弘めるというよりは、自分たちを圧倒した事件に、衝き動かされて、その力を伝えずにおられないものであった。――その弟子たちというのは、バプテスマのヨハネが現れて、その手引きによってナザレのイエスの弟子に随いて行くようになった人たちである。
 次の時期、主が世を去りたもうた後で、弟子に加わった人たちの行なった伝道においても、同じであった。それは教えを弘めるというよりは、衝撃を伝えることである。主の死と復活の事実を、単に大事件の説明として物語るのでなく、力と命の伝達として語った。そういう実例の最初のものは、ステパノの説教である。
 ステパノの説教は、彼の死によって消えたのでなく、むしろ火種が迫害を機に燃え盛り、受け継がれ、燃え広がった。その広がりのうちの最も典型的なのは、シリヤのアンテオケに移って、ここを拠点として世界伝道を始めたグループである。この群れを教会として建て上げて行くために、エルサレム教会から派遣されたのがバルナバである。バルナバはさらにアンテオケ教会の働き手のうちにタルソのパウロを加える。
 火は、どこに燃え移っても、火そのものであるように、キリストの死と復活のメッセージは、命そのものの広がりとして、新しく命に生き始める人々を次々と生み出して行った。そのことは、謂わば火の燃え広がりの先端であるピシデヤのアンテオケの礼拝においても同じであったことが見られる。すなわち、キリストの死と復活は、単なる教えではなく、単に教えのテーマでもなく、単に聞く人の胸に焼き付けられただけでなく、力であり、命である。――言うまでもなく、我々は今、その火の燃え広がりの謂わば舌先のところに触れているのである。
 この死と復活をもう少し見て行きたいのであるが、先ず、その「死」を人々はどのように受け取ったか。主の死は、弟子たちにとって、初めは大いなる喪失以外の何物でもなかった。しかし、間もなくその積極的意義が見えて来る。その死はナザレのイエスの生涯の挫折ではなく、また、あってはならない手違いによる失敗でもなく、彼によって果たされるべきことの「成就」であるという点が悟られ、それが強調されることになる。しかも、その成就は「安息日ごとに読んで来た預言者の言葉の成就である」とピシデヤのアンテオケでは宣べ伝えられた。
 久しい昔から主の民の中で聞き続けられ、親から子へと「聞く民」が形成されて来た。さらに、近年は異邦人のうちの「神を敬う人たち」も加えて、一緒に聞いて来た。その聞いたことは何であったか。先の人たちの聞いた預言があり、その預言の成就としてのキリストの死の事件がある。ということは、聞いて来たことがその通り間違いなかったというだけのこと、予告されていた意味は終わったということか。いや、そうではない。預言されていた神の業は成就した。したがって、ここまで親子代々聞き続けていた風習が、用済みになったのか。そうではない。主の民はこの後も、終わりの時に至るまで、聞き続ける民であることがハッキリして来た。
 さらに良く見たい。書かれたことの成就であるキリストの死によって、一巻の終りとなったように見られたが、終わっていないのである。神はキリストを死人の中から甦らせたもうた。そして、この甦りもまた預言の成就であった。この面の強調に注意されなければならない。32節には、「私たちは、神が先祖たちに対してなされた約束を、ここに宣べ伝えている」と言われたが、復活が先祖に与えられた約束の重要事項であることを思い起こさせられるのである。
 キリストの来臨されたことは、当然受け入れらるべきことではあるが、多くの人にはなかなか受け入れられなかった。キリストの死は聖書に書かれていたから、受け入れられて当然であるが、それが書かれていたということすら認めない人が多い。キリストの復活も「事実であるとすれば驚くべきことだ」という程度の理解を示す人はいるかも知れない。しかし、事実があったのだから信ぜよ、と言われるのでなく、聖書に記されていて、それが成就したのだから信じる、というところに達しなければならない。
 甦りもまた預言の成就であることについて、弟子たちは初め思いも及ばなかった。事実だということが確かめられて、信じないわけに行かなくなるが、まだ本当の信仰になっていなかった。御言葉に導かれねばならない。前回、33節に「神は、イエスを甦らせて、私たち子孫にこの約束を、お果たしになった。それは詩篇の第2篇にも、『あなたこそは私の子、今日私はあなたを生んだ』と書いてある通りである」という所を聞いた。
 詩篇はキリスト教会の中で初めの時から重要視され、説教に用いられた。そのことは五旬節のペテロの説教以来聞いている。だが、我々の聞いた限りでは、詩篇第2篇がキリスト教会の説教に用いられたのはここが初めてである。ただし、この時まで詩篇第2篇のキリスト教的解釈が教会の中で発見されていなかったと思う必要はない。詩篇はエルサレム神殿で歌われたが、町々の会堂においても歌われていた。そして、詩篇第2篇は第1篇に続けて歌われたらしい。したがって、最もよく歌われたものの一つであったことは確かである。だが、最も早くからギリシャ語に訳されて、ギリシャ語で礼拝する諸会堂で歌われていた証拠があるのではない。
 詩篇第2篇は「王の詩篇」と呼ばれる一連の詩篇の一つだということは聖書常識の一つになっているが、このような扱いは近代になるまでは誰も知らなかった。近代の聖書学者が、これはもともと王の即位の儀式に、讃美歌として歌われたものではないかと仮説を立て、その仮説を崩す論拠も唱えられなかったため、この説が定着したようである。だが、初めはユダ王朝の即位式の中の讃美歌であったとしても、そのような場面で歌われた機会は、せいぜい一度しかなかった。遥かに確かなのは、エルサレム神殿で、すでに王朝もなく、人々は来たるべき王に望みを置いてこの詩篇を歌い、かつ聞いたということである。
 したがって、主イエスこそ来たるべきお方であることが明らかになった時、詩篇第2篇を、教会は最も重要な詩篇の一つとした。そして、詩篇第2篇が結びつくに最も相応しいのは、キリストの復活であると見た。すなわち、イエスが神の子であられることは、復活によってこそ確定的に宣言されたからである。このことは、パウロがローマ書14節で「御子は聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた」と言う通りである。
 昔に還って見れば、主イエスの初期の教えは「私に随いて来なさい」という単純な言葉に要約されたと言えよう。これは、遥か後の時代に主イエスの弟子になった我々にも、そのまま当てはめられる。この方の後に随いて行くことが全てである、と言って間違いないのだ。何事についても彼のなさったように我々もなすのである。彼が語られたように我々も語る。死に直面する場合があっても、そこでも彼に従って行く。だからこそ、死んで甦りたもうた彼の後に私も随いて行って私も甦る。これが全てだと言って良い。しかし、角度を変えて見るとき、同じ事ではあるが、もっとスッキリ見えることもある。随行者であるには違いないが、キリストの死を別の面から見ることによって、彼の死によって、罪と死の隷属のもとから買い取られた、あるいは贖い出されたということが理解される。
 キリスト教会は、キリストの死を単に感動的な事件として伝えることをしなかった。すでに聖書の民は久しい間、律法によって規定された犠牲の儀式が象徴的な形で表している「罪の贖い」を待ち望んでいた。彼らは律法によって己れを点検して罪を認め、神の前において己れの罪の深さ、悲惨さに気付かずにはおられなかった。また、罪を贖うという儀式の言葉も知っており、それが真実だと思ってはいたが、確実なことは掴めていない。分からないままに信じ、委ねるほかない。そして成就の時を待っていた。こういう事情はヘブル書が的確に指摘して教える通りである。このことの説明は今日は省略するほかない。また、パウロは「蔭」と「本体」というような比喩を用いて、蔭としてしか掴めない現状があることを示していた。
 それでも、キリストによる「成就」を知った信仰者たちは、蔭を掴んでいるのでなく、本体を掴んだことを知っていた。人に説明することは出来ないけれども、自分では十分確信出来たのである。信仰が認識でなければならないことは宗教改革の教会では教えられている。信ずるところは説明出来るようになるべきだということは確かである。I ペテロ315節には、「あなた方のうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明の出来る用意をしていなさい」と言う通りである。しかし、説明がうまく出来ない場合はある。それは許されると言うほかない。それでも、信じていることは確かだと言う場合はある。
 教会の極く初期、キリスト者は、罪の赦しについて、キリストによって「あなた方が赦すようにあなた方は赦される」という実際的な教えを教えられたし、自分自身がキリストの贖いによって神の子とされ、良心の自由を得ていることも確信出来ていた。ただ、その事情を説明する言い方は、まだ出来なかったようである。それは間もなく出来るようになる。
 かなり時代を経てからであったと考えては正しくない。ピシデヤのアンテオケにおいてキリストの福音が初めて宣べ伝えられた安息日に、すでにそのことは教えられていたのである。38節、「このイエスによる罪の赦しの福音が、今やあなた方に宣べ伝えられている」。イエスによる罪の赦し、これが福音の主題だと言っている。
 これは39節に、「信じる者は洩れなく、イエスによって義とされるのである」と言われることと対応する。すなわち、イエスによる罪の赦しは、イエスを信ずる者の赦しのことである。義とされるとは、義であると認知されること、つまり、罪を裁くお方から、罪なしとされること、罪があっても赦されていることである。パウロは後年、ローマ書において、このことをさらに明確に教えたが、この時にすでにハッキリそのことを示している。
 キリストの復活についても、「彼の後に続く」という言い方で受けるだけでは十分でない面があろう。先程見た通り、ローマ書14節の言うように、「復活によって、神の御子として定められた」。すなわち、彼の御子たる位置、我々に対する位置だけでなく、御父に対する御子の位置が、初めからそうであった如くに宣言されたのである。それはまた、復活の主がマタイ伝の2818節で宣言された「私は天においても地においても一切の権威を授けられた」、またピリピ書29節に「それ故に、神は彼を高く引き上げ、全ての名に優る名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものが膝を屈めて、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」と言う通りである。
 次に、34節には、「また、神がイエスを死人の中から甦らせて、いつまでも朽ち果てることのないものとされたことについては、『私はダビデに約束した、確かな、聖なる祝福を、あなたがたに授けよう』と言われた」とあるが、復活という出来事がダビデへの約束の成就であること、しかも、ダビデへの約束がダビデに対して果たされるのでなく、「あなた方」に対して果たされる、と言われる。これはどの預言か。何を言うものか。
 一つの聖句でなく、イザヤ書553節と詩篇1610節を集めたものである。したがって、多くのことを汲み取らなければならない。それは、今語るには多過ぎるので別の機会を待たねばならない。が、纏めて言うならば、それはキリストの民において起こることである。キリストの復活はキリストお一人において当然起こった神的な出来事だというのではない。キリストはその民の首になられたのであるから、首において起こったことは、その体の肢々においても起こるのである。

 


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