バルナバとサウロが地方総督セルギオ・パウロに招かれて、「神の言葉」を語ることを求められた。この総督は「賢明な人」と書かれているが、「神を恐れる人」、「敬虔な人」とは言われていない。すなわち、異邦人で神を恐れる人と書かれているのは、改宗者というのに近い意味を持ち、キリストの民に加入する門前まで来ていた人である。この総督はそれではなかった。だから、信仰に入り掛けていたとの解釈を強調するのは行き過ぎである。彼がどういう人であったかをこれ以上詮索する必要はない。伝道者がどういう姿勢で臨んだかに我々は関心を向ける。
神の言葉を聞きたいという求めが総督の側からあった。だから、それに答えた。バルナバとサウロが売り込んだのではない。それぞれの地に行って、権力者に先ず表敬訪問して語るという伝道の仕方があるが、主イエスはそれをなさらなかったし、使徒もそうしていない。それでも、伝道者は求められれば、どういう人からであっても語るのである。ここで二つのことを考え置かねばならない。第一は、地位の高い人であれ、低い人であれ、人間として平等に扱うことであり、その人にとって必要な真理の言葉、救いの言葉を語ることである。
第二は、救いとは必ずしも関係なしに問われる場合があるが、その時も、問いには誠実に応じなければならない。主イエスは、揚げ足を取ろうとして質問して来る人にも適切に答えたもうた。その真似はとても出来ないと尻込みする人があろう。私自身もそのように思い、訊かれたら困るから、なるべく質問を避けておこうとする姿勢を取り勝ちである。しかし、これは正しくない。今はそういう相応しくない問いに答える場合でない、と弁解されるかも知れないが、語るべき場かどうかは我々の判断で決めることではない。いつ問われても答えられる用意をしていなければならないのが福音を携えている者の務めである。
問われて答える、という場合の一つに、地上の権力を持つ者からの問いがある。権力におもねってはならないが、立場が違い過ぎることを理由に、答えないでおくというのは逃げである。主イエスは「あなた方は長官たち王たちの前に立たされ、彼らに対して証しをさせられる」と予告された。これは、王たちへの礼拝が強要され、したがってキリスト者が殉教するか・屈服するかの岐路に立たされる場合があることを示唆している。それとともに、キリスト教会の公けの位置、信仰のこの世における発言、これを明白にする機会である。パポスはそのような場所になった。総督が「信じた」と書かれているのは、彼個人として信じたのであって、その地域社会が信じたことに直接に結びつくのではない。
ここでバル・イエスの妨害が入る。「エルマ」という名が上がっているが、魔術師という意味のようである。エルマが総督を信仰からそらせようとしたことは確かであるが、バルナバたちが総督を信仰に入れようとしたのを妨げた、と取らなくてもよい。ただ、問われているのが「神の言葉」であったから、神の言葉を神の言葉として語ったのである。それは、例えば、旧約の預言者が王の前で、ダニエルがバビロンの王の前で語ったようにである。
この妨害に対して、それまでバルナバの後に随いて行く人のように書かれていたサウロが、前面に立って、エルマと対決する。この時から二人の順位が入れ替わる。それとともに、これまで「サウロ」と言われていた名が「パウロ」に入れ替わる。パウロにとって画期的な出来事であった。この時一回だけの奇跡的な業でなく人が変わったようになる。
パウロという名は幼い時からのものであろう。ギリシャ語世界では、セルギオ・パウロの例もある通り、よく通用した名前である。それに対しサウロはヘブル名である。彼はローマ書11章1節で言うように、ベニヤミン族の出身であるから、この氏族から初めのイスラエル王となったキシの子サウルの名を貰って、こちらの方を大事にしていた。その姿勢がここで劇的に変わった。
どういうことが起こったのか。的確には把握出来ていないが、キシの子サウルが別の人になったような大きい出来事であったことは認めねばならない。それは御霊に満たされることによって起こった。サウルが新しい人になることを預言者サムエルはIサムエル10章6節で預言して言った。「その時、主の霊があなたの上にも激しく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変わって新しい人となるでしょう」。この通りのことが間もなく起こった。同じようなことがタルソのサウロに起こった。それがパポスで起こったことを解く鍵になる。
「パウロは聖霊に満たされ、彼を睨み付けて言った、『ああ、あらゆる偽りと邪悪とで固まっている悪魔の子よ、全て正しいものの敵よ。主の真っ直ぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主の御手がお前の上に及んでいる。お前は盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ』」。
「聖霊に満たされた」という言い方に我々は馴れているが、使徒行伝ではこれまで、むやみに用いられた表現ではない。五旬節の朝、「一同が聖霊に満たされて、他国の言葉で語り出した」と、2章4節に言われた。4章の8節では、「ペテロが聖霊に満たされて、議会の中に立って語った」ことが記される。この二回だけである。御霊が働いた場合が他にもいろいろあったと考えて間違いではないと思う。しかし「御霊に満たされた」と言い表されるのは特別な機会であることに注意したい。
これまでの二つのケースでは、御霊に満たされることは言葉を語ることと結びついていた。ここでも同じである。魔術師に対して大いなる力を発揮したというだけの理解では不十分である。言葉が力を顕したのである。言葉だけなら口真似できる。しかし、口真似では力が現れない。
パウロがここでエルマに対して怒りを発揮したと取っては、不十分というよりは的外れである。人間的な怒りを読み取っても当然ではないかという意見があろう。しかし、そのように読む時、御霊の働きは霞んでしまって、捉えられなくなるから、パウロの怒りは敢えて無視しよう。共感を覚えるというような読み方はしない方が良い。特別な事件が起こったと読み取らねばならない。
パウロのこの言葉は、彼の能力による判断からのものでなく、彼の感情から発したものでもなく、主が語らせたもうた宣言である。「悪魔の子よ」と決めつけた。「バル・イエス」という名は「イエスの子」という意味である。そのイエスはこのエルマの父の名である。主であられるイエスとかけてあると取る必要はないが、そう読み取っても良い。イエスの子でなくサタンの子だ、と言おうとしたように聞き取って間違いはない。実際、含みとしてはそうなる。反キリストよ、という響きが聞き取られる。真実と善の極みであられるお方の対極点にあるのが偽りと邪悪の塊であるこのエルマである。
この魔術師がイエス・キリストについて何ほどか聞いていたかどうか、我々には分からないが、総督も「神の言葉」という語句を知っていたらしいから、エルマもこれを耳にしたことはあるかも知れない。
「全て正しいものの敵」。――これも、前の言葉と一連のものである。ここで「正しいもの」と言われるのは、使徒行伝ではここにしか出ていないのであるが、パウロにとって最も重要な言葉であったことを我々は知っている。すなわち、これは「義」という言葉である。パウロのローマ書のテーマである。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる」。あの義である。今は詳しくは語らないが、その義である。
パウロがここで「全ての義の敵よ!」と呼んだ時の意味は「全ての義」という言い方に含まれている。「主の真っ直ぐな道」。これは旧約聖書でしばしば聞く言葉である。直ちに思い起こすのはイザヤ書40章3節、「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、砂漠に我々の神のために大路を真っ直ぐにせよ』」。エルマはこれに真っ向から反対する。それがどんなに恐るべき罪であるかを我々は心得なければならない。
このように読んで来ると、パウロたちが総督に語ろうとし、また実際に語ったのは、知的な言葉でなく、真っ直ぐな福音であったことがハッキリする。しかも、もう一つのことが浮かび上がる。パウロはエルマをキリストの敵として、したがってキリストの側にある者として直截的に呼ばわったのであるが、当然、そのように呼ばれて相応しかった一人の人間のことを自分では知っていた。彼の意識をここに読み込むことは慎んだ方が良いかも知れない。それでも、我々としては、ダマスコ門外のサウロをここに思い起こす。
彼は打ちのめされ、目が見えなくなった。サウロとエルマと、その歩んだ道がどうなったかを比較することは余計であるが、かつて打ち倒された人が語っているのである。
「たちまち、霞と闇とが彼に掛かったため、彼は手探りしながら、手を引いてくれる人を捜し回った。総督はこの出来事を見て、主の教えにすっかり驚き、そして信じた」。
これは総督官邸の中に霞と闇が湧き起こったと取らなくて良い。だが、実際、エルマは目が見えなくなったのである。それはキリストに敵対する者に対して、キリストが反撃したもうたことである。パウロ自身はかつてもっと悪性の反逆をした。そして、「刺のある鞭を蹴れば、傷を負うだけである」との御声を聞いた。
主の御言葉に逆らい立つ者の努力は、どんなに強力にまた巧妙になされても、一切が無効に終わるということを我々は知っている。それとやや違って、主が直々に敵に立ち向かい、反逆者を砕きたもう場合がある。先の場合、力が足りなかったという挫折感はあるが、主の御旨に逆らった、という恐れにならない場合が多い。だから、ここで180度の転回が起こることはまずない。後者の場合、主が立ち現れたもうのであるから、逆らう者は倒され、傷つく。それでも、この時の主の現れは、救い主としての本来の現われではなく、逆らうことの出来ない刑罰執行人として力を行使したもうことを思い知らされるだけである。パウロの場合について言えば、ダマスコ教会の指導者アナニヤという人がその次に主から遣わされて、信仰の指導をする必要があった。
エルマの場合、目が見えなくなった彼に、信仰の指導をした人がいるのかどうか、我々には分からない。憶測しても無意味であるから触れない。我々に分かるのは「お前は盲目になって、当分、日の光が見えなくなる」と言われたことである。つまり永久に失明したのでなく、打撃はやがて癒される。それが主の恵みに入ることなのか、自然的な肉の目の治癒に過ぎなかったものか、どちらのも取れるが、確かなことは分からない。だから、これ以上のことは議論しても無駄である。
結果として分かっているのは、総督が信じたことである。しかし、どのような信じ方だったのか。力ある業を見たことによる信仰であるから、奇跡に圧倒されて信じるだけの、一時的な信仰に過ぎなかったのではないかという解釈が成り立つ。だが、出来事を見て驚いたが、信じたのは「主の教え」である、と取るのが正しいのではないかという主張も十分成り立つ。
さらに、総督は信じたけれども、バプテスマを受けたとは書かれていないから、信仰に入ったことの確かな証拠はないではないか、と言う人もあろう。これももっともな議論と見て良い。ただし、そう言い切って良いか。「全世界に出て行ってバプテスマを施せ」と主が命じたもうた言葉は、受け入れ、実行しなければならない。しかし、バプテスマそのもののうちに救いをなす力が含まれているわけではない。バプテスマは力でなく、力があることのしるしである。
もう一つ見なければならないのは、今回の伝道旅行の記録の中で、バプテスマには一度も触れていないことである。各教会で長老を立てるということまでなされたのに、バプテスマのことが全然出ていない。それはバプテスマが行われなかった証拠だと取って良いのであろうか。――こういう議論は、しても意味がない。パウロたちの伝道旅行の中で大事なことは、何人がバプテスマを受けたかというような成果を挙げることではなかった。御言葉の力が現れたことこそ大事であった。そして今も、数が何かの徴しになるのではなく、御言葉が力を顕すことこそが大事なのである。
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