2007.04.15

 

使徒行伝講解説教 第88

 

――13:20-25によって――

 

 

 ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教は、かなり長かった。が、使徒行伝に記録されている他の使徒たちの説教と比べて、特に長いとは思わない。初めてキリストの福音を聞く人に、入門以前の手引きのような話しで終わる訳には行かない。説教というものは悔い改めまで行かなければならない。
 パウロは神の民の歴史を語り始めた。それが昔の話しでなく、今に及んでいる事柄まで、一貫させなければならない。昔の物語りを聞くだけでなく、今日における信仰と悔い改めの決断こそが重要である。だから、語るべき中味、項目は少なくない。いきおい長くなる。――もっとも、聞いた人たちは長いとは感じなかった。それどころか、もっと聞きたいと願った。もちろん、我々も長いとは決して感じていない。
 イスラエルの歴史についての纏めは、幾つかの語り方があるが、ここでは出エジプトに始まる。神は、奴隷状態から解放された御自身の民に、住むべき地を嗣業として与えたもうた。それは嗣業、受け継ぐべき地と呼ばれた。嗣業という言葉は長い時代に亘ってイスラエルの特色ある宗教用語として続く。嗣業の地はカナンであるが、これを征服したというふうには捉えず、神から賜わった嗣業の地として、父子代々受け継がなければならないものである。したがって、その地の地境を動かしてはならない。つまり、これは来たるべき神の国を待つ歩みの象徴になっている。
 前回の続きに入るが、20節に「それらのことが約450年に亘った。その後、神は裁き人たち(士師)をお遣わしになり、預言者サムエルの時に及んだ」と記される。これは旧約聖書では、ヨシュア記から士師記にかけて述べられている歴史である。450年という期間が数え上げられている。450年してサムエルの時代になったという意味であると思われる。
 約450年という年数を人々がどうやって計算し、また言い伝えて来たかについて、よく分からない点がある。列王紀には出エジプトの時からソロモンの神殿が建てられるまで480年であったと書いてあるが、この計算にしたがえば、士師時代はもっと短くなる。ユダヤのラビたちの教えた言葉の中にも、この時代が何年であったかという説がいろいろあったようである。パウロがここで言うのも、その種の歴史研究である。年代を正確に計算しなければならないと主張されていたのではないが、パウロもまたイスラエルの教師として、自分たちの歴史を辿る学びをして、彼なりに450年という数字を出していたことが分かる。
 さて、士師の時代であるが、これに興味を感じる人は少ないかも知れない。族長時代は登場人物に興味がある。預言者時代になると、考えさせられる教訓が続々と出てくる。思想としても深い。それらと比べると士師時代のことは全て幼稚なように感じられる。
 だが、パウロがイスラエルの歴史をざっと語った中には、預言者のことも預言者時代のことも出てこない。ということは、イスラエルの歴史の中に、預言者の占める位置がないということか。勿論そうではない。使徒たちは預言者によって語られていたことを説教の一つの柱として重んじていることを、我々は使徒行伝のこれまでの所でも沢山見てきた。
 つまり、イエス・キリストの来たりたもう以前の神の教えは、「律法」、あるいは「預言者」、あるいは「律法と預言者」というキーワードを使って纏められるのが適切なのである。しかし、時代にそってずっと下って来ようとすると、律法から福音へ、あるいは、預言から預言の成就としての福音へ、という言い方で纏めるだけでは、分かり易いという一面の利点があるとしても、観念的に分かっただけで終わるという危険もある。パウロは観念化した纏め方を避けたようである。
 450年に亘る士師の時代、ここには、モーセとかヨシュアというような偉大な指導者は現れない。人物の出なかった時代である。社会にも見るべきことはない。人々は自分が良いと思うところにしたがって行動した。それでは収まらない非常事態も起こる。他国の侵略。その時は民が主に祈り、主は裁き司を遣わして収拾させたもう。そして、事態はまたもとに戻る。士師の活動としては、非常事態に国民軍を召集し、組織し、これを率いて、侵略者を撃退するという業をしたと記されているが、「イスラエルを裁いた」とも言われる。すなわち、氏族ごとには長老たちが裁判をしていたが、氏族と氏族にまたがった裁判の機関はなかった。だから士師が裁いた。要するに非常事態を士師が乗り切り、またもとの状態に返り、同じ事が450年に亘って何度も繰り返される。
 制度化されていない時代であったと言うことは出来る。モーセの時に定められた祭司制度すら実行されていなかった。政治の制度もない。軍隊の制度もない。だから、制度的に整った他国からの侵入があると、必ず敗れる。その時には、人々が目覚めて神を呼び求め、神は士師を遣わす。士師は戦術の訓練や研究をしていたのではく、御霊の賜物によってその都度難局を辛うじて突破していた。
 これでは経験や教訓が蓄積されなかったではないかと言われる。450年して人々はやっと気が付いて、他国並みに王制が欲しいと要求するようになった。預言者サムエルは民衆の要求を一旦退ける。主がおられるから王は要らない。しかし、神からの指示に従って、結局はその要求を受け入れる。王として立てられる者は預言者によって選ばれ、預言者の司式する儀式によって王として任職され、活動を始める。
 21節に「その時、人々が王を要求したので、神はベニヤミン族の人キスの子サウルを40年間、彼らにお遣わしになった。それから神はサウロを退け、ダビデを立てて王とされたが、彼について証しをして『私はエッサイの子ダビデを見つけた。彼は私の心に適った人で、私の思うところを、ことごとく実行してくれるであろう』と言われた」。 
 こうして、制度は次第に発達し、サウロからダビデにかけてイスラエル国は軍事的にも政治的にも経済的にも発展する。ダビデが王として神の目に適ったというのは、サウルをダビデに置き換えることによって、王国らしい王国になり、地上の王国がやっと来たるべき神の王国の或る意味での雛型になったという意味である。
 ところで、士師の時代450年は無駄であったのか。これを空転した時期であったと見る人は多いのだが、必ずしもそうでないということを学んで置こう。禍いの繰り返しであったことは確かである。他国から繰り返し同じやり方で攻められ、略奪されて悲鳴を上げる。しかし、人々は、神を捨てたことによって神から捨てられたのだと、その都度悟る。そして神に立ち返り、神を呼び求め、神は民を顧みて、これを回復させたもうた。次の王国時代には、人々はもう少し賢くなって、同じ禍いが繰り返されないようにしようと政治制度や軍事制度を整える。では、禍いはなくなったのか。否、もっと大きい禍いを招き寄せることにしかならなかったではないか。そして人々にとって悔い改めの機会がますますなくなった。
 士師の時代は未開の時代であったと言って間違いではないが、未開の状態を軽蔑することによって人類は幸福にならなかったことを知っておかなければならない。むしろ、神の直接介入を人は忘れてしまった。
 ダビデの子ソロモンの代には、イスラエル国は最も栄えた。ところが、我々が今学んでいるイスラエルの歴史においては、ソロモンの名前すら出て来ない。つまり、世界史の中の神の民の建てた地上国の歴史ではなく、キリストの王国に焦点を当てた歴史が描かれていることを読み取らねばならない。
 今日学ぶところでは、ダビデから一挙にイエス・キリストに飛ぶ。それは無雑作な飛躍ではなかった。主イエスの時代にすでに「ダビデの子よ!」と呼び掛ける人がいた。その時代においては、こういう呼び方をするのは例外的なことであったが、ダビデからダビデの子に一足飛びに移ることは無謀ではない。ダビデの子とキリストは同じである。
 23節では、「神は約束にしたがって、このダビデの子孫の中から救い主イエスをイスラエルに送られた」と言う。
 「約束」ということは、信仰の歴史では、初めから語られて来た。そもそも神の語り掛けは、約束であったと言っても良い。信仰者は要するに約束の民、約束を受け、その約束を信ずる民である。それをハッキリ掴んだ最初の人物が、信仰の父アブラハムであった。このことが定義付けられたのは、ヘブル書11章で、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と語る通りである。ヘブル書の記者は信仰の先達をアブラハムよりもっと前に遡り、アベルから始めている。
 今日聞いているピシデヤのアンテオケの会堂における説教では、約束ということについては、ダビデに対する約束として初めて語っている。確かに、ダビデに与えられた約束、ダビデの子なるキリストについての約束。これこそ約束の中の約束である、と旧約聖書は我々に教えている。この約束の事実についてすでに知っている人は多いが、重複を厭わず学んでおこう。サムエル記下7章である。
 ダビデは王国を建設し、自分も立派な王宮に住むようになったが、神の箱が幕屋のうちに置かれているのを申し訳なく思っていた。神の家を先ず立派に建て上げ、それから自分のために家を建てるのが順序ではないかと考えるのが一般的な見識である。その順序を取り違えていることをダビデは心苦しく思っていた。そこで、預言者ナタンに意見を求め、神の家を建てようと思う、と相談する。宗教に関することであるとともに、国家的大事業である。預言者は賛成してくれた。
 しかし、その夜、主の言葉が預言者ナタンに臨んだ。主はナタンに先の彼の判断の取り消しを命じたもう。人がチャンとした家に住み、人々の中の王が豪壮な王宮に住み、神はさらに壮大な宮に住みたもうというのが、どこの国でも見られる理想であり、常識であって、最も分かり易いことである。だが、この常識を神は覆したもう。人が神に最高のものを捧げるのは当然ではないか。人間が当然のことと考えて、受け入れなければならないと思うことを神は却けたもう。それは神が超越したもうというだけではない。
 予想外のことであるが、主はかえって「あなたのために私が家を造る」と言われるのである。家を造るとは、ダビデ家を建ててあげるということ、すなわち、ダビデの子が王となる王国を建てるということである。それはダビデの子であるソロモンが王位を継ぐという意味もあるのだが、むしろ、ダビデの子としてメシヤが来られるという意味に力点が置かれる。この時以来、イスラエルの歴史は、来たりたもうキリストに中心を移したと見た方が分かり易いであろう。
 次に語られるのは、キリスト来臨の直前に現れたバプテスマのヨハネである。新約聖書を読むことに重点を置くクリスチャンは、イエス・キリストの前にヨハネは取るに足りぬものであると考え勝ちである。ヨハネ自身もそう言う。しかし、福音書は皆バプテスマのヨハネを無視しない。キリストの後に続く証し人も大事であるが、キリスト直前の証し人としてはヨハネが並ぶ者のない重要性を持っている。
 ユダヤ在住の人なら、その直前の時期に現れたヨハネとの関連においてキリストを語るのが有効だとしても、異邦人にとっては、ヨハネは興味もないし、意味もないと考えているだろう、と思ってしまうことが多い。しかし、ペテロがカイザリヤのコルネリオの家で行なった異邦人伝道の説教の中でも、ヨハネのことは語られている。そのように語ることによってキリストは正しく宣べ伝えられる。ピシデヤのアンテオケで、異邦人が多数聞いているところでも、パウロの説教はヨハネのことを省略しない。パウロが回心前にヨハネの影響を受けていたのか。そこは何とも言えないが、私の推定するところ、キリストを信じて後、ヨハネの証し人としての位置を教えられたのであろう。
 24節、「その来られる前に、ヨハネがイスラエルの全ての民に悔い改めのバプテスマを予め宣べ伝えていた」。
 キリストが来られて、ヨハネの語っていた教えのレヴェルを一段と高めて「悔い改め」を語られた、というのではなかった。ヨハネは悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。月足らずの教えを齎らしたのではない。そこにキリストが命を携え来たもうた。
 「ヨハネはその一生の行程を終わろうとするに当たって言った、『私は、あなた方が考えているような者ではない。しかし、私の後から来る方がいる。私はその靴を脱がせてあげる値打ちもない』」。これは、私はキリストでなく、その先触れであるに過ぎないということである。それにしても、キリストは、証し人ヨハネを引き連れて来臨されたのである。キリストをその先触れのヨハネと一緒に受け入れることによって福音がよりよく分かるのである。
 キリストの証し人として使徒のことを先ず思い浮かべる。それで証し人が途絶えたのでなく、その後も続く。今も増え続ける。我々もそこに加わる。我々の後にも証し人は増え続ける。けれども、キリスト以前の証し人は増えない。キリストを預言した預言者を証し人と見ることは出来るが、預言者は預言したけれども目撃証人ではなかった。ヨハネは自分の弟子たちに「見よ、これこそ神の小羊」と示したのである。

 


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