2005.02.20.

 

使徒行伝講解説教 第9

 

――2:5-13によって――

 

 

 「さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人が来て住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来て、彼らの生まれ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、誰も彼も聞いて呆気に取られた」。
 先に2章1節から4節に亘って読んだ言葉の続きであるが、前の言葉とは、かなり違った印象がある。すなわち、先に書かれていたことは、圧倒的な神の御業であって、合理的に説明して納得させる余地もないもの、示されるところを、ただただ受け入れるほかないものである。ところが、5節以下、人々が驚き、呆気に取られた事件と言われるのはその通りであるが、説明の出来る出来事である。すなわち、先ず、いろいろな地から多くの人が集まる。五旬節はユダヤ人にとって重要な祭りの一つであったから、外国で生活していたユダヤ人が、かなり多くエルサレムに帰って来ていたということは当然であった。
 人々がいろいろの国言葉を語り出したことは、勿論、驚くべき事件ではあるが、事情を詳しく調べて見れば、説明のつかない、また説明すべきでもない神秘にして神聖なる出来事と言うようなものではない。
 1節から4節までに書かれたことについては、ペテロが14節以下で、ヨエルの預言を引いて、これは「預言の成就」であったと解き明かしている。そうとしか言えない、したがってその通りに受け入れるほかない出来事であった。何かの大音響を伴う事件の中で、人々が異常な興奮状態に陥って、めいめいに異言を語り始めた、というふうに説明することは出来ないのである。
 我々も五旬節の朝の出来事をそのように、預言の成就としてしか理解することは出来ない。すなわち、17節に「終わりの時」という言葉が出ているが、ペテロの言うのは、聖霊の降臨によって終わりの時が始まったという宣言なのである。そのような事態になっていることを人々に分からせるために、神は、そのこと自体は形も色も音もない聖霊の派遣という出来事に、大音響と炎の形という、目に見え、耳に聞こえる徴しを伴わせたもうたのである。御霊が降って新しい世界が始まった。この宣言を先ずシッカリ捉えた上で、その日の様子を見て行こう。
 天下のあらゆる国々から、ユダヤ人がエルサレムに来て住んでいた、と言うが、永住ではなく、五旬節の祭りのために逗留したことは既に見たとおりである。イスラエルの男子は年に3回、過ぎ越しと五旬節と仮庵の祭りに、主にまみえねばならないと旧約の律法は命じていた。旧約の時代でも、地方に住んでいる者がこの規定を守るためには、並々ならぬ努力を必要としたことは、我々の普通の感覚で分かる。実際問題として、規定通りに行なうことは困難であった。けれども、規定を撤廃するとか、緩和するという対策は取らないで、規定は規定として生きており、人々は毎年必ずというわけではないが、規定を守っていた。
 そういうことでは宗教に掛ける費用が多すぎる、と今の人は言うかも知れない。しかし、今でも、例えばイスラム世界においては、生涯に一度出来るかどうかというくらいの覚悟の出費をして、メッカ巡礼に行く人は沢山いる。そんなことでは財産が何も残らないではないか、と我々の周囲の人は批判するであろうが、巡礼に行く人は、それなりの精神的満足感を得ているのであり、その人たちから見れば、現代の日本人の空しい消費生活の方が、よほど浅薄なことに見えているはずである。遠い地域に住んでいるユダヤ人が、多くの費用と労苦を積んでエルサレムに礼拝に行ったことを、その道中で得られた充実感を見習えと言う必要はないとしても、少なくとも長途の巡礼旅行を愚かなことと批判してはならない。ユダヤ人がパレスチナ地方だけでなく、もっと広い範囲に拡散されて住むようになっても、祭りに行くという規定は依然として重んじられていた。
 このような遠くに住むユダヤ人のことを「ディアスポラ」(離散した民)と呼んでいたことは、我々の間で広く知られている通りである。ユダヤ人が離散しなければならなかったのは悲劇として捉えられる一面がある。だから、彼らは再び結集される日が来ることを待っていた。しかし、ユダヤ人たちは離散ということを悲劇的イメージとして捉えるのでなく、その積極的意味を捉えようとした。その第一として彼らが実行したのは、真の神を知らない異邦人の中にあって、唯一の神を信じることの素晴らしさ、また人の手で作った物を神として拝む愚かさと真反対の、作り主を拝むことの素晴らしさを証することであった。
 当然、周囲の異邦人の中の心ある人々はユダヤ人の読む聖書を読みたがり、改宗者となって神の民の礼拝に加わって来る。改宗者という言葉が11節にあるが、異邦人が改宗者となって、キリストの教会に初めから関わっている。
 ユダヤ本国やガリラヤ地方に生まれ育ったユダヤ人が先ずキリストの弟子になり、教会の基礎を築いたのであるが、ディアスポラの人たちもエルサレムに里帰りしている間にキリスト教に入信し、さらにディアスポラのユダヤ人が連れてきた改宗者で教会の重要な働き手になった人も少なくない。ハッキリ外地生まれのディアスポラだと分かる最初のケースは、4章の終わりに出て来るクプロ生まれのバルナバであろう。タルソのサウロ、後のパウロもその類である。
 使徒行伝と使徒書簡を理解するためには、「ディアスポラ」についての理解を持っていることが望ましいが、ここで広範囲な、また詳細な解説や論述をしていては、説教の体裁を壊してしまうから、必要な時にその都度、必要なだけの説明をして行くに留めるほかないと思う。
 ディアスポラのユダヤ人で、祭りのために帰って来て、そのままエルサレムに逗留している人は少なくなかった。その数は分からないが、かなりいた。主イエスが十字架を負ってゴルゴタへの道を行きたもうた時、クレネ人シモンという人が強いてその十字架を負わせられたことは有名であるが、彼はクレネ、すなわち北アフリカから帰って来ていた人である。
 天下のあらゆる国々から、と書かれているが、これが、世界の全ての国という意味でないことは容易に分かる。ただし、ユダヤ人のディアスポラは非常に広い範囲に広がっていた。その範囲については9節から11節に亘って実際に名前が上がっているので、そこで簡単に説明したい。
 天下のあらゆる国々から、という言葉を言葉通り受け入れる必要はないと言ったが、こういう光景を見た報告者は、キリストの福音の全世界への進展の幻を見たと解釈して良いであろう。
 「信仰深い」ユダヤ人という言い方がある。はるばる遠い国からエルサレムに旅して来るほどの人であるから、信仰深いことは当たり前であって、説明の必要もない。が、この「信仰深い」という言葉が大事な意味を持っていることも、説明抜きで分かるであろう。これとは原語でも別の言葉で、日本語では「信心深い」とか、「信仰厚い」と訳される言葉がある。10章2節に登場する異邦人でイタリヤ隊の隊長コルネリオがそう呼ばれる。「信仰深い」と「信心深い」とは日本語では似ていても、言葉としては別であるから、区別して使うのは当然であるが、その違いがどこにあるかは必ずしもハッキリとは説明できない。この「信心深い」と訳されている言葉は、異邦人で改宗した人に適用されているようである。「信仰深い」という言葉は、断定はしないが、ユダヤ人に適用されているように思われる。ユダヤ人として律法を守ること、基本的な信仰、すなわち神は一つであると表明することだけでなく、心から、また全身を打ち込んで神に仕え、神を信じている真の信仰者という含みである。
 かつてアブラハムの子孫が神の民として選ばれたのは、彼らによって世界の全ての人が神の祝福に与るためであったということを我々は知っている。けれども、アブラハムの子孫であるということだけで、その人を通じて人々に祝福が及ぶわけではなかったことも確かである。アブラハムの子孫が真の意味でアブラハムの子であるためには、血筋を引いていることによるのでなく、選びがなければならないと我々は学んで来ている。その選びがあるかないかは、律法を守るかどうかで判然とするというのが一般的解釈であるが、形の上で律法を守るだけでは、偽善者になると主イエスは教えたもうた。だから、律法を守るのであるが、その人の本心、内実が、信仰深い、神を恐れる、魂懸けたものでなければならない。
 キリスト者も、名義だけでなく、またキリスト者としての徴しを示さなければならないのであるが、形の上で、言葉の上で示せば足りるというものではない。信仰深い、あるいは信心深い、飢え渇くようにキリストを求めるキリスト者でなければ、キリスト者として負っている使命を果たすことは出来ない。
 さて、彼らが大音響に驚いて駆け寄って来たところ、彼らの生まれ故郷の国語で使徒たちが語っていた。その生まれ故郷というのは、ディアスポラの子として、彼らが外国に生まれたことを示している。寄留者には違いないが、そこに本籍を置いていないというだけで、そこで生まれたことが身に付いている。身振りや仕草は勿論、ものの言い方もその地の人と区別がつかない。我々の間でもそのような実例はふんだんに見られる。ただ、宗教だけが違っている。
 生まれ故郷の国語というのは何か。このことについて詳しく語ることには、それほどの意義があるわけではないと思うが、少し触れておく。その頃、聖書に関係する世界の共通語はギリシャ語であった。国が違えば言葉も違うというのが今日の我々の常識かも知れないが、これは作られた常識で、本来、必ずしもそうだったのではない。国家権力がその国の中で言葉を統一し、独占した場合もある。
 ローマ帝国の中なら、どこでも一応共通語が通じた。それが世界帝国の理念であった。ローマ人は自分たちの国語であるラテン語を全地に押し付けることはせず、共通語はギリシャ語であった。だから、使徒たちは遠い国に出掛けて、初めからギリシャ語で説教を始めることが出来た。
 勿論、地方地方で違いがある。地方なまりというものがある。話すのを聞いただけで、ペテロはガリラヤ人であると言い当てられた。なまりがあったためである。言語の事情もいろいろあった。ガリラヤではかなり広くギリシャ語が行き渡っていたようである。主イエスは民衆の語るアラム語を専ら用いて説教された。ユダヤにおいてはギリシャ語の使用はもっと限られていた。しかし、ユダヤの議会が総督ピラトと交渉する時にはギリシャ語が用いられたと考えられる。
 それでは、「生まれ故郷の国語」というのは、多少のなまりの違いを含んだギリシャ語のことか。そうかも知れないのである。口語訳聖書では国語と訳してしまったが、これはただの言語のことである。言葉をぞんざいに扱って良いとは思わぬが、これを神である永遠の言葉と混同してはならない。
 「今話しているこの人たちは皆ガリラヤ人ではないか」と言う人たちは、これがガリラヤ人だとどうして分かったのか。それはエルサレムの人々がある意識をもってガリラヤ人と呼んでいたからで、ディアスポラたちがそう教えられたのであろうと思う。ある意識と言ったが、敵意であるかも知れない。そしてナザレのイエスと呼ばれていた主イエスは、この「ガリラヤ人」と呼ぶ時の含みの核心部であった。エルサレム人の中からもイエス・キリストを信じる者が少なからず生まれ出ようとしているのであるから、敵意一色でなかったことは確かである。
 ガリラヤ人がギリシャ語を話しても不思議に思うことはなかったように思われるが、外地から来た人はその実情を知らなかったのかも知れない。
 さて、エルサレムに来た人たちの住んでいたところを見よう。パルテヤは今日のイランの北部、カスピ海の南側である。地中海の東では隠然とした勢力を持った時期もある。メジヤ人というのは、旧約にも名を記されるが、II列王17章6節に、「アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕らえて行って、ハラとゴサンの川ハボルのほとりと、メデアの町々に置いた」と記される。同じ言葉が次の章の11節にもある。北王国のことはユダの人々にも関心が持たれたようである。エラム、これはイランの東南部で、旧約にはさらに繁く名が記される。
 次にメソポタミア。使徒行伝には7章2節に、「父祖アブラハムがカランに住む前まだ、まだメソポタミヤにいた時」という言葉がある。今日のイラクである。ユダヤというのがここに入るが写し違いかも知れない。カパドキヤ、これは新約時代史に出て来る地名である。小アジアの東部であり、ペテロの書簡の冒頭に名が挙げられている。ポントというのは、小アジアの東北、黒海に面した地方である。18章2節には、アクラというポント生まれのユダヤ人のことが書かれている。パウロの協力者として我々も親近感を持つ人物である。アジア、これは我々のいるアジアとは違ってローマが設けた一つの行政区画である。使徒行伝では馴染みのある名である。
 フルギヤというのは、アジアの内陸部にある地方で、パンフリヤはその南の海沿い地方である。エジプト、クレネに近いリビヤ地方、ローマ人については説明を略する。ユダヤ人と改宗者という言い方は、ここエルサレムに集まっている全員を二つに分類すればこうなる。それぞれの地のユダヤ人がエルサレムに行く時、異邦人で唯一の神に改宗した人たちのうち、希望者を連れて来たのである。クレテは地中海の真ん中である。アラビヤとユダヤ人の関係は良く分かっていないが、ガラテヤ書1章17節に回心後のパウロがアラビヤに行ったと書かれているから、繋がりがあったのである。この地域の広がりに驚くのであるが、使徒行伝の世界の人々は広い視野を獲得していた。
 五旬節の事実とは、それまでガリラヤの田舎者だったのに、外国に出て行っていろいろな外国語で堂々と語ることが出来るようになった事件であると思っている人がいる。そのように受け取りたい人がいても反論しようとは思わないが、実情はそれとは違うのではないか。実際、使徒たちはいろいろな外国語を駆使することが出来るようになって、早速全世界に出て行ったか。そうでもなかった。
 詳しいことは正確には分からない。外国語を語る人が出たことは否定出来ない。だから、福音を宣べ伝えるために外国語をマスターする道が開かれていることは信じなければならない。しかし、みんなが力強く語り始めたのがギリシャ語であったと見ても、神の御業を矮小化したことにはならないと思う。
 せいぜい日本語でしか話しが出来なかった者が、外国語で説教出来るようにならなければ、聖霊を受けたことにならない、と考える人がいたなら、明らかに間違いである。外国語が出来なくても福音を真実に語ることは出来る。けれども御霊を受けていなかったなら、御言葉を御言葉として真に語ることは出来ない。あの時に使徒たちに与えられたのは、語学力ではなく、御言葉を真に語らしめる御霊であった。
 しかも、彼らがこの時語ったのがギリシャ語であったと取ることに、小さからぬ意義があることを見て置きたい。これまで、彼らの半ばはギリシャ語を語ることが出来たが、全員が語り得たわけではない。この時、これまで語り得なかった人も、ギリシャ語で説教出来るようになった。それは奇跡と言うべきであろう。これで全員が、ユダヤ人にもギリシャ人にも福音を語る態勢が出来た。
 もう一つ見て置くことがある。ギリシャ語で神の言葉を語り、学ぶことはディアスポラのユダヤ人の間では行なわれていたが、ユダヤ人全体としては、外国語ではまだ本物ではないと見る空気があった。翻訳よりも原典に重きが置かれることは正しい。しかし、エルサレムの当時のキリスト者の全員がギリシャ語で神の言葉を語った。これは外国語での御言葉の宣教に神が権威を与えたもうたことを顕した事件である。
 

 


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