12章で学ぶのは、教会に対するヘロデの迫害の様子と、迫害のもとにあるペテロに対する奇跡的な助け、そして迫害者の末路がどうなったかである。この物語りから、信仰者が耐え忍んで信仰を貫き、迫害に勝利しなければならないこと、主は御自身の民を、み力をもって助けたまい、また神に逆らう者に刑罰を与えたもうことの実際例による教訓を受ける。
そのような平易な教訓を読み取ることは勿論重要である。しかし、単に信仰の御利益の物語りとして読んで行くと、この出来事をただおとぎ話しとして聞くに終わる恐れがある。いや、教訓的という点を強調するだけだと、讀みを深めようと研究する人のうちから、これは教訓のための作り話ではないのか、との疑惑が生じることもある。実際、事実関係について調べてみると、他の記事と比べてハッキリしない点が目に付く。そのため、これを深く学ばないで聞き流す傾向がある。
ここに登場する「ヘロデ王」は、ヘロデ一族の中の「ヘロデ・アグリッパ一世」である。一族の聖書歴史との関連については今は触れる必要がない。アグリッパは若い時は放埒な生き方をし、それ故に落ちぶれたのだが、ローマ皇帝に願って王位を貰った。ガリラヤに加えて、サマリヤとユダヤを支配するようになった。では、サマリヤ、ユダヤ、ガリラヤに亘って教会に対する迫害があったのか。それはよく分かっていない。ここで読む限りでは、エルサレム教会に迫害が集中している。
ヘロデ王はユダヤ人の間での評判を気にして、ユダヤの宗教を大事にするよう努めたと言われる。それがキリスト教弾圧の有力な動機のようである。
ヘロデが「教会のある者たち」、すなわち教会をでなく、そのうちの或る人を圧迫したと書かれているのは、どういう人たちなのか。ヤコブとペテロの名は上がっているが、それ以外の人のことに何も触れていないから、教会の中のどういう傾向の人々が迫害の対象とされたのかは掴めない。
かつてペテロとヨハネが議会で尋問され、鞭打ちの刑を受けたことは4章で学んだ。この時の議会の措置が合法であったとは思わないが、議会の立場がどういうものであったかは分かる。教会は「主よ、いま、彼らの脅迫に目を留め、僕たちに思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。うんぬん」と祈った。議会は教会にキリストの御名によって語ることを禁じ、教会はその禁止命令に服しなかった。
ステパノの殉教に始まった迫害の場合も、理解できるとは言わないが、どうしてこうなったかは察しがつく。すなわち、キリスト者の中でもギリシャ語を語るグループに対する敵意が昂じていたらしい。それと比べると今回、「教会のある者たちに圧迫の手を伸ばした」と言われる迫害の実態が見えて来ない。この二人だけだったのかも知れない。そして、ヤコブとペテロがどういう傾向や主張を代表していたか分からない。むしろ、特殊な傾向はなかったと見た方が良いのではないか。
先ず殺されたのは「ヨハネの兄弟ヤコブ」である。17節に、ペテロが「ヤコブや他の兄弟たちに宜しく伝えてくれ」と言った、そのヤコブとは別である。「剣で斬り殺された」というのは、政治犯か何か王の不興を買うことがあったのであろう。だが、その理由、口実は分からない。悪事を働いたとか、治安を乱したというような理由でないのは確かである。クリスチャンでないユダヤ人から憎まれていたのは、個々の人物の振る舞いや人柄によってではなく、教会全体への悪意が募っており、教会の発展していることが憎まれていたからである。そこで、教会の中で指導力ある重要人物を斬り殺す。そうすると、ユダヤの民衆は満足したらしい。12使徒の中で最も指導的なのはペテロであり、次に年は若いが指導力があり、重要なことでペテロと並ぶ教会代表はヨハネである。そのヨハネの兄であるゼベダイの子ヤコブがその次に重要であった。ヤコブは12人の中の最も早くからの弟子であった。それで重要視された事情は或る程度想像がつく。
このヤコブが処刑され、そのことにユダヤ人が満足したので、調子に乗って、最重要人物であるペテロを民衆の前に引き出そうとしたらしい。それにしても、余りに理不尽ではないか。裁判に掛ける理由がないのである。ヘロデの支配の上にローマ総督がいる。総督の支配は、ピラトの裁判で分かるように、群衆の叫びでどうにでもなる好い加減なものであるが、それでも、ピラトは一旦主イエスを無罪であると宣告した。
「民衆の前に引き出す」というのは、ヘロデ自身が民衆の前でペテロの裁判を行なうことか。それとも所謂人民裁判やリンチに任せることなのか。それも分からないが、キリスト者が民衆から嫌われていたことは確かであろう。
ヘロデ自身にキリスト教会を憎む理由はあったのか。その点も分からない。ヤコブを斬り殺したことで民衆が喜んだから、民衆におもねるためにキリスト教迫害を進めるようにしたという解釈は成り立つ。そして、民衆は宗教上少数の別の意見を持つ人を、特に彼らが人目に立つ姿勢を取る場合、迫害しイジメる。そういう民衆の動向と権力の方針は容易に結び付く。ついでながら言うが、今はイジメの全盛時代で、信仰者が信仰の姿勢を目立たせているとイジメに遭う。目立たないクリスチャンであれば穏やかに扱われる。この問題について今日はこれ以上言わないが、エルサレムの教会が迫害された事件をよそごととは考えないで置こう。
12章はヘロデ王のキリスト教迫害を語って、終わりに近い23節でこの迫害者の思い掛けない死に説き及ぶ。迫害は短期間で終わったらしい。時期については「その頃」だと冒頭に書かれている。バルナバとサウロが飢饉救援資金を預かってエルサレムを訪問した頃である。だが、バルナバたちはエルサレムでこの事件に遭遇していないらしい。
ヘロデの死は44年である。こうして挿入部分は終わり、アンテオケ教会の伝道活動に戻る。この挿入部分は、その前後の記事と関係なく書かれたらしく、孤立した文章である。12章の迫害は使徒行伝の中で特別に扱った方が良い。
先に言ったように、ここから教訓を引き出すことは容易である。だが、そういう読み方に満足してはいけないとも言った。事件の表面を追って行くだけの読み方なら簡単に済むが、内容も簡単に受け取るだけで終わる。それでは実りが乏しいではないか。理解を浅く終わらせないためには、迫害される教会の側、その群れの中に身を置いて考えなければならない。
ヤコブが剣で殺されたことについて、具体的には何も分からないから、この件については深入りしないで置く。しかし、ペテロの逮捕と拘留についてなら、幾らかのことが分かっている。我々が聞き取りたいのは、彼の脱獄の奇跡物語りではない。確かに、神の許しなしでは一羽の雀も地に落ちない。ましてや主の教会の柱石であるペテロがムザムザと斬り殺されることはない。教会のまだ幼い頃、容易に絶滅させることが出来た弱い時代、主がそれを許したまわなかったことは十分心に刻むべきである。しかし、もっと大事なことに目を向けよう。
3節には「除酵祭の頃」と書かれている。祭りの気分が昂揚される時期を選んでヘロデは迫害を計画したのかも知れないが、こういう推察は今は取り上げない。4節には「過ぎ越しの祭りの後で民衆の前に引き出すつもりであった」と言う。ユダヤの暦がそのまま引き継がれた。6節では「彼を引き出そうとしていたその夜」と書いている。これは牢獄から引き出すことにしているその前夜という意味であろう。
一方、5節には「教会では、彼のために熱心な祈りが神に捧げられた」と言われる。これはペテロの逮捕を知って、教会は緊急に祈祷会を召集したということか。そのように受け取られるかも知れぬ書き方であるが、それは違う。ペテロの事件がなくても教会は集会を開いていたことを読み落としてはならない。すなわち「除酵祭の時であった」と念入りに語られているではないか。
除酵祭は1月14日から7日間に亘って種なしパンを食べる祭りである。その14日の夕が「過ぎ越し」である。ユダヤ人には最も重要な祭りであったが、キリスト教会はそれを引き継ぐ。今日のキリスト教に除酵祭の行事はないが、使徒行伝時代その季節は記憶されていた。3節に書かれている通りである。教会はその週の金曜日を主が十字架に架けられた記念日、それに続く週の第一日を主の復活の記念日とし、この一連の日々を初代以来教会は覚えた。ユダヤ人だから過ぎ越しを守ったというのでなく、キリストの受難と復活を記念するために守っていた。それはペテロの監禁以前から毎年実施されていた行事である。そこにペテロの逮捕・投獄が重なったのである。明日は殺されるらしいということも分かっていた。教会でペテロのために祈ったことは全く確かであるが、この集会はペテロの逮捕がなくても開かれたのである。
この夜が週の第何日の夜であったかを調べたい人があれば、調べることは出来る。計算すれば紀元何年なら何曜日、という答えは出る。しかし、その日付が「主イエスの渡されたもう夜」とピッタリ合わなければならないとは思わない。すなわち、キリスト者たちは恐らく連夜受難週の集会を守り、主の受難の事実とその意義とを確認していたのである。この年の受難週には、そこにペテロの投獄が重なる。
現代の、特に都会にある教会では、受難週を特別な期間として守ることに無頓着である。だから、12章に書かれている集会の空気は分からないかも知れない。しかし、「主の死を記念する」ことに一歩でも近づいて欲しい。主の死を記念するということは、主の死の記念日を守ることとは別である。ここで「受難週の行事をシッカリ守れ」と言われているように受け取ると、方向がずれる恐れがある。それでも、この時のエルサレムの教会員の気持ちに近づくためには、想像力だけでは難しいのではないか。
この年の過ぎ越しをキリスト者たちは切なる思いで守った。キリストの死とキリストに続く者の死を重ね合わせずにおられなかったからである。
この夜、ペテロが祈ったとは書かれていないが、彼も当然祈った。そして平安に満たされて熟睡した。一方、教会では寝ないで祈っていた。その祈りがどういう祈りであったかを良く考えよう。ペテロに迫っている死から免れることが出来るようにと祈っていたのか。それも勿論あった。しかし、そもそも受難週の集まりの祈りであったことを先ず踏まえて置きたい。
古く旧約の時代から、過ぎ越しの夜は神秘な時として記念されて来た。その夜、破滅を齎らす御使いがエジプトの家々を洩れなく訪ね、イスラエルの家だけを過ぎ越したのである。出エジプト記12章42節には「これは彼らをエジプトの地から導き出すために、主が「寝ずの番」をされた夜であった。故に、この夜、全てのイスラエルの人々は、代々主のために寝ずの番をしなければならない」と命じられている。
キリスト者もその夜、寝ずの番をした。旧約の信仰者が守ったよりもっと深い意味で寝ずの番、徹夜の祈りをした。すなわち、それは、「主イエス・キリストの渡されたもうた夜」であった。主はその夜、ゲツセマネで「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて、祈っていなさい」と言われたではないか。
使徒たちはその夜のことを決して忘れなかった。特に自分自身に向けて言われた言葉を、ペテロは忘れていない。「シモンよ、眠っているのか。ひとときも目を覚ましていることが出来なかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」。ただし、イエス・キリストが真の過ぎ越しを成就したもうたのであるから、この夜、徹夜の祈祷会を必ず守らなければならないわけではない。ペテロ自身は獄中で安らかに眠ったのである。しかし、エルサレムの教会は安穏と眠るわけに行かなかった。まさに寝ずの番である。ペテロのために祈らなければならないからである。そして、単にペテロが助かりますようにという祈りでなく、主の死と主に従う証し人の死を重ね合わせ、主の死を記念することの意味を深く噛みしめるとともに、「十字架を負って私に随いて来なさい」との御言葉を自分に向けられた言葉として聞く祈りであった。
寝ずの番をする夜、それは旧約の時から、滅びと救いの確認の夜であったが、この夜集まって祈っていた人たちは、夜半過ぎペテロの訪れに接し、言うならば一夜のうちに死と再生を見たのである。それはキリストの苦難と復活を示されることであった。
この時の教会の祈りの集会は12節以下で改めて学ぶが、マルコの家の集会だけを考えてはいけない。エルサレム教会は幾つもの集会所を持っていた。マルコの家はその一つであった。ペテロがヤコブや他の兄弟たちへの伝言を頼んだということは、他の集会所で集会する群れがいたことを示している。
ペテロの脱獄の次第を見ておこう。天使が現れて、ペテロを案内し、町に抜ける鉄門から送り出して消える。まるで、ヘロデの軍隊の中に、内通する人がいたかのようである。そのように考えたい人は、そう考えて良いのである。そのような合理的解釈をしては信仰と矛盾するのではないかと恐れる必要はない。その兵士は生身の人間であったが、まさしく主の御旨に従って御使いの役目を果たしたのである。主の力を軽く見てはならない。主はその教会のために、今も寝ずの番をしておられる。
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