2007.02.04.

 

使徒行伝講解説教 第82

 

――12:20-25によって――

 

 

 ヘロデ・アグリッパの最期についての記事が20節から23節までに記される。これは教会の歩みと直接には関係のない、教会外の世俗的出来事である。むしろ、教会で大事なことと考えられているものと全く逆の性格を帯びたこの世の歴史の物語である。聖なる歴史を記す聖書に書き入れられたのは何かの間違いではなかったのか、と疑問に思う人も少なくないはずである。
 確かに、神の民が、神の言葉を宣べ伝え、また神の言葉を宣べ伝えた歴史を語り伝えて来た流れと異質のものがここには入っている。だから、大事なことだと強調して学ぶのは筋違いである。しかし、聖書本文から削除すべきだと言い張る潔癖さも独り善がりのものである。聖書の中で読まれて来た言葉である。
 この言い伝えと同じ主旨のものが教会の外の社会にあって、同時代のユダヤの歴史家ヨセフスが書物に書き留めている。ヘロデは人々の絶賛の中で、そして本人の得意の絶頂にあって、急死したのである。そのような言い伝えがユダヤの民衆の間に広まっていたのである。ユダヤ人教会の中でも同様なものが語り伝えられていたのであろう。それを、使徒行伝の記者ルカが拾い上げた。そういうわけで、教会とは関係のないことまでここには記されている。
 ヘロデについてすでに知っている以上に詳しく述べる必要はないと思う。彼についてどんなに調べたところで、我々の信仰が深められるわけではない。一種の教訓にはなる。生きている時は大きい顔をしていたが、その死にざまは悲惨で醜悪であった。このような惨めな権力者の実例は有り余るほどある。そういう実例をもう一つ多く知ったところで我々には何の益にもならない。それでも、使徒行伝が述べていることには、ざっと触れることにして置く。
 ヘロデはエルサレムとカイザリヤとに居所を構えていた。祖父ヘロデ大王の建てた、ギリシャ風の町カイザリヤ、ここで暮らす時間の方が長かったということである。ユダヤの王として、ユダヤ人から嫌われないようにしなければならないので、ユダヤ的なものを極力採り入れたと言われているが、それは便宜上のことで、心はギリシャ風のものを好んでいた。ユダヤ人の特に重んじる過ぎ越しの祭りがあったから、その時はエルサレムに滞在していたが、祭りが終わったので早速カイザリヤに戻ったということが19節から読み取ることが出来る。
 カイザリヤに行けば彼の生活は全面的に世俗の中に没入する。先ず政治である。華美な生活である。ツロ、シドンの人たちがヘロデの怒りに触れていたと書かれているのは、この二つの都市国家とヘロデの支配下のユダヤとがまずい関係になっていたことである。フェニキア人の建てたツロとシドンは非常に古い時代から、都市国家として独立していた。貿易によって立つ国で、全ての国との平和政策を採っていた。ダビデがイスラエルの国を築いたよりも以前からのことである。貿易立国だから経済力があって、ヘロデの言うままにはならなかった事情がある。その頃、ヘロデはツロとシドンに軍隊を送って攻撃しようとしていた事実がある。ヘロデはこの二つの都市の独立を武力で侵害しようとして、うまく行かなかったということであろう。ツロとシドンは武力で国を守るのでなく、外交交渉で対立を回避した。
 「ツロとシドンの人たちが一同うち揃ってヘロデを訪れた」とあるのは、市民がぞろぞろとやって来たということではでない。この両都市国家の政府の代表者たちが連れ立って交渉のために来たという意味である。関係がうまく行かないと困るのは、これらの都市が食糧をユダヤとガリラヤから買わなければならなかったからであると説明されている。この時代、大飢饉があって、特にユダヤ地方では酷かったということを我々は知っている。食糧を主としてユダヤから輸入しなければならなかったツロやシドンにとっては深刻な危機であった。とにかく、外交交渉に長けた外交官たちであったらしい。
 ヘロデの侍従のプラストという人については分からない。何らかの手づるがあって、それを介して和解交渉をしようとしていた。
 「定められた日に、ヘロデは王服を纏って王座に座り、彼らに向かって演説をした」。交渉の日がプラストを通じて予定されていたのである。
 この日の出来事については、使徒行伝によって伝えられているのと同じ事件であるが、違う話しとしても伝わっている。それは、ヘロデが劇場で演説したというものである。ヘロデの派手好みの人柄はこちらの方がよく現れていると思われる。
 さらに、この時のヘロデの衣装は、ただの王服でなく、銀糸を織った服であったという言い伝えがある。どうでも良いことではあるが、その方が事実に近いかも知れない。当時の劇場というのは全て野外の円形劇場である。銀の衣を纏って舞台に立てば、その姿は春の太陽の光を浴びて銀色に輝いたのである。派手好みと言うだけでは表わし切れない神々しさの演出である。
 この服装ならば、22節に書かれている「これは神の声だ。人間の声ではない」という叫びに符合するのである。ツロ、シドンの人たちがヘロデの声を神の声だと本当に感じたわけではないであろう。これは余りに見え透いた外交的お世辞の一種ではないのか。しかし、人の目を幻惑しようと視覚に訴える演出に嵌って、「さながら神のようだ」と感心した人ならいたかも知れない。
 主イエスが高い山に登られ、その衣が真っ白く、光り輝いた一瞬があることを思い起こす人があろう。三つの福音書ともこれを記し、ルカ伝では928節以下である。それと関係があると言うべきではないが、一般に、輝く衣は神性の象徴として用いられる。ヘロデは自分が神であるとは主張しなかったようである。ローマ皇帝の前では小さい君主に過ぎないことを彼自身は弁えていた。それでも、ローマ皇帝が人々に、皇帝は神である、と言わせる時代がそろそろ始まる頃であった。皇帝礼拝は権力で威圧して強制されただけではない。視覚に訴える演出が結びついていた。例えば、天皇が白馬に跨って現れると、人々は命令がなくても最敬礼したのである。
 ヘロデは民衆に向かって「私は神だ。私を拝め」とは言わなかった。彼は曲がりなりにもユダヤ教の信徒である。神以外のものを神としてはならないことは知っている。そのようなことを匂わせただけで、ユダヤ人の怒りを燃え立たせることも承知している。ただ、露骨に要求しないけれども、それを仄めかす演出をしたかったであろう。それが「神の声だ」と叫ばせる誘導になった。だが、その人の話しを聞いて、内容の崇高さや話術の洗練に感銘を受けることはあるが、その声を神の声と感じることがあるとは思われない。しかし、使徒行伝に書かれていないが、ヘロデがまぶしく輝く銀の衣を纏ったなら、「これは神々しい姿だ。神のような姿だ」と呟いてしまう人がいたということは十分あり得る。ヘロデはそれだけの細工の出来る人間であったらしい。
 テキストからハミ出したようなことを言ったようだが、主の使いがヘロデを撃ったという記述の理解を深めるためには、必ずしも的外れでなかったのではないか。使徒行伝の周辺のことに話しが広がったが、「神のみを神とせよ」との命令を、我々はつねに厳かに聞いていなければならない。チョットした心の隙に、崇高さへの不用意な憧れが入り込む危険があるのである。
 「神に栄光を帰することをしなかったからである」という下りは、一般に広まったヘロデ伝説としては、なかったであろう。これはユダヤ教にもそう考えはあったが、特にキリスト者によって書き加えられた註釈である。我々はその註釈を受け入れる。キリスト者ならどうするか。1414-15節には、バルナバとパウロがルステラでとった行動が例証として挙げられている。………
 バルナバとパウロは神々になぞらえられて、好い気になったのではない。また、そのように人間以上に高く持ち上げられた機会を利用して、伝道効果を上げる演説をしようとしたのではない。彼らは衣を引き裂いて自分を醜くした。
 ヘロデは忽ちに絶命したらしい。一刺しでヘロデを倒した虫が何という虫であったかは分からないし、知らなくても良い。こういうことは十分あり得た。虫に咬まれたことにも拘る必要はない。病気になって間もなく死んだとしても同じである。主の使いがヘロデを撃ったということは、単にあり得ることと見るべきではない。人はそこまで思い巡らさないであろうが、信仰者は神の御旨をここに見ないではおられない。
 ヘロデは表面的には神を信ずる者として振る舞った。それはユダヤ教徒の多数者の人気を博する方便であった。しかし、神の御心が何であるかについては何も考えていない。むしろ、ローマ皇帝の権力を別にすれば自分の意志が最高のものであると思っていたに違いない。そこで特に信念はないがキリスト教の衰滅を謀って、使徒ヤコブを斬り殺し、それがユダヤ人の多数者の喝采を浴びたので、次にはペテロを殺そうとした。この計画が破綻したのに、ヘロデは何も考えない。すなわち、神の手が介入していることに気付こうともしない。何も考えないで、サッサとカイザリヤに帰る。そして、何も考えないで、また次の喝采を浴びようとする。そして末路が来る。――同じ道を、同じように、自分の権勢を維持することしか考えないで末路を目指して急いでいる人が後を絶たない。神の前に己れを低くすることを考えなければならない。
 24節に「こうして、主の言葉はますます盛んに広まって行った」と書かれる。これは、67節にあるのと同じことばである。931節に、「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方に亘って平安を保ち、基礎が固まり、主を恐れ聖霊に励まされて歩み、次第に信徒の数を増して行った」と書かれているのも同様の響きを伝える。一つの段落をつけている。
 この24節がヘロデの最期と直接に結びつくかどうか、良く分からない。迫害者の悲惨な死を聞いて、人々が御言葉を熱心に求めるようになった、と言おうとしているのではないと思われる。ヘロデの死で文脈は一旦切れたと読むべきであろう。しかし、何が起こったにせよ、神の御言葉は広まった。これを阻むものはなかった。
 25節に移るが、ここに書かれていることは、時代としては前に書かれたヘロデと同じであるが、ヘロデの起こした迫害、ペテロの奇跡、ヘロデの急死と繋がりはない。しかし、このことが次の13章の初めと繋がっているわけでもない。バルナバとサウロが任務を果たしたというのは、援助金を届けたということである。金を持って行くのは、何かの問題処理のついでであったのではないか、と考えられもするが、よく分からない、
 彼らはマルコを連れてアンテオケに帰って行った。マルコについては、この章の12節で見た。信仰の両親に育てられ、信仰に熱心ではあったが、伝道者となるための訓練を受けてはいなかった。ペテロが一時的に姿を隠さねばならなかったエルサレム教会には、マルコを教育し・訓練する用意がなかった。すなわち、ペテロがいないならば、ここには神学的支柱はないと見られたようである。
 マルコという名では、1537節までその名を聞く機会はないが、1313節にはヨハネという名で出ている。パンフリヤのペルガに渡った早々、海外伝道の困難さに辟易してエルサレムに帰ってしまった。そのため、パウロから伝道者としての資格なしと判定された。バルナバの寛大さによってマルコは伝道者になり、良い働きをすることについては別の機会に見ることにする。
 今は、バルナバとサウロがエルサレムに滞在していた時、すでにマルコを連れて世界伝道に赴く計画を立てていたことを読み取って置こう。彼らは明日の教会を考えていたのである。

 


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