「ペテロはこうと分かってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大勢の人が集まっていた」。
ペテロは初め、夢を見ているのではないかと思っていた。が、目が覚めていることはハッキリして来るから、「主が御使いを遣わして私を救い出して下さったのだ」という真相を把握することが出来た。そこで、「主が御使いを遣わして私を逃がして下さったのなら、私は生き延びなければならない。私の不注意によって命を落としてはならない。何としても逃げてヘロデの追及を脱しなければならない」。主との関係を先ず考えた。
次に兄弟たちとの関係を考えた。教会の人たちに黙って逃げてはならない。教会が心配して祈っていることは分かっている。だから先に教会に行って、ことの次第を人々に報告しよう。それから姿を隠そう、と考える。この夜教会が受難週の集まりを守っていることをペテロは知っていた。
エルサレム教会は市内全域に幾つもの集会所を持っていたから、最も近い集会所に知らせて、そこから全体に報せが行き渡るようにした。牢獄から最も近い集会所はマルコの母の家である。後で触れるがマルコの母の家の場所は今も伝えられている。
マルコについては、この章の終わりにまた名前が出て来る。「バルナバとサウロとは、その任務を果たした後、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た」。すなわち、アンテオケに帰った。この記事はペテロの脱獄の物語りと別の文脈であるが、マルコという人は同一人物である。
バルナバとサウロがマルコを連れて行ったのは、補助伝道者として訓練するためであることは間もなく13章の13節で分かる。だから、今は詳しくは述べない。マルコは今触れた箇所から明らかなように、パウロの信頼を失う失態を演じる。そのため、第2回伝道旅行にパウロは連れて行かず、バルナバが連れて行く。それでも、とにかく、エルサレム教会の中で有望な青年であったことは確かである。
マルコの家のことをペテロは良く知っていたようである。その家の女中ロダとも親しく、彼女は声を聞くだけでペテロであると認定出来たほど親しかった。ペテロはマルコの母マリヤのことも良く知っていた。母は息子マルコをアンテオケに連れて行って、伝道者として訓練する、とバルナバたちが言った時、少しも反対せず、むしろ積極的に賛成であったと思われる。想像とはいえ、かなり確かな推定である。すなわち、この家は集会所に用いられていたから、家の女主人マリヤはエルサレム教会の中心的な働き手の一人であった。ペテロが知っていたのは当然である。
エルサレム教会の集会所が多数あった中で、マルコの家は特に重んじられたのではないか。少なくとも、早くから使徒たちの活動拠点として用いられていて、マルコの父親の代から集会所にされていたのではないか。さらに、最後の晩餐のあと、ゲツセマネまで一人の若者が身に亜麻布を纏って主イエスの一行のあとについて行って、ゲツセマネで人々が彼を捕まえようとすると、その亜麻布を置き去りにして裸で逃げて行ったという記事がマルコ伝14章51-52にある。この物語りはマルコ本人の記憶によるとしか考えられない。だから、この若者はマルコその人であると古くから言われている。
さらに言えば、主イエスが過ぎ越しを守りたもうた二階座敷、それはこの家にあったのではないかと想像する人も多い。最後の過ぎ越しの食事を守る場所を主イエスは決めておられ、午後には二人の弟子をそこに遣わして用意をさせ、御自身はそれ以外の弟子を連れて日没時にお入りになった。そして、その家の人は主の弟子の顔を知っていて、水瓶を目印として弟子たちを家に連れて行った。この二階座敷は、主の昇天をオリブ山で目撃した後、弟子たちが市内に戻って、泊まっている二階の間に集まったと使徒行伝1章にいうその二階座敷であって、これがその後も一貫して教会の集会所の一つであったことは、想像ではあるが、無理のない想像である。この場所に建てられた教会は現代まで同じ場所にあって、シリヤ教会の伝承を持っている。
ヨハネとも呼ばれるマルコは、福音書の著者であると古くから言い伝えられている。2つの名前があった。「ヨハネ」がヘブル名で、「ヨカナン」というのをヨハネと書いた。それにラテン語名「マルクス」があった。これはギリシャ式に「マルコス」と呼ばれていた。家でもヘブル名とギリシャ名とを使っていた。その家の女中は「ロダ」と言ったが、これはギリシャ語でバラである。この家は日常の言葉にはギリシャ語を用いたのではないかと判断される。
この家で集会が行なわれていたのは、その二階の広間であろう。「大勢の人が集まっていた」と書いてあるが、ここは公会堂ではなく個人の住宅である。昔そう多くの人は入り切れなかったはずである。ただ、エルサレムには、過ぎ越しの祭りの時、地方在住のユダヤ人が上京して祭りを祝うので、その人たちに二階座敷を貸す家が多かったようである。過ぎ越しはもともと家族単位で守る祭りである。家族挙げて上京することが実際上無理であるから、守り方は出エジプト記に規定されたのとは違って来たが、一頭の小羊を焼いて食べ尽くすという規定は動かせないから人数は決まって来る。そういう人たちが集まる部屋の広さも限られる。大集会が催されるような広さではない。
「彼が門の戸を叩いたところ、ロダという女中が取り次ぎに出て来た」。――日本で見ることが出来るような門構えの家を想像しては多分間違いである。門があって庭があって玄関があるというのでなく、門が直ちに玄関になっていて、入れば二階に上がる階段があったのではないか。
ロダは、姿を見ないうちに声だけでペテロだと分かったが、喜びの余り取り乱して戸を開けることを忘れ、みんなの所に駆け上がって人々に報せ、ペテロを家の外の危険に曝し置くという粗忽な失敗をした。それでも彼女はペテロが生きて帰った事実を認めた。他の人はペテロのために祈っていたはずだのに、ペテロが来ていることを事実とは認めなかった。
彼らはロダが気が狂ったと言う。ロダがそれでも言い張って止めないので、「それはペテロの御使いだ」と片付ける。「誰それの御使い」というのは、当時ひろく行き渡っていた考え方で、特定の個人や集団のために配属された御使い、所謂「守護天使」のことである。御使いは、特定の人の助けるため神が必要としたもう時、随時、自由に派遣したもうものであるから、これを考える人も自由に考えの枠を広げ、誰それのための御使いという概念を作ってしまった。
神が私のために御使いを遣わしたもう、という考えは確かにあるし、信頼を堅くすることである。だが、私のための、私物化された、私固有の御使い、というようなものを御言葉の根拠なしに空想することは正しい信仰からの逸脱であり、神への信頼を離れて迷信となるから慎まなければならない。
「ペテロの御使い」とは、ペテロについている御使いで、ペテロを代理して神の前に立ち、あるいは人の前に立つもので、ペテロ本人ではないという意味がある。こういう考えを正当化する必要はないから、詳しい説明はしない。
生身のペテロが戸を叩き続けるので、人々は議論を止めて戸を開けた。ペテロは手短に事の次第を語る。それは、先に本当のことを把握したと言ったその「本当のこと」である。そして、ヤコブその他の兄弟たちにこれを伝えるようにと言い残す。
「ヤコブ」というのは、先に斬り殺されたゼベダイの子、ヨハネの兄ヤコブではない。別のヤコブである。12使徒の中に入っておらず、後で教会に加わった。これが「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれていた人ではないかと思われる。「義人ヤコブ」とも呼ばれて尊敬された。この時のペテロの口振りからも、教会の代表者であるかのように受け取られる。事実、エルサレム教会の中では大きい影響力を持つに到った。21章18節を見ると、エルサレムに上ったパウロは、翌日ヤコブに挨拶に行っている。表敬訪問であろう。この時にはペテロはエルサレムを去って、もはや戻って来ることはなかった。
この人についてはいろいろ論ずべき問題がある。が、今はその必要がないから、主の兄弟という点について触れて置く。主イエスには兄弟も姉妹もいたと我々は思っているが、そうではないと言い張る人たちがいる。マリヤは終生処女だったと言うのである。懐妊の時処女だったとルカの福音書に書かれているだけであるが、教会では古代から終生処女と言われている。処女の胎を借りただけで、今日言う代理母による出産のような説明に我々は殆ど意味のないことと見るが、マリヤ崇拝をする人にとっては必死で守らねばならない真理のようである。
そこで、マリヤはヨセフの二度目の妻であって、兄弟姉妹は前の妻が生んだものであると説明される。そうすると主の兄ヤコブはかなりの年配者だったことになり、ペテロと並ぶ指導力を持ったとしてもおかしくない。だから、ペテロがこう言い残して姿を隠したのは納得出来ることになる。しかし我々はこういう話しが大事と思わない。ペテロの大事にするのは信仰者相互の交わりである。
ペテロが姿を隠したのは短期間であった。15章7節を見ると、エルサレムの会議で指導しているのはヤコブでなくてペテロである。
さて、15節に進むが、ペテロがいなくなったので大騒ぎになった。4人1組の番兵4組が見張っていたのに逃亡を許してしまったのだから、ヘロデは大いに立腹し、番兵たちを死刑にした。
ペテロを殺そうとしたのも、それによって民衆に取り入ろうとしたからであるが、それが思い通りに行かなかったので、腹いせに兵卒たちを無惨に殺す。罪に罪を重ねる。主の使いがしたことだから、兵卒たちの落ち度とは言えず、彼らを殺すのは理不尽ではないか。ペテロが助かったことは良かったと見るべきであろうが、そのことで16人の兵卒が殺される。その16人も悪の手先だから滅びて当然だったと言って良いか。我々はこれを一つの昔話として聞き流すべきではない。
権力者が人の生死を気の向くままに牛耳っている。兵卒たちは命令されたからペテロを監視したのであって、必ずしもペテロに対する憎悪の念を持っていたのではない。その人たちがヘロデの命令で殺される。不条理である。神が宜しとされたと軽々しく言ってはならないのではないか。
ここで二つのことを見なければならない。一つは、喜ばしい出来事が往々にして悲惨な事件と結び付いていることである。我々が「良かった良かった」と言う時、気付いていないかも知れないが、見えない所で同時に悲惨なことが起こっている。
このヘロデ・アグリッパの祖父に当たるヘロデ大王の時代にベツレヘムで嬰児虐殺が行われたことは有名である。メシヤがベツレヘムで誕生した。その居所を東の国から訪ねて来た博士たちが教えてくれるはずであったのに、黙って帰ってしまった。メシヤはどこに行ったか分からない。ヘロデは怒り狂ってベツレヘムにいる3歳以下の男の子を皆殺しにさせた。
メシヤは事前に御使いが夢でヨセフに告げた警告にしたがってエジプトに逃れて無事であったが、彼が生まれたことの喜びは、ベツレヘムの多くの家庭の泣き叫びと結び付いていた。そのような悲痛な叫びと、キリストの福音が結びついていることへの注意をここでも促されるのである。
もう一つのことがある。意のままに殺人をしたヘロデは、自らもまた虫に咬まれて死ななければならなかった。それは次回、22-23節で詳しく見る通りである。人を無雑作に殺していた者は、得意の絶頂にいた時、自らも無雑作に殺されたのである。神は適切に裁きたもうたのである。
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