2007.02.18.

 

使徒行伝講解説教 第84

 

――13:4-7によって――

 

 

 「二人は聖霊に送り出されてセルキヤに下り、そこから舟でクプロに渡った」。――アンテオケ教会が二人を送り出した。3節ではそのように学んだ。だが4節では、送り出したのは聖霊であると言う。この二通りの言い方が矛盾しているとは思わない。

 前回、バルナバとサウロが伝道の使命を受けたことと、アンテオケ教会が彼らを派遣したこと、この二つが別々の出来事でありながら、重ね合わせられるのを見た。今回は、聖霊が送り出すことと、教会が送り出すこととが、別々であって一つであるのを見る。綜合して言えば、人、教会、聖霊、この三つが、独自性を持った別のものであり、しかも矛盾なく交流する。一つが表面に立って他を見えなくするようなことがあってはならない。使徒行伝の出来事を学ぶ時、この三者が三つとも見えて来る読み方をしよう。

 バルナバとサウロ、彼らは或る面では物語りの主人公である。しかし、それだけしか見えないならば、その人の活動が止み、存在感も影響力もなくなった後は、ただのお話しに終わる。彼らを送り出した教会が見えなければならない。そして、ことの全体を動かしている主の御霊が確認されていなければならない。それが使徒行伝の読み方である。

 二人はアンテオケからセルキヤに行く。セルキヤはアンテオケよりも古いシリヤの港町である。シリヤ王セレウコスの名を貰って紀元前3世紀の半ばに建てられた。アンテオケの方が大きくなり、ローマ帝国の三大都市の一つになる。セルキヤはそれに付随する港になる。セルキヤまで1日の道のりである。川を舟で下ったかも知れない。

 二人組であることに触れておこう。これまで、ペテロとヨハネが組になって行動した例があるが、つねにそうだったのではない。イエス・キリストも12人を2人ずつ組にしてユダヤ全国に遣わしたもうたことがあり、それが模範にされた。二人一組でなければならないと言う必要はない。しかし、伝道は人と人を協力させる主の業である。

 セルキヤからクプロ島の東の都サラミスに直航した。ここは以前からクプロの中心都市であったが、すぐ後に名前の出るパポスに中心が移り、伝道者たちが行った時、地方総督はパポスにいた。パポスが大きくなったのは、サラミスの港が浅くなったからであると言われている。

 島の住民はフェニキア人である。ユダヤ人と昔から関係が深い。そこでユダヤ人が特に多く住むようになる。後の時代に、もとからの住民とユダヤ人の間に流血の抗争が起こり、ユダヤ人は全部殺される。この事件に今は触れないが、もとからの住民に匹敵するほどのユダヤ人人口があった。会堂も複数あった。

 その諸会堂はキリスト教との繋がりをすでに持っていたらしい。すなわち、エルサレムで迫害され、アンテオケに行って、そこで「キリスト者」と呼ばれるようになった人たちは、途中ピニケとクプロに寄っていることを1119節で読んだ。ピニケはフェニキアのことであるから、北上する人は必ず通る。が、クプロに行くのは寄り道である。舟に乗り換えなければならない。ピニケからクプロに直航したのかも知れない。彼らの立ち寄ったのはサラミスであろう。そこに行ったのはどういう意味か。何かの関係があったに違いない。しかし、今は詮索しないでおく。伝道の熱意に燃えていた人たちであるから、その時サラミスのユダヤ人会堂に働きかけたであろう。とにかく、関係はあった。その後、アンテオケからサラミスへの連絡はあったであろう。

 それと別に、バルナバはクプロ生まれのレビ人であり、父は資産家であった。エルサレムに移る前、サラミスの会堂やその指導者とかなりの関係があった。バルナバはエルサレムに行ってからキリスト者になったが、その頃、ユダヤ人の海外居留民は、商売上のことでギリシャ語を使うだけでなく、ギリシャ語で聖書を読み、また会堂の礼拝を守っており、この人たちがキリスト教に接近する気運が各地で起こる、ということを我々は知っている。サラミスの会堂にもそれと共通する傾向があった。だから、バルナバの故郷再訪の結果は大きかった。アンテオケ出発前にサラミスを目指すことは決まっていた。事前にサラミス行きを伝えてあったと見るのは当然である。

 一方、サウロにとってサラミスは初めての地かも知れない。だが、彼の生まれたタルソのあるキリキヤは、以前クプロと同じ管轄のもとに置かれたから、来たことはないとしても、ユダヤ人同士であるからサラミスについて知ることは沢山あった。また、タルソからユダヤに海路を選んだとすれば、サラミスで乗り換えたであろう。サウロにとって見ず知らずの地への旅のように我々は受け取るかも知らないが、未知の国への旅立ちであったと考え過ぎないでおく。

 大事なことは、二人は諸会堂に行って、説教し、それが「神の言葉を宣べ伝え始めた」と要約される点である。要約された事実を掘り下げつつ読み解けば、生の事実が見えて来る。一つの会堂から始めて、次々説教してまわった。会堂の側から「神の言葉」が求められたという解釈には裏付けの資料が必要であり、それはないのだが、求められることはあり得た。すなわち、先にこの地で福音が宣べ伝えられたからである。人々から「神の言葉をもっと聞きたい」と求められた。

 神の言葉を語ってほしいと求められた、と取るのは読み込みではないかと言う人はいるかも知れない。それでも、二人の側が「神の言葉を語る」という意識をもって語ったことは認めずにおられない。そして、語られたのがまさに神の言葉であったことは確かである。聞いた人の少なくとも何人かは、これを「神の言葉」として聞き、聞いた人は信じた。神の言葉は力に満ちているのである。

 後日、ピシデヤのアンテオケに二人が行った時、タルソのサウロの名が知られていたのかも知れないが、安息日に会堂に行くと、奨励の言葉が求められた。14節で見られる。少なくともその程度の求めはサラミスでもあったであろう。

 サラミスを手初めとして、サウロの伝道旅行はいつでも、新しい場所に行った時、先ずユダヤ人の会堂を訪ね、そこを拠点として異邦人伝道を展開する。初めてだから異邦人伝道の手がかりはなかったのだが、ユダヤ人会堂に行けば、そこには異邦人で神を恐れる人が待っていた。サラミスにそういう人がいたかどうかは分からない。

 さらに、サウロには確信がある。ローマ書116節にあるように、「ユダヤ人を初めとして、異邦人に」という順序の確信があった。初めはユダヤ人なのである。これは同国人を優先するという考えではない。神が約束を与えたもうた民は、キリストの来臨を真っ先に聞かなければならない。それが神の計画であり、サウロの信念であった。だから、クプロでは会堂は全部廻ったと見なければならない。長く滞在することはなかったかも知れない。

 5節には付け足しのように、「彼らはヨハネを助け手として連れていた」と書かれている。出発の時から一緒であった。ヨハネの名がこれまで出なかったのは、彼が一行から脱落するという不祥事がこの後にあるからであろうが、もともと派遣されたのはバルナバとサウロである。それは主の御声によっても確認される。ヨハネ・マルコは員数外の見習い伝道者である。按手も受けていない。しかし、何かの補助役はしたであろう。少し後の時代、伝道者の一行には初歩の求道者を指導する「カテキスト」という名称の補助伝道者がいたが、ヨハネはそれではなかったかと言う人がいる。しかし、カテキストは職務を持つ一員である。ヨハネはまだそこまで行っていなかった。

 二人はサラミスからパポスに行った。「島全体を巡回して、パポスまで行った」と書かれているが、町々村々を全部巡り尽くしたのではない。会堂のある所には行った。ユダヤ人はこの地では寄留者であるから、殆ど都市の住人である。都市はサラミスとパポスだけで、あとは農村と漁村であり、会堂はみな都会にあった。バルナバとサウロが都市伝道に執着し、田舎には見向きもしなかったというわけではない。

 彼らが急いで次々に会堂を訪ねたように感じられるが、その通りであって、メシヤが来られたという告知を、急速に広めなければならないと感じていたことはたしかである。

 パポスは島の西の端に近い港である。「そこでユダヤ人の魔術師、バル・イエスという偽預言者に出会った」。――ここでは我々には聞き慣れないことに出会う。

 バル・イエスという魔術師については、ここに書かれていること以上は分からない。「魔術師」と聞いて思い起こされるのは、8章にあった魔術を行なう人サマリヤのシモンである。シモンが魔術師「マゴス」だとは書いていないが、同類と見ておく。同じ時代であり、キリスト教に半ば関わった人である。ユダヤ教は魔術的なものを排除するが、預言者はいたし、神秘な要素は或る程度受け入れられたから、やや似たものとして魔術師が入り込めた。なお、マタイ伝2章にある東の国から来た博士、これは「マゴス」という言葉である。

 この時代、異邦人がユダヤ教に改宗し、その異邦人がさらにキリスト者になるということが起こり始めた。アンテオケのシリヤ人ニコラオ、カイザリヤの百卒長コルネリオなどの前例がある。そのように宗教的関心が高く、宗教的流動が起こっていた。サラミスでもパポスでもユダヤ人らはキリストの福音を受け入れたであろうし、会堂に出入りしていた異邦人が入信したかも知れない。それは不確かだから触れないが、地方総督のセルギオ・パウロが熱心に神の言葉を聞こうとしたのは確かであり、この時代の特色を示すことだった。この総督はユダヤ人の会堂に出入りしていたのではないようだ。知識欲があり、宗教的関心もあって、魔術師バル・イエスを宮廷顧問として招き、話しを聞いていた。バル・イエスもギリシャ語によって総督と接していた。

 バル・イエスが「偽預言者」であったという言葉にも関心を持っておこう。我々の視点から言えば間違いなく偽預言者だが、本人はそう思っていないし、パポスのユダヤ人の中にもバル・イエスに従う人がいたはずである。彼が偽預言者であるとの判断は9節以下のサウロの言動が確定したことである。そのことについては9節以下で見る。預言者と自称する偽預言者が人々を惑わす事実は、旧約の預言者の時代にも多く見られる。ホンモノと見紛うのである。ましてこの時は宗教的混乱時代であった。

 預言者と思われたのは自分でそう名乗ったし、預言者と見られる超能力を発揮することもあったからであろう。偽預言者と言うよりは悪魔の子、全て正しいものの敵と呼ぶ方が適切である。総督がこのユダヤ人を宮廷顧問として雇っていたのは、欺かれたからではなく、知識欲が旺盛であったからであろう。天文学と宗教の知識を得ていた。

 このセルギオ・パウロの名を刻んだ碑文がクプロに幾つかある。彼がクプロの総督であった事実について疑問の余地はない。ただし、彼のこの後のことは分からない。地方総督というのは、クプロ島全体の総督であって、在任期間はそれぞれ数年である。数年後にバルナバがこの地を訪れるが、セルギオ・パウロはいなかったようである。

 総督は魔術の影響は受けなかった。賢明な人であったと書かれている通りである。つまり理性によって判断する人だったからごまかされなかった。理性によって真の神に到達することは不可能であり、理性によって神を求め始める機縁を掴むことも実例としては殆どない。しかし、理性によって不条理な宗教を見分けて却けることは出来る。キリスト教がまだ何百年もの間、圧倒的に多数になることはなかったが、帝国の弾圧にも拘わらず伸びて行ったのは、セルギオ・パウロのような人がかなりいたからである。

 しかし、条理の通ることを重んじるのが福音だと言ってはならない。それは良識であっても、救いの道ではない。納得は出来ても悔い改めにはならない。それでも、総督は神の言葉を求めた。

 では、バルナバとサウロから神の言葉を聞くことが出来るということをどうして知ったのか。そこは使徒行伝の記者が後からそう書いただけだと言えるかも知れない。それにしても、総督の側からこの二人の旅行者を招いたのである。二人の側から総督官邸に押し掛けたのではない。

 7節にある「神の言葉」は、5節にあった「神の言葉」との関連があってこそ分かるのではないか。サラミスで神の言葉を聞いた人が、そのことを伝えた噂が広がって総督の耳に入った。彼がどうしても神の言葉を聞きたいと感じたことについて、我々には説明が出来ない。しかし、神が引き寄せたもうのでなければ、人は神の言葉を聞くことも、聞きたいという願いを起こすこともない。

 総督は最初、風聞を耳にして、単なる知的欲求から、神の言葉を語ると自称する旅人はどんな人か見たいと思っただけかも知れない。あるいは、ユダヤ教について、かなりの知識があって、もっと知りたいと真髄に迫ることを願ったとも十分考えられる。それにしても、御言葉を聞いて御言葉そのものの力によって信じたというのでなく、サウロの発揮する力強い徴しに驚いたのである。このことについては、パポスにおける事件について述べ始めたところであるから、さらに立ち入って聞かなければならない。

 


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