2007.03.11.

 

使徒行伝講解説教 第86

 

――13:13-15によって――

 

 

 13節に「パウロとその一行」と書かれている。7節までは「バルナバとサウロ」という順序であった。今ではサウロ、いやパウロが一行の代表になっている。もっとも、1512節では、バルナバとパウロという順序で書かれている。これはエルサレムに行った時のことであるから、エルサレムからアンテオケに派遣されたバルナバが、アンテオケ派の代表になるのは当然であろう。パポスで順位が替わったのは、二人の間に問題が生じたというようなことではない。次回の伝道旅行の時は別々になるが、これはアンテオケから2組の伝道者集団が派遣されるようになったことを意味する。
 さて、彼らはパポスから船出して、パンフリヤのペルガに着いた。パンフリヤというのは、小アジアの南海岸地方で、パポスから北西方向に航海する。使徒行伝2章の五旬節当日に集まった人々の中に、パンフリヤから来た人がいたことが記録されている。これは、この地域にユダヤ人が居留していたことを示すものである。海岸からペルガの町までは少し距離がある。
 ペルガに着いたが、ここを素通りしたかのように思われる。ここはかなり大きい町であった。1400の座席のある劇場、20000人の入る競技場があったという。ユダヤ人の会堂については分からないが、あったのではないか。町の大きさから言っても、相当数のユダヤ人がいたであろう。後日、ここで御言葉を語ったということが1425節に書かれている。
 それなら、なぜ、先ずペルガに留まって伝道しなかったのか。……これだけの記事から推理するのは無理であるが、彼らがさらに進んでピシデヤのアンテオケに行ったというのは、そこへ急いだという含みで書かれているように読み取られる。しかも、そこに行くまでには山道を越えて行かねばならない。日数もかかる。
 幾人かの研究者は、パウロたちとピシデヤのアンテオケとの間に何かの繋がりがあったからであろうと推測する。この町の会堂に行った時の模様からも、そういう関係があったように想像することは出来る。ピシデヤのアンテオケのユダヤ人と、シリヤのアンテオケのユダヤ人の繋がりがあって、シリヤ側の人たちはクリスチャンになったが、その人たちからパウロたちは助言され、あるいは紹介されていたのではないかと考えることも出来る。アンテオケという名の町は、シリヤで何人も立てられた王アンテオコスの名にちなんで名付けられた町であって、あちこちにあった。「ピシデヤのアンテオケ」と呼ぶが、ほかのアンテオケと区別するためである。ピシデヤ地方に属するのではなく、そちらに近い方にあるという意味のようである。ここにはユダヤ人が多かったということである。したがって、パウロのいたタルソと、ピシデヤのアンテオケの関係も考えられなくはない。
 特に興味をそそられるのは、クプロの総督セルギオ・パウロが、ピシデヤのアンテオケとの関係を持っており、そこへの紹介状を書いた、あるいはその町での伝道を勧めたと唱える説である。
 しかし、確かなことが分からないので、パウロたちがピシデヤのアンテオケに急いで行った理由を考えて時間をとるのは良くない。とにかく、ピシデヤのアンテオケにおける伝道については、ここを立ち去るに至るまで、これまでになく詳しく書かれている。だから、細かく読み取るならば、分かることがいろいろある。彼らがペルガを通り抜けたには、それだけの意味があったのであろう。
 このペルガで、ヨハネ・マルコが身を引いてエルサレムに帰ってしまうという不祥事が起こる。伝道戦線からの脱落である。この事件はパウロにとって深刻な衝撃となったらしい。そのことは1537節でもう一度詳しく見ることにしよう。その後、マルコはエルサレムからまたアンテオケに来ていたことが分かる。今はマルコのことには触れないでおく。
 パウロたちはアンテオケに着いて、安息日に会堂に入った。「律法と預言書の朗読があったのち、会堂司たちが彼らのところに人を遣わして『兄弟たちよ、もしあなた方のうち、どなたか、この人々に何か奨励の言葉がありましたら、どうぞお話し下さい』と言わせた」。――先ず見るのは、ユダヤ人の会堂の安息日の礼拝の典型的なやり方を描き出したところである。パウロたちがクプロのサラミスで、諸会堂で神の言葉を宣べ伝えたということを先に読んだが、そこでも同様のやり方であったと思う。
 ユダヤ教の型にしたがったと言えるのだが、それよりは、イエス・キリストのなさったことに倣ったと捉える方が適切であろう。すなわち、主が安息日にナザレの会堂に行きたもうた時のことを、我々はシッカリ覚えている。ルカ伝416節以下である。イザヤ書の巻物を渡され、それを開いて朗読された。「主の御霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別して下さったからである。主は私を遣わして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主の恵みの年を告げ知らせるのである」。この後、「この聖句は、あなた方が耳にしたこの日に成就した」と言って説教を始めたもうた。これがキリスト教会の礼拝の原型である。このナザレにおける主イエスの説教と、ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教を重ね合わせることによって、見えて来る面が数々ある。
 ユダヤ教では、説教者として任職された者しか説教出来ないという制度はなく、イスラエル人であるなら、成人になれば、誰でも御言葉を人々に読み聞かせることが出来、説教も出来た。だから、主イエスも特別な教育を受けて資格を取ったのでないが、朗読も説教もすることが出来た。
 礼拝全体の秩序を取り仕切るのは「会堂司」という役職の指導者であった。会堂の管理人というよりは共同体の指導者である。これは祭司職でも預言者職でもない。長老職と見れば良いであろう。その日に朗読される聖書箇所は別に定められているが、誰が朗読するか、誰が説教するかは、会堂司が指定する。この日、アンテオケで会堂司が、パウロとバルナバに、どちらかが説教をするようにと言ったのはそういう事情である。ここでは会堂司は複数いたようだが、多くの場合1つの会堂には1人であったらしい。ここでは会堂司が複数いて、彼らの合議でことを決めたと思われる。
 「奨励の言葉があれば語ってくれ」と言うところまでの経緯は、分からない。前もって彼らのことを聞いていたのであろう。紹介状あるいは推薦状なしで初めて来た旅人に説教を頼むということはなかったはずである。その紹介状を書いた人は、いろいろに考えられるということは先に述べた。
 「奨励」と訳されるのは、通例「慰め」あるいは「励まし」、「勧め」と訳されている言葉である。「説教」と取って良いが、慰めあるいは励ましということについて我々が先ず弁えなければならないのは、主イエスが「慰め主」は御霊であり、それを与えると約束したもうたことである。その約束が五旬節に成就して、教会の活動が始まったのである。我々は御霊に服従することによってこそ、人々を慰めまた励ますことが出来る。人間から出る善意の言葉は、良き言葉であっても、一時的な慰めになるだけで、真の慰めにはならない。
 奨励に関してもう一点弁えて置きたいのは、これが礼拝の中で、聖書の朗読に伴って、したがって聖書の御言葉の枠内で語られたということである。これが説教である。このことはパウロの説教を解き明かして行く中で、実際を知り得るであろう。
 パウロの言葉、その神学、その信仰は、彼の書簡によって学んで来ている。しかし、彼の説教を聞くことは余りなかった。説使徒行伝でここで初めて彼の声を聞く。これを文字として、資料として、したがってパウロ研究として読むのでなく、説教として聞くようにしたい。使徒行伝で、ペテロの説教を幾つか聞いたが、パウロの説教を聞いて、基本的には同じであると感じる。使徒的説教はこのようなものであったと考えられる。ということは、昔はこうであったという知識を得るためではない。今、私にとって、説教は何であるべきかを示されるためである。
 「そこでパウロは立ち上がった」。――これは、ナザレの会堂における主イエスの説教と違う。主は座って説教された。山の上での説教も座ってなさった。ユダヤでは座って教えるのが普通である。だが、パウロがピシデヤのアンテオケで、立ち上がって説教したのは、型外れとは言えないと思う。立つか座るかは本質的な問題ではない。この町はギリシャ風の町であり、ギリシャ人も多いので、ギリシャ風の雄弁術にしたがって、立って語るのが公けに語る時の作法であったと見て良いであろう。
 手を振りながらというのは、特別なことではなく、熱心に語る時、手は自然に動き出すのである。
 「イスラエルの人たち、並びに神を敬う方々よ、お聞き下さい」。――語り掛ける相手が誰であるかの認識が示される。二つのグループから成る一つの群れである。一つはイスラエル、ユダヤ人である。彼らに対して言われる。「イスラエルよ聞け」。これは礼拝の開会に際し繰り返し語り掛けられた言葉でもある。「イスラエルよ聞け。我々の神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さねばならない」。
 次に「神を敬う方々よ」と言う。神を敬う、あるいは恐れる人という言葉については、使徒行伝の説教の中ですでに何度か触れた。異邦人であって、ユダヤ人の会堂に出入りし、すでに聖書を学び、神を信じている人たちを、ユダヤ人の会堂においてはこのように呼んでいた。43節には「信心深い改宗者」という言葉もある。ユダヤ教に改宗した人もいた。神を敬う人というのと改宗者との区別は今は無視しておいて良いと思う。
 では、「イスラエル」と「神を敬う人」との区別はどうか。一見して分かったのか。分かった場合もあり、分からなかった場合もある。その人の内実に関して言うと、同じ礼拝に参加し、同じ神を信じていても、区別されたのか。区別はあった。だから、パウロのこの言い方もその区別をハッキリ示している。信じている人は皆同じであり、一つであるということは言えなくないが、これでは確かでないところがある。神が契約して下さって初めて確かさが捉えられる。
 イスラエルとは、ユダヤ人、つまり民俗宗教としてヤーヴェの神を信じている者、また他国人でもこの神を受け入れている者、と捉えるのでは足りない。大事なことは、イスラエルは、神と契約を結んでいるという点である。聖書は素晴らしい、と評価する人は必ずしも少なくない。が、その神と契約関係にないなら、せいぜい同好会に入っている程度のものである。イスラエルとイスラエル同好会は別であった。その違いは、契約の徴しがあるかないかである。そして徴しは割礼であった。
 異邦人でも信じて割礼を受ける人はいた。しかし、徴しを受けるに価するかどうかの審査の壁は高い。敢えて受ける意味を捉えることは出来なくないが、理解を妨げる要素が多い。だから、イスラエルと神を敬う者の間の障壁があった。
 しかし、「新しい契約」が齎らされた時、イスラエルと異邦人の間の障壁はなくなった。契約などという物はなくなり、そういう面倒な考えはなくなったというのではない。古き契約に入っていた人は新しい契約に入り直す。ただし、古き契約と新しき契約は恵みの契約という意味で本質的には同じである。そして、これまで神との契約ということを知らなかった人は、新しい契約に入る。これがキリストにある者となることである。
 さて、アブラハムの子らに与えられた約束を、神がイエス・キリストにおいて成就したもうたことは、宣べ伝えるべき重要事項であるが、この成就の時に備えて、少し前の時代から、神は肉によるのでないアブラハムの子を、計画に基づいて生み出しておられた。このことは、福音の主題ではないとしても、福音がどのように伝えられて来たかを知るためには、無視してならない事実である。神の福音は、すでに早い時期からユダヤ人の専有物でなくなっていたのである。
 そういう人たちがエルサレムにも、シリヤのアンテオケにもいたのであるが、ピシデヤのアンテオケにはもっと多くいて、神を敬う人と呼ばれた。それが礼拝集団の一要素になっているのを見るのは初めてのケースである。
 異邦人への伝道がシリヤのアンテオケで始まったことを1120節で読んだ。パウロによってでなく、バルナバによってでもなく、それ以前から始まっていた。そのように、アンテオケ教会は異邦人伝道に強い関心を持っていたから、バルナバとパウロを海外伝道に派遣したのであるが、ピシデヤのアンテオケでは、異邦人に神の言葉の門戸が開かれていたので、この異邦人をイスラエル人同様、キリストの福音に導き入れなければならない。――パウロたちがペルガから急いでアンテオケに来た理由は、ここの会堂には、異邦人で神を信じ敬う人が多数来ているという情報を得ていたからであろう。
 パウロによるこの地での福音の第一声はこのことを弁えた発言であった。画期的なことであった。それは神が備えておられた門戸であった。


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