2007.02.11.

 

使徒行伝講解説教 第83

 

――13:1-3によって――

 

 

 アンテオケ教会の預言者と教師の名が挙がっている。どれが預言者で、どれが教師であるかは書かれていない。エルサレム教会には「使徒」と呼ばれる12人が権威を持っていたが、アンテオケに使徒はいなかった。また、預言者と教師の区別については良く分からない。預言者の方が地位が上であると言う人はいるが、その頃、教会の職務の順位が決まっていたかどうか、分からない。今は問わなくて良い。

 これはバルナバとサウロがエルサレムから帰った頃のアンテオケ教会指導者の顔ぶれであるが、1225節に続く記事ではない。ここで文章が切れる。そして一転するのである。これまではエルサレム教会を中心として述べていたが、ここからはアンテオケが使徒行伝の中心になる。大事件が起こったのではない。使徒行伝という歴史を書いて行く目が、エルサレムからアンテオケ中心に移ったということである。

 バルナバの名が真っ先に挙がるのは、彼がアンテオケの伝道者の中で代表的な人、あるいは指導者であったということであろうか。彼とサウロを別にすると、ここに名前を連ねる人のことは殆ど分からない。

 エルサレム教会には使徒のほかに長老が立てられた。預言者もいた。名称はハッキリしないが執事がいた。教会内に階級があったということではないが、指導する人たちはいて、秩序はあった。指導力の違いがあった。――それと比べて、アンテオケの指導層はようやく立てられた人たちで、みな若かった。

 アンテオケに教会を建設したのは、ステパノの殺害から始まったエルサレムでの迫害を逃れて、ピニケ、クプロを経てここに到着した人たちである。難を逃れて来たと言うことは出来るが、それだけなら、こんなに長い道のりを辿る必要はない。彼らは教会の新しい中心地を求めていた。エルサレム中心の体制に反発してアンテオケ中心の体制を作ろうとしたというのではない。対立はない。幾つも幾つも中心地が出来て行く体制を造り始めた。

 彼らはステパノと同じ傾向の思想の人たちに違いない。すなわち、ギリシャ語を用いるユダヤ人グループである。旧約聖書もギリシャ語で読む。彼らは初めからギリシャ語で伝道していた。しかし、ステパノ派だけでアンテオケ教会を建て上げたのではない。バルナバが遣わされて来たし、エルサレムから加わった預言者たちもいた。

 5章に書かれた7人の中に、アンテオケの改宗者ニコラオの名がある。この人はアンテオケ生まれであろう。すなわち、シリヤ人で、アンテオケのシナゴグに通って聖書を学び、ユダヤ教に改宗し、それからエルサレムに巡礼に行った機会に、福音に接し、キリスト教に改宗し、洗礼を受けた。だから、アンテオケ教会を建て上げるのにニコラオが当然関わったのではないかと思われるが、彼の名はそれ以後は出て来ない。

 エルサレムから逃れた人の中でクレネ人とクプロ人が特に伝道熱心であったように1120節で読んだ。13章の初めに出て来るクレネ人ルキオはそのクレネ人の一人であろう。このルキオがルカと同一人物ではないかと想像する人がいる。13章の初め以後、筆遣いが違うのはそのせいではないか。それはルカが関わっているからではないか、とも言われる。しかし、確かではない。

 バルナバはアンテオケ教会が生まれた後で、エルサレム教会から派遣されてここに加わった。サウロはさらにその後、バルナバによってタルソから連れ出されて、アンテオケの伝道者に加えられた。サウロについては今は触れなくて良い。彼の名がここで最後に書かれているのは一番遅く加わったことを示すのではないか。

 一つ一つの名前について見て行く。ニゲルというシメオンはどういう人か。推測すら出来ない。シメオン、これはシモンと同じであるが、ユダヤによくある名前で、ユダヤ人である。「ニゲル」という呼び名は「黒い人」というラテン語であるが、エチオピヤ人のような黒い肌を持っていたのかどうか。北アフリカにユダヤ人がかなりいて、その中でキリスト者になった人は多いが、ニゲルはクレネ人シモンのことなのかどうか、それは分からない。

 マナエン。これはユダヤ名である。ヘロデというのは前の章にあったヘロデ・アグリッパ王でなく、ガリラヤ領主ヘロデ・アンテパスである。マナエンとヘロデとどういう関係であったかも分からない。マナエンはガリラヤのテベリヤ辺りで育ったユダヤ人であろう。ヘロデと親しい上流の人であろう。ギリシャ文化に深入りした上流社会の人であろう。それにしては、ギリシャ風の名を名乗らず、マナエンで通した。

 このように、名前と出身地以上のことは分からない。その人がアンテオケでどういう働きをしたかも分からない。しかし、分からなくて良いのである。我々の注目しなければならないのは人間の働きではなく、御霊の働きだからである。

 2節を読む。「一同が主に礼拝を捧げ、断食をしていると、聖霊が『さあ、バルナバとサウロとを、私のために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当たらせなさい』」。

 どういう場面を思い描けば良いのであろうか。「一同が礼拝を捧げた」とあるのは、主の日の礼拝であろうか。そう読めなくはないが、みんなの者が集まっていた訳では必ずしもない。この一同と訳されたのは単に「彼ら」である。すでに見たように、これだけの説教者を持っている教会は何カ所にも礼拝の場所を持っていた。キリスト者全員が集まったとしたら、かなりの数になる。むしろ、1節に名前の挙がった5人の人たちの集まりと見てた方が良いではないか。それで不都合はないではないか。――実際、これだけの働き人がそれぞれの持ち場で精一杯説教をしたが、しかも、全体の一致が保たれたのは、指導者らがしばしば集まっていたからである。

 しかし、彼らが協議するために集まったとは考えないでおこう。彼らが論じ合ったことは事実であり、こうして計画は練り上げられたのであるが、そのことは今は差し置いて、ここで大事なことは主に聞く、また主から聞くべく主に問うということであった。それがここで「礼拝」と言われていることを読み解く鍵になる。その礼拝が特に真剣に問うべきことであったので、そのために断食したのである。

 この時の集まりで大事な点は、ここに主の御言葉と御霊が臨んだ事実である。だから、人がどれだけ集まって何をしたかは問題にならない。彼らは断食して礼拝をしていた。礼拝という言葉が使われている。ただし、主の日の、あるいは特別な祝日の礼拝であったと見る必要はない。

 断食するとは、何かをすることではなく、その日何も食べないことである。教会に集まって断食するというのは本来あり得ない。断食していることを人前に公表するのは、本来の信仰的断食とは別のもの、人々に訴えて目的を遂げるためのデモンストレーションである。そういうものとしては一つの行動であるが今は触れない。

 主イエスの弟子たちは断食をしなかった。主に対して「ユダヤ人がみな重んじている断食をなぜ軽視するのか」との非難があったことを我々は知っている。そういう事情は確かにあった。その時、主イエスは人々を躓かせることを避けて、「それなら我々も断食しようか」と言われたことはない。見せ掛けの断食をして人から尊敬されることを断固として拒否された。花婿の友人は花婿が到着した祝いの日に断食してはいけない。キリストを受け入れるとは喜びなのだ、と教えたもうた。

 ただし、花婿の取り去られる日には断食する、とも言われた。これは、キリストの受難の出来事と初代教会で行なわれその記念を守ることについて言われたものである。もっとも、受難週あるいは受難日に断食するようになったのではない。279節には「断食期」という言葉があるが、ユダヤ人の風習になっている断食期はあった。教会で断食が制度化されていない。使徒行伝のここに到るまでに、エルサレム教会においても断食という言葉を聞く機会はなかった。

 アンテオケ教会で断食をしたのは、ユダヤ教の風習を採り入れたことだと見る人もいるが、そうではない。キリスト教独自のものであり、臨時のものである。教会としては最初の教会的行事としての断食である。この後、1423節に教会ごとに長老を選んで任職する場合の断食が記録される。アンテオケから遣わされた伝道者が行なっていた任職儀式である。

 断食を人間のなす努力と理解する人がいるが、これは間違いを犯す恐れのある解釈である。たしかに、断食に際しては自己自身に打ち勝つ修練が重要であると言われる。だが、本当に大事なのは、自己の弱さを克服する努力ではなく、己れを空しくすることである。自分を空しくするから、主の語りたもう言葉がスーッと入って来る。

 2節の初めに戻るが、その日の「礼拝」は主の晩餐を祝うということであったかも知れない。想像が一人歩きしていると言われようが、そういう場面を考えても不都合はない。むしろ、そう仮定することによって、この場面が生き生きと輝き出すし、主の声がリアリティーをもって来るのではないか。そういう想像は許される。

 「聖霊が告げた」と書かれているが、目に見えないところから御霊の発する声が聞こえたということか。そのように考えなくて良い。語りたもうのは主キリストである。キリストの言葉を、御霊の器であり、御言葉の仕え人である預言者が語った。

 「さあ、バルナバとサウロとを、私のために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当たらせなさい」。

 二人が主によって指名された。二人は前からそのつもりであったのではないか。そうなのだが、ここでは彼らの志ではなく、主の指名が大事である。

 バルナバとサウロがエルサレムからマルコを連れて来る時、すでにこの伝道旅行が計画の中にあったに違いないことは12章の終わりで触れた。しかし、この二人が自分の既成方針を主に押し付け、同労者にも押し付け、自分たちを主の名によって送り出させたと考えてはならない。

 この二人が伝道の志に燃えていて、伝道計画を練ったことと、主が彼らを派遣したもうこととは、関連を持っているけれども、別のことであり、別のことでなければならない。主の声があって、そこにいる人々も主の声としてそれを聞いていなければならない。主の声を聞いていないなら、バルナバたちの思い込みの計画を受け入れて実行したということになってしまう。

 さらに言うならば、バルナバらの計画というのは、彼らがエルサレムから帰って以来、あるいはそれ以前から、アンテオケ教会の指導者たちの間で話し合われていたことであろう。彼らの意見は一致していたのではないかと思われる。しかし、人の意見が一致すれば良いのでなく、また主の確認の御声が必要だったというだけではない。いや、主が許可したもうたのでなく、主が命令されたことでなければならない。その御声を聞くために、臨時に断食して祈らずにおられなかった。

 主は「バルナバとサウロを私のために聖別せよ」と言われた。二人がまだ聖別されていなかったというのではない。信仰によってキリストを受け入れる者は、キリストの聖を受け入れて、聖とされている。聖なる者と言われている。その意味ではなく、ここでは使命遂行の賜物が与えられることを言う。神の代理人としての権威が与えられる。その賜物は特に聖なる賜物である。

 「彼らに授けておいた仕事に当たらせよ」。彼らに授けておいた仕事について、彼ら自身は知っていた。だから、バルナバとサウロの間では伝道のことが語り合われていた。アンテオケの人々の間でも知られていた。バルナバがどういうふうに計画を聞いたかは分からない。サウロの場合は回心して間もなく、このことが彼に伝えられた。すなわち、ダマスコのアナニヤを通じて、「あの人は異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、私の名を伝える器として私が選んだのである。私の名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを彼に知らせよう」という御言葉があった。

 サウロはその計画を実行していた。しかし、ここから本格的なことが始まる。だから、ここで聖別されることが必要である。

 「そこで一同は、断食と祈りとをして、手を二人の上に置いた後、出発させた」。すぐさま二人を送り出したのではないだろうが、それから準備を始めたと理解すべきではない。二人の用意は出来ていた。しかし、主が「行け」と言われなければ、出発してはならなかったのである。 


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